また会えるまで忘れないで ー「madoromi」解釈・感想ー

 単純に音源で聴いていた時点では、正直そこまで入れ込むほど好きな曲ではなかった。嫌いではないけれど、取り立てて好みではなかったというか。私は派手でうるさい曲が好きなので、この曲のシンプルなオケとシンプルな歌割(ユニゾンがない)の良さに気づいていなかった。でもコンサートで聴いて印象が一変した。こんなにも多様な解釈ができる歌詞だったのかと驚いた。短くて抽象的な歌詞に、こんなにも想いが詰まっているなんて。もちろん、私の勝手な勘違いのような解釈なのだけれど、曲は聴き手に渡ったらある種聴き手のものでもあると思っているので、主観100%で書いています。

 コンサートで初めて聴いたときの感想に、オーラス後の気持ちも付け加えて、メモとして残しておきます。

 

NEWS madoromi 歌詞 - 歌ネット

 

・歌詞の多様な解釈、そのいち

 歌詞には「君」と「僕」の関係を示す明確な言葉はなく、というか具体的な描写が全然なくて、多様な解釈が成立するようになっている。関係性はおろか、どういう状況なのかということも多様な解釈ができる。決して言葉数は多くないが、多くないからこそひとつの歌詞で様々な世界を表現することができる。歌詞ってすごい。
 単純に考えるともう二度と会えない別れを迎えた(おそらく死別)恋人同士といった関係性が妥当かなとも思うし、そうではない可能性だっていくらでもある。私は最初に聴いていたときはなんとなく、親子のような関係性を思い描いていた。去っていく親と、残される子。
 私は歌詞においては「僕」「君」といった人称代名詞はそこに性別は含まれないものとして考えていることが多く、これから語ろうとしていることについても「僕」が男だとは断定しない。私としては、「僕」はこの世界から去っていく親の心情であり、「君」は親のいなくなったこの世界に残される子どもなのではないかと思っている。親子の年齢層までは断定しない。それもまた、自由に幅を持って解釈できるものだと思う。
 なぜこの世界から去っていくという解釈になるのかというと、全体的に漂う「もう会えない」という雰囲気もそうだし、個人的には最初の「朝が迎えにきた/空に浮かべた 船に乗って」という部分により強くそう思う。「船」というのは、空に見える「月」をたとえているように思える。特に三日月なんて、船のかたちのようにも見える。太陽は文字通り「陽」であり、月は「陰」。ひっそりとした死のイメージをまとっている。夜のあいだに出ている月は、朝を迎えて明るくなっていくごとに見えなくなる。きっと「僕」も、朝を迎えてその命を終えるのではないかと、なんとなくそんな気がする。それと、余談ではあるがポルノグラフィティの楽曲「月飼い」も、月を船にたとえてそこに乗る「君」を見送るような歌詞になっている。その影響もあって、私のなかでは空に浮かぶ船といえば月で、月の船は亡くなった人を送るためのものだという解釈をしがちなところもあるかなとは思う。
 「幻が醒めてしまうまで/せめて グッバイ ah グッバイ ah」という歌詞。「幻」が醒めるまでのあいだなら、別れの挨拶を伝えることができるという意味のように感じられた。現実には言葉として伝えることができなかった別れを、夢の中では伝えることができるのではないだろうか。たとえその別れの言葉に「君」が涙を流しても、その涙は明日へとつながるものになる。
そしてなぜこの曲の「君」と「僕」が親子に思えるのかというと、「僕」が「君」へとても深く、そして恋ではない愛を向けているように思えたからだ。あるいは「僕」が不在の世界での「君」の幸せや成長を願っているようにも見えた。特に二番の「君と出会えた日は/いつになっても宝物さ」という歌詞。恋人になる相手との出会いの瞬間を宝物だと思う人も勿論いるだろうけれど、私にとっては「子どもが生まれた瞬間」のように感じられた。私はその瞬間を迎えたことがないけれど、もし子どもを生むことがあるとしたら、きっとその瞬間は忘れられないものになるだろうと予感している。それこそ、「宝物」と思えるほどの出会いになるだろうと思っている。どれほど時が経っても、この世界から去りゆく際であっても、「僕」にとってそれは変わらず「宝物」で蟻続けるのだ。
 そう考えたら、「君を好きなこと/また会えるまで 忘れないで」と歌うのも、親から子へ向けた愛のように見えてくる。たとえ誰が「君」を愛さなくても親である「僕」は「君」を愛している、と思いたいがゆえの解釈なのかもしれない。私は別に親に愛されなかったわけではないけれど、親の思う愛と私の思う愛が異なっているという場面には何度も遭遇した。だから余計に、私の親がこの曲のように深い愛をもって私を思ってくれていたらいいなという気持ちと、私にもし子どもができたらこの曲のような深い愛をもちたいと思う気持ちの表れなのかもしれない。でも無理のない解釈として成り立つし、こういう考え方もありなんじゃないかなぁと思う。

