加藤シゲアキ作品 読書感想文フェスティバルに応募した感想文たち

 タイトルの通り、加藤シゲアキ作品 読書感想文フェスティバルに応募した感想文たちを自分で読み返す用にまとめました。

 

 

 他にも素敵な感想文がたくさん集まっているので是非!

shigebookfes.hatenablog.jp

 

 

 

 

『ピンクとグレー』
わがままで、切実で、とても残酷な 

 誰かのことを「わかる」と思ってしまうこと、「わかりたい」を通り越して「わかるはずだ」「わからなければいけない」と思ってしまうこと。親から見た子ども、ファンから見たアイドル、恋人、あるいは親友という言葉で結びついた相手のことに対し、時として「わかる」という錯覚に陥る。そう、錯覚。

 終盤、白木蓮吾を演じるりばちゃんが追いかけていたのは、ごっちそのものではなく彼の解釈に基づいて再構築されたごっちだ。けれどりばちゃんは気づかない。最初はそれが自分の妄想なのかどうか疑問を持ったのに、だんだんと飲み込まれていく。自分の目に映っていたごっちこそが本物であり、だから自分は彼の内面に入っていけるのだと信じている。

 誰かのことを「わかる」ことなどありえない。「わかろうとする」ことはできるし、その努力をすることがコミュニケーションなのだと思う。けれど、「わかる」ことはないのだ。私は他の誰でもなく私だから。私が思ったことや考えたことは、表に出さない限り誰にもわからない。けれど、りばちゃんはごっちが思っていたこと、ごっちしか知らないはずの思考すら、わかったつもりになってしまう。ごっちをトレースする自分が考えていることがそのままごっちのものだと思い込んでしまう。

 ごっちが死んでしまった以上、彼とのコミュニケーションはできない。周囲の人からどれだけ彼の話を集めても断片でしかなく、彼そのものにはなりえない。けれど、ごっちを強く求めるりばちゃんには、断片を継ぎ合わせて自分の手でこねくり回したそれがごっちに見える。否、そこにごっちを見たいのだ。生きている彼とは、心を通わすことが叶わなかったから。

 そんなふうに強烈に相手を求めることができるのは、ある意味では幸せなのかもしれない。自分の身を投げ出してしまえるほどの海が、りばちゃんにはあったのだろう。

 ラストシーンでりばちゃんが見たのは、強烈な執着がつくりだした楽園だ。そこに辿り着くことができるのは、重たすぎるほどの感情を抱えた者だけ。りばちゃんがごっちと過ごした日々は、その感情を醸成するに足るものだった。一緒に過ごした日々はごっちに彩られ、決別してからの日々もごっちに囚われている。常にふたりで過ごし、この先もずっとそうだと思っていたから、りばちゃんの中に「決別」という選択肢はなかったのだろう。本物のごっちが遠ざかっていった以上、自分の中のごっちと共にあることを選んだのだ。

 どうして、と思ってしまう。そんなに相手のことを必要だと思うなら、どうして話ができなかったのだろう。だけど、それが人間らしくもある。りばちゃんはどうしようもないまでに人間で、なまぐさいほどに人間のにおいを放っている。相手のことを「わかりたい」という欲求も、「わかる」という勘違いも、痛いほどにわかる。私も人間だから。私も愛する人を「わかりたい」と願ってしまう。私は他の誰でもなく私である以上、私以外の誰のこともわかりはしないのに、その制約がひどく重たいものに思えることがある。このつらさから解放されたのが、ごっちを「わかる」と言い切るりばちゃんなのだろうか。

 一人称で物語を書く以上、他の誰かの視点を取り込むことは難しい。この物語はどこまでもりばちゃんの視点で描かれている。ごっちが本当は何を思っていたのか、周りの人がごっちを追い求めるりばちゃんに何を思っていたのかは、わからない。だから少しだけ意地悪なことを思ってしまう。あなたにごっちの何がわかるの?ごっちがあなたに求めていたのは本当に「それ」なの?と。きっとりばちゃんには通じないだろうけど。

 久しぶりに読み返して苦しくなった。こんなに苦しい話だっただろうか。確かにラストは美しい。だけどこの美しさは、破滅するものだけがもつ美しさだ。これをハッピーエンドだと思うことは、今の私にはどうしてもできない。

 以前読んだときには、ごっちとりばちゃんの関係に友情しか見えていなかった。改めて読んでみると、エゴに満ちていることに気付く。ごっちのことを「わかる」と思いたい気持ちで溢れていて、窒息してしまいそうだ。誰かのことを「わかる」と思うこと。それはわがままで、切実で、とても残酷な感情。

