いま一度「染色」を読む ―舞台「染、色」にむけて―

 原作・脚本を加藤さんが務める舞台「染、色」が発表されました。嬉しい限りです。加藤さん忙しいな!

 原作である「染色」(『傘をもたない蟻たちは』収録)は、加藤さんの作品の中でも個人的に一番好きな作品のひとつなので、改めて読み、改めて考え、改めて言葉にしたいなと思ったのでこの記事を書いている次第です。「染色」を紹介する記事ではなくて、私にはこういうふうに読めたよ、という記事です。

 主演である正門くんのファンの方であったり、これを機に「染色」が気になっている方に向けて書くという意味合いも含みます。勿論、いち読者の感想であり、読み方の正解/不正解を示すものではありません。こういう話だと捉えている人もいるんだな、程度に読んでもらえれば幸いです。

 

 

 

・はじめに

 「染色」については既に数回書いているので、今回は「関係」という部分にフォーカスを当てて書きたいと思っています。

 過去に書いていた記事は以下の通り。

 「染色」の文章の表現(特に「嗅覚」を用いた表現)について言及している記事

penguinkawaii.hatenablog.com

 

 「染色」の物語としての感想の記事

penguinkawaii.hatenablog.com

 

 

 

・二人いれば「関係」が生まれる

 ひとが一人しかいないところに「関係」は生まれない。二人いれば、否が応でもそこに「関係」が生まれる。「染色」でいえば主人公・市村と美優の関係、そして市村と杏奈の関係。

 

 「関係」はいろいろな分類ができる。最近私が考えているのは、それが「出会った関係」なのか「出会わなかった関係」なのか、ということだ*1

 ひとが二人いただけでは「出会った」とは言えない。物理的には出会っている状態であっても、心理的には出会っていない状態というのもありうる。顔を合わせていても、言葉を交わしていても、心が相手を向いて相手そのものを捉えていなければ、それは「出会った関係」とは言えない。お互いに心ごと向き合ってこそ「出会った」と言えるのだ。

 では、市村と美優の関係から考えてみる。どこか冷めた日々を送っていた市村は、居酒屋で腕をスプレーで染めた美優を見かける。そしてその後、グラフィティアートを描いている美優を見つける。それからは二人でグラフィティアートを描くようになり、美優の部屋へ通い詰めることとなる。一時は話題を集めるが、美優が海外行きを決めたことで関係は終わりを迎える。この二人は、果たして「出会った」のか。私としては、二人は「出会わなかった」のだと思う。この物語は主人公の一人称で語られているので、市村が美優をどう捉えていたのかはわかるが、美優が市村をどう捉えていたのかは直接はわからない。けれど、二人が会う場面には必ずアートが絡んでいることを考えると、互いがもつ芸術という側面しか捉えていなかったように思える。市村から見れば美優は冷え切った現実を打ち負かす力をもった「理想」を象徴する存在だったのだろう。あまりに眩しい「理想」ゆえに、彼は手にする勇気をもてなかった。市村が見ていた美優は「理想の世界」と同義だったのだと私には読み取れた。一方、美優は市村に「理想」を見ていたわけではない。その後の彼女の作品がグラフィティアートとは遠くかけ離れた作品であると描写されているところからも、そう思える。では何を見ていたのか。私は、美優にとっては市村はキャンバスのひとつに過ぎなかったように思えた。彼女の部屋にいくつもある描きかけのキャンバスの、そのひとつ。作品を完成させるのが苦手だと言っていた彼女が、ともに数々のグラフィティアートを描き上げることでつくりあげてきた作品のひとつ。優等生の座が陥落したという生割面(あるいは優等生たらんとする精神面)での変化、杏奈に言及された彼自身のアートの変化から、美優のもつ「色彩」が数々の作品と同様に市村を染めていたことがうかがえる。ともにグラフィティアートを描きながらも、二人の関係は決して対等ではなく、画家とキャンバスのような関係性だったのではないだろうか。ロンドン行きを決めたとき、「一緒に来る?」とは聞くものの、「なわけないよね」と付け加えている。一緒に行く気がないとはいえないが、一緒に来るとは思っていなかったのだろうな、と思う。市村と美優は、やはり「出会わなかった」のだ。いくら体を重ねようが、濃密な日々を過ごそうが、二人は「出会わなかった」。

 次に、市村と杏奈の関係。美優との関係に比べて描写が少ないので、杏奈が市村をどう思っていたのかを想像するのは少し難しい。市村のことを好きでいるのだろうとは思うけれど、それ以外のことは想像しがたい。一方、市村はというと、杏奈との関係に冷めた部分がある。美優とのセックスの描写に比べて杏奈とのそれが淡白なところからも、「久しぶり」という言葉が繰り返されることからも、杏奈の存在をどこか疎ましく感じている様子がうかがえる。市村にとって、美優が「理想」であるとするなら杏奈は「現実」を象徴している。美優というイレギュラーとは違い、杏奈の存在はレギュラーな日常のなかにある。杏奈と向き合ってしまえば「現実」を直視しなければならなくなるから、市村は杏奈を見ようとはしない。双方が相手そのものを捉えてこそ「出会った」と言えるのだとすれば、市村と杏奈もまた「出会っていない」関係だ。「出会わなかった」ではなく「出会っていない」と表記したのは、物語のラストで市村が杏奈に電話をかけるシーンがあり、そこでようやく「出会う」かもしれないからだ。「出会った」とまでは言い切れない気がするけれど、これから「出会う」可能性はある。美優=「理想」に去られたことを受け入れた市村は、自分に残された「現実」と出会う。

 

 

 