 

・歌詞の多様な解釈、そのに

 で。コンサートで聴いたときには上に書いたような解釈とはまた違ったように感じられた。私が入った席はこの曲を歌っているときにNEWSが目の前にいるブロックだったのも大きいが、コンサートで聴いた「madoromi」は、アイドルからファンへの思いのように感じられた。

 どんなアイドルも、アイドルでいる選択をしているから、アイドルとしてステージに立っているのだと、推していた女性アイドルが卒業するときに思った。選択肢は、決してひとつではない。いくつもの選択肢の中から、彼ら/彼女らは「アイドル」を選んでいる。「アイドルである」ということはいくつもある選択肢のひとつであって、決して絶対ではない。相対的なものだ。女性アイドルはいずれアイドルではなくなる(少なくともグループを去る)ことが一般的であることが多いが、男性アイドルだって例外ではない。例外ではないことを、考えたくはないと思ってしまうけれど。それは感情的な話であり、現実的で論理的な話ではない。

 この曲が歌われるとき、イントロで「madoromiだ」とは思ったけれどそのときにはまだそれ以上の感情はなかった。むしろどんな曲だったかうっすら忘れていたくらいだった。しかし、「君を好きなこと/また会えるまで 忘れないで」という歌詞を聴いて涙が溢れてしまった。小山さんの慈しむような歌声が心に刺さった。
 アイドルがファンを「好き」だと思っているなんて、きれいごとなのかもしれない。ファンだからそう思いたいだけなのかもしれない。でも私は、どのアイドルを好きでいたときも、この人たちは私に「好き」という感情を向けてくれていると感じていた。私という個人に対する「好き」ではなくても、それは確かに「好き」だった。どのアイドルからも、私は「好き」という気持ちを受け取っていた。歌だったり、言葉だったり、素晴らしいパフォーマンスだったり、一瞬の握手であったり、かたちは様々だけれど、そこにある思いは「好き」という気持ちだったと、私は思っている。次のコンサートで会えるときまで、「好き」だということを忘れないでねと、そう感じるくらいに「好き」という気持ちをたくさんもらっていた。少なくともそのときは、彼らが向ける「好き」という気持ちは確かなものだったと、たとえ勘違いでもそうだったんだと私は思っている。
 目の前でアイドルであるNEWSがこの曲を歌ったとき、彼らは私のことを「好き」なのだと思った。「好き」というのはなにも恋愛感情だけではない。アイドルとファンという関係性で、私はNEWSのことが好きだしNEWSも私のことを好きなのだと思う。これは特別で大切な感情だと思っているけれど、私とNEWSのあいだにだけあるものではなくて、どんなアイドルとどんなファンのあいだにもあるのではないかと思う。そのどれもが特別で大切なのだと思う。
 たとえ「アイドルである」という選択肢を選ばなくなっても、あのときに感じていた「好き」という気持ちは決して嘘ではなかったと、私は思う。私が「ファンである」という選択肢を選ばなくなっても、あのときに感じていた「好き」という気持ちに決して嘘ではなかったように。だから、小山さんの歌った「君を好きなこと/また会えるまで 忘れないで」という歌詞が胸に響いてしまった。
 アイドルが「アイドルである」という選択肢を選ばなくなったら、きっと私は泣くだろう。推していた女性アイドルが卒業したときも号泣だった。私はアイドルである彼女と出会い、アイドルである彼女を好きになったのだから。彼女はそれ以降も舞台上に立つ仕事をしているから、彼女の元気な姿を見ることはできる。でも、私が愛した「アイドルである彼女」はもうどこにもいない。それは間違いない事実だ。そう思うと、「アイドルである」という選択肢を彼ら/彼女らが選んでいるあいだの時間は「幻」なのかもしれない。リアルな感情を伴う「幻」。いつかくる、幻が醒めてしまうときまでの、さよならに向かっていくための時間。長い長い「幻」だったとしても、いつか醒めるときが来てしまう。それがどんなかたちかはわからないけれど。私がみているのは、そんな「幻」なのではないかと思う。そして、「幻」が醒めたあとも私はまだ生きているかもしれない。ぼろぼろに泣いたとしても、その涙にも意味があるのだと、アイドルがそう歌っているということに、私はさらに泣かずにいられなかった。