 私が読んでいたのは、こんなにも美しい地獄だったんだね。 

 

ピンクとグレー (角川文庫)

ピンクとグレー (角川文庫)

 

 

 

 

 

閃光スクランブル
うたえ人間讃歌 

 この作品に描かれる女性アイドル・MORSEの面々に恋人がいるらしい場面をみると、彼女たちは「人間」なのだと思わされる。恋人がいることが「人間」らしいというわけではない。好きな人を好きでいたい、あるいは好きな人に好かれたいという、その欲求自体が「人間」だと思う。好かれたいという欲求は、特定の相手だけでなくファンという不特定多数へ向くときもある。ファンの思いに応えようとしすぎてアンチのコメントばかり気にしてしまっていた亜希子の行動も、彼氏との関係に一喜一憂するミズミンと同じように「人間」らしく感じる。

 巧のように、世捨て人のような心で偽悪的に生きることもまた「人間」だ。彼が撮るゴシップ写真を喜ぶ人たちも「人間」。亜希子に対してアンチともとれるコメントを書き込みたいと思ってしまう気持ちも、復活ライブにて亜希子の登場を喜びペンライトを振る気持ちも、彼らが「人間」であるから生まれる感情だろう。

 様々な意味で、この作品は「人間」のにおいがする。

 これこそが芸能界のリアルだとは思わないし、リアルを描こうとしたわけでもないだろう。エンターテイメントに寄せたフィクションであることは伝わりすぎるほど伝わる。登場人物たちも登場人物以上の意味をもたない。言葉を選ばずに言うと、この作品は他の加藤シゲアキ作品と比較したときに登場人物も話もどこか起伏はあるが立体的でないように感じられる。こんな人はいないしこんなことも起きないよ、と平坦だが立体的な世界に生きる私は思う。それでも、この物語からは「人間」のにおいが色濃くかおる。

 沢山の人が行き交う渋谷の交差点。私がそこに立っていたとして、私以外の人がどのような人生を送ってきたのかは私にはわからない。しかし、彼らにも人生がある。待ち合わせに急いでいる人、楽しそうに話しながら歩く人、手元のスマホを見たままの人、イヤホンから流れる音楽に身をゆだねている人、あるいは、あるいは。そんな人々の間で、ダリアの花束を持つ女。それを撮る男。あの撮影のシーンは、この物語のクライマックスにふさわしい。

 私が満天の星空にリアルを感じないように、人が過密でない地域で暮らしている人にとっては、渋谷の混雑はフィクションの風景のように映るかもしれない。しかしあれは実際に存在する風景だと、東京に暮らす私は知っている。

 そこに沢山の人がいるということ。そこに沢山の人生があるということ。それらが互いに関係することなく――しかし一瞬、確かにすれ違う。「人間」を描くこの物語のクライマックスがそこにあるのが、とても美しい。シャッターを切る指先が一瞬を永遠にする。行き交う人々の一瞬を、写真の中に閉じ込める。

 この作品が伝える「人間」は登場人物だけにとどまらない。作者も、そして読者も「人間」だと訴えてくる。少し読んだだけでもつくられた物語であるとはっきりわかるし、つくろうとした物語であることもわかる。勝手に生まれてくる物語というよりも、構築することに力を注いでいるような印象を受ける。そういうものが伝わってくるということは、作者が「人間」であることの証だ。そして作者が「人間」であると感じられることこそ、読者である私が「人間」であることを証明しているのではないかと思う。この作品を読んで、ああでもないこうでもないと思うこと。それは、私が「人間」だからできることだ。

 僕は死ぬように生きていたくはない、と繰り返し歌う。

 この作品は、人間讃歌だ。あなたも私も、生きている人も、死ぬように生きている人も、閃光のごとく生きた人も、すべての人間に幸あらんことを。 

 

閃光スクランブル (角川文庫)
 

 

 

『チュベローズで待ってる』
 あなたと私の、「私」の話

 この物語は、「私」の物語だ。いくつもの「私」がぶつかり合い、互いに主張している。様々な場面でそれを意識させられる。

 たとえば、「私」の目にうつる世界は、あなたの目にうつる世界とは違うということ。そんな簡単なことを、時々忘れそうになる。私には私の見ている世界しか見えないから、それがすべてだと錯覚してしまいそうになる。『チュベローズで待ってる』を読んでいると、そういう錯覚を随所に感じる。