・「関係」が蠱毒をつくる

 「関係」について整理したところで、今度はその「関係」がもたらすものについて考えてみたい。

 蠱毒とは、壺のなかに毒をもつ蛇などを複数入れて共食いさせ、最後に残った一匹を呪詛に使ったりその毒で危害を加えたり……というもの(詳しくは検索してください)。私は、「関係」とは蠱毒をつくるものだと考えている。相手に対する感情を壺のなかに入れていくと、最後には強い毒が残るような、そんなイメージだ。毒となりうるのはなにも負の感情だけではない。相手への憧れ、尊敬、愛……それらも十分に毒となりうる。それが強い感情であれば、毒となってしまうことも十分にある。

 「出会った関係」でも「出会わなかった(出会っていない)関係」でも、どちらも蠱毒をつくっていることに代わりはない。勿論、感情を制御することで毒になってしまわないように気を付けることはできる。実際に多くの人がそうしているだろうし、私もそうしている。問題は、蠱毒が完成してしまったとき、壺のなかに最後に残ったその毒をどうするか、ということだ。

 私は、市村と美優の関係は、市村の側から見れば蠱毒を完成させてしまった(あるいは完成はしていないものの、強い毒として残ってしまった)ように思える。だからこそ、美優を失った市村は苦しむことになる。とはいえ、二人は「出会わなかった関係」なので、壺のなかに溜まった感情は市村が美優に向ける一方的な感情でしかない。彼女(あるいは「理想」)に向けた強すぎる感情が、最終的には強い毒として壺のなかに残ってしまった。

 市村はしばらくその毒に気付かないふりをしていたけれど、卒業式の後に飲み屋で美優のポストカードを見かけて思い出してしまう。月光のはいる美優の部屋で市村がしようとしたのは、美優と過ごした日々の再現であり、手にする勇気をもてなかった「理想」を汚す行為でもあるように、私には受け取れた。画材のない部屋では絵を描くことはできないが、あの部屋でしていたことは絵を描くことだけではなかった。もしあの場で絶頂に至ることができたなら、美優が市村に残していったものを再確認できたかもしれない。しかしそれは毒を自分で飲み干す行為にもなりうるかもしれないし、今ここにはいない美優に毒をぶちまけようとする行為にもなりうるかもしれない。しかし、彼にはできなかった。「現実」を受け入れる前、塗料の匂いに縋っていたときはまだ、毒の入った壺をもったままでいた。杏奈に電話をして、彼はきっとあの部屋に毒を置いて去るのだろう。あるいは、壺を自分の家の庭にでも埋めてしまうように、「現実」のなかに生きながらも「理想」のことを思い出してしまうのか。そこまでは描かれていないから、どちらとも言い切れない。どちらでもいいなと思うけど、どちらかというと私は後者のほうが好みかな。

 

 

 

・おわりに――「関係」を描く一環として

 繰り返し書いたが、二人いれば「関係」が生まれる。その「関係」を描写するときにさまざまな言動が用いられ、その一部に性描写が含まれることもありうる。

 『傘をもたない蟻たちは』が発売された当時も「アイドルが性描写を書いた」ということで話題になり、そればかりが取り上げられていて少しうんざりしていた。『傘をもたない蟻たちは』に含まれる性描写というのは、読む本にもよるけれど小説を読んでいれば出てくる描写のひとつだ。恋愛小説、純文学、SF、ジャンルに限らず。恋人同士あるいはそれに準じる関係性などを描く一環として、性的な描写を含むことは不自然なことではない*2。 

 確かに性描写は目を引く部分ではあるし、それを売りにする作品もある。けれどこの作品は性描写(あるいは性描写により読者の性的欲求を喚起すること)に主眼をおいて書かれたものではないと、いち読者として思っている*3。「アイドルとしてはためらう内容でも、自分の書きたいものを制限なく表現するためには、過激な描写は必要だった」*4と作者である加藤さんは語っている。

 とある青年が「理想」と「現実」のあいだで揺さぶられる話にも読めるし、恋愛小説として読むこともできるし、文章や構成の美しさが光る作品でもある。この記事で書いてきたように「関係」に注目して読むこともできる。なんの作品も書いたことのない身で言うのも違うとは思うものの、読み手の数だけ受け取り方があるものだと思っている。

 

 もしこれを読んでいるあなたがまだ「染色」および『傘をもたない蟻たちは』を手に取っていないのであれば、是非読んでみてください。どんな本でもそうですが、一部のみを抜き出して読んだり、書評記事のみで読んだ気になるのは勿体ない。あなた自身が読み、あなた自身が考え、あなた自身の言葉でこの作品を語ってほしいと、ひとりの本好きとして思います。

 

 

傘をもたない蟻たちは (角川文庫)

傘をもたない蟻たちは (角川文庫)

 

 

 

 長々と感想を書きましたが、これはあくまで小説「染色」の感想です。舞台版は小説とは内容が違うことを原作者であり脚本も務める加藤さん自身が仰っています。そしてタイトルの微細な変更がそれを示していることも言及されています。

 舞台で上演される「染、色」、とても楽しみにしています。チケットは当たる。

*1:この「出会った」「出会わなかった」という言葉は、槇原敬之さんの「Penguin」という楽曲の「話もしてキスもしたけど 出会わなかった二人」という歌詞から着想を得たもの。

*2:ここでいう「不自然ではない」は文字通り不自然ではない、という意味にすぎず、恋愛関係にあるすべての人たちが必ず性行為をする、という意味ではないです。

*3:作品中の性描写によって性的欲求が喚起されることは勿論ありえます。ただ、それを目的として書かれているかどうかという話です。

*4:NEWS加藤シゲアキ「過激な描写が必要でした」小説家として新たな才能を開花させた初の短編小説集『傘をもたない蟻たちは』6月1日(月)に発売決定!|株式会社KADOKAWAのプレスリリース