 

 私の人生は私のもので、私にしか責任を負えない。誰にも預けることはできない。アイドルのことがどれだけ好きでも私の人生を預けてしまうことはできない。この先、もし私の大好きなアイドルがいなくなったら。そんなことはないと思いたいけれど、理論的な可能性としてはゼロではない。それでも私はちゃんと私として生きていかなければならない。私の大好きなアイドルが、「僕が隣にいなくても きみはきみのままで」と歌っているから。いつか隣にいなくなってしまっても私が私でいられるように、そのぶんいま隣にいよう。

 私は、あまり未来のことを考えない。というか、未来のことを考えるのが下手なのだ。先の予定を立てることができない。だって未来のことなんてわからないから。私にとって確かなのはいまこの瞬間のことだけで、これより向こうのことなんてわからない。
 それでも、私は嬉しかった。コンサートの最後、加藤さんが「HAPPY ENDINGを歌ってるけど、ENDINGなんてねえから!」と言っていたことが。この先のことはわからないけれど、少なくともそう言った瞬間の加藤さんはそう思っていたんだろうと思う。たとえもし、いつかこの言葉が本当のことではなくなってしまう時がきたとしても、この言葉を聞いたときの嬉しさが消えるわけではない。あのとき確かに嬉しいと感じた私がそこにいたはずだ。私はそれを幸せと呼びたい。
 信じているとかいないとかではなくて、人は変わっていくいきものだから。私はそれを、加藤さんから痛いくらいに教えてもらった。いま言ったことと過去に言ったことが矛盾することはあるし、いま言ったことといつか言うことが矛盾することだってある。人は変わっていくいきものだから、未来のことはあまりあてにしていないし、過去のことは参考にするものだと思っている。私だって変わっていくから、いま大好きなアイドルからいつか離れてしまうことだってありうる。いま幸せだと思うことが、いつか不幸に変わるかもしれない。何を幸せと思うかだって、変わるかもしれない。それぐらい不確かな私だから、いまこの瞬間の幸せを大切にしていたい。

 

 きっとこういうふうに考えることは過大解釈なのだろうとも思ってしまうけれど、それでもそう思わずにはいられない。独りよがりで、痛々しい解釈なのかもしれない。でもこの曲で目が腫れてしまうくらい泣いて、たぶん私は、救われたのだと思う。行き場がなかった気持ちに、NEWSの歌うこの曲が、行き先を示してくれたように思えた。
 結局、行った公演すべてで泣いてしまった。手越さんや増田さんは、回を重ねるごとに感情が豊かになって、余計に心に訴えかけてくる歌声になった気がした。小山さんは、埼玉公演では疲れが出たのか歌いにくそうなところもあったけれど、伝えようという気持ちが伝わってきた。加藤さんはしっかりと落ち着いていて、歌のなかの僕でもきみでも誰でもなくただ加藤さんとしてそこにいた。あなたがいま、確かにそこにいることを、確かに愛して愛されていることを、とても幸せに思う。

 

 

EPCOTIA(通常盤)

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