 物語は主人公である光太の視点で語られているので、上巻を読んだ時点で彼が美津子をどう思っていたかがわかるが、チュベローズに通う彼女が幸せを感じていたなんて思っていなかったように読み取れる。美津子が光太との時間に幸せを見出すようになり、それが死ぬ理由となったなんて思わなかっただろう。美津子のことが少しもわからなくて、それでもわかりたかったから、追いかけるように仕事をしたし彼女の死んだ部屋に住み続けた。

 また、光太が自分を思うようにコントロールできなくなる様子も「私」の揺らぎを感じる。暴力的な自分に戸惑いを感じるのは、光太の「私」が揺らいでいるからだ。本来の自分はそうではなかったはずという揺らぎ。そういった事象は、自覚している本来の「私」というものがあるから生じる。揺らぐべき「私」がなければ起こるはずはない。決して明るくはない彼がホストとして上手くやれるようになったのは、これは「私」の揺らぎではなく変容、あるいは拡張だと言えよう。

 もしあのまま美津子が生きていたら、光太はあんなに強くなれなかっただろうし、美津子も弱くなってしまっていただろう。生きることは、いろんなものを鈍らせる。その一方で、死とは完成のひとつの形態である。もうそれ以上先がない。これ以上幸せになりようがないと思っていた美津子が、光太に出会って幸せを見つけてしまった。その幸せに縋りつくことだってできたはずなのに、彼女はその幸せを永遠のものにすることを選んだ。死ぬことで、光太を愛していたということを証明したのだ。他でもない、自分自身に。これもまた「私」というものがそこに強くあるということを感じさせる場面のひとつだ。

 もし美津子が光太以外の誰かを駒に選んでも、きっと死を選んだのだろう。でも、それでは意味が違う。復讐の過程で必要な手順であったり、世界に絶望したという理由ではなく、彼女は愛の証明のために死んだのだ。他の誰も意味を見出さなくても、美津子には意味があった。彼女自身が「わがまま」と自覚しているように、とても自分勝手で、それゆえに心惹かれてしまう。

 自分勝手なのは美津子だけではない。光太もそうだ。美津子を振り回した八千草兄弟もそうだし、自分の事情で光太をホストの世界に引きずり込んだ雫もそうだし、水谷も亜夢もそうだ。他人の家族の話に自分の意見を割り込ませる恵もだし、誰も彼もがそう。美津子を振り回していると思っていた光太も。自分の見ている世界を、それが「世界」そのものだと思い込み、時折それが事実でないことを思い出しながら、生きている。世の中というのは、そんな人間たちの「わがまま」のぶつかり合いだ。人間と人間の。私と、また別の「私」の。

 みんな、自分のために生きている。よりよくあるために。よりよく生き、よりよく死ぬために。でもそれは、自分を大切にしている証拠でもある。自分のことが大切じゃない人は、自分のためには生きられないし自分のためにも死ねないはずだから。この物語に出てくる人たちは、みんな自分が大切なのだろう。それは人として正しいと思う。自分勝手ということは、すなわち悪いこととは言えない。悪い面は確かにあるとしても。

 「無私」という言葉があったとして、誰かのためになんてことは、本当はないと私は思う。誰かのためにと思う自分のためだ。そこにはどうしたって「私」がつきまとう。私の目にうつる世界が私にしか見えないのも、「私」に囚われているからだ。しかし、「私」という檻から逃れて生きる術はない。

 我々は「私」からは逃れられない。美津子が、八千草兄弟が、雫が、水谷が、亜夢が、そして光太がそうであるように。

 あなたも私も、自分が一番かわいい。それでいいじゃない、と思う。それを肯定してくれるのが、この『チュベローズで待ってる』だ。それでいいじゃない。だって私の人生だもの。

 

チュベローズで待ってる AGE22

チュベローズで待ってる AGE22

 
チュベローズで待ってる AGE32

チュベローズで待ってる AGE32

 

 

 

 

 

 加藤さんの作品を読んで思うのは「人間ってわがまま!でもそれが人生!」みたいなところが強いのでどれもそこに寄った感想になってしまいました。それが言いたいことかはおいといて、私が感じ取ったのはその部分なんだな~って実感しました。

 今回は「批評」や「論じる」という観点をほぼ封印し、純粋に「どう思ったか」という感想のみに焦点を当てました。

 加藤シゲアキ作品について考える機会を与えてくれた感想文フェスティバルに感謝!