ひとはみな、孤独ないきもの ―映画「あゝ、荒野」感想―

 そんなに熱心な映画好きというわけでもないのだが、比較的観るほうではある。その程度の映画好きだけれど、感動するとかしないとかの枠の外側で人生に刺さる映画に出会った。私の中で今年一番の映画になることは間違いない。せっかくなので、「あゝ、荒野」を観たあとのこの気持ちを文章にしておこうと思う。
 できればもう一度、後篇だけでも観たいのだけれど、時間的な余裕があるかどうかわからないので今の気持ちを書き残しておく。

 

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 前篇は渋谷で観て、これは新宿で観たい映画だなと思ったので後篇は新宿で観た。それも雨の新宿。あまりにもぴったりな環境で観られたことを幸せに思う。客層はどんな感じなんだろうと想像がつかないまま観に行ったけれど、私のようなOLも大学生であろう男性もいれば会社帰りのおじさんや定年したらしいおじいさんもいて、普段は割と客層が固定されている映画を観に行くことが多いのですごく不思議な感覚だった。
 寺山修司については「書を捨てよ、町へ出よう」とか「毛皮のマリー」の人、ということしか知らない。「あゝ、荒野」もタイトルは聞いたことがある程度の知識しかなかった。もっと著作を読んだり言葉を知ったりしていたら面白い部分が多いのだろうなぁと思う部分はあって、ちょっとだけ悔しく思った。のでとりあえず原作である『あゝ、荒野』を読みたいと思う。

 

 前篇が起と承、後篇が転と結といった感じで、展開がわかりやすくて見やすい映画だった。登場人物たちの関係性も混乱するようなことはなかった。集中力のなさに自信がある私だけれど、前篇後篇ともに飽きることなく見ることができたから、やはりわかりやすいつくりをしていたのだと思う。しかし、展開がわかりやすかったからといって映画そのものがわかりやすいものだったかといえば違う。多分私はこの先何度この映画を観ても絶対に「わかった」と思う日は来ないだろう。だけどまるっきりわからないわけではない。わかるとかわからないとかを超えたところで、心に何かを叩きつけられたような感じがした。
 私の目には、新次と建二というふたりの男がボクシングをする話に周囲の人々の様々な思いが絡み合う物語、という構図に見えた。世間狭すぎるだろと思ってしまうくらいに登場人物たちの人間関係がとても密接なのだけれど、そこにリアルを求めるタイプの映画ではないように思えた。この映画が語ろうとしているのはそこではない。
 前篇で登場人物たちがどんな思いを抱いているのかを描き、後篇でそれらの思いが絡まりあっていく。建二のモノローグにもあるけれど、後篇では「繋がり」をテーマとして描いていた。血の繋がり、精神の繋がり、肉体の繋がり。
 新次は相手を憎むことが勝つために必要なことだと言う。より多く憎んだほうが勝つのだと。それだけ強く憎むということは、相手と主体的に関わることだと思う。興味のない人のことは憎みようがない。憎むということは「執着する」ということになるわけで、それは愛することとほとんど同義なのではないだろうか。新次はすごくエネルギーに溢れた人のように見えたけれど、それはきっと彼が相手に「執着する」人間だからなんじゃないかなと思った。親友と呼んだ建二がジムを辞め、恋人である芳子が姿を消し、新次が泣く場面があるのだけれど、どうして彼の人生はこんなにもままならないのだろうとこっちまで泣きそうになってしまった。泣き方がどこか子供っぽくて、涙はただの涙でしかないけれど、それだけで多くを語っていた。沢山の「ままならない」が積み重なったものを、私たちは人生と呼ぶのかもしれない。
 一方、建二のほうはおどおどしていてエネルギッシュとは程遠い。彼はモノローグで「僕は憎むことができなかった」と、そして「愛されたい」とも語る。誰かを強く想いたい/誰かに強く想われたいという気持ちがあるのに、それが叶わない建二を見ているのはとてもつらかった。
 終盤、新次と建二の試合シーンは、試合というにはあまりに生々しい「命のやりとり」だった。血を流し殴り合う二人にしか伝わらない何かがあって、それは試合を見ている人たちにも映画を観ている私にもわかることはない。全力でぶつかりあう当事者にしかわからないもので、傍観者がいくらわかろうとしたってわからないことなのだろう。けれど、二人から溢れるものは伝わる。「わかる」というよりももっと漠然と「伝わる」。
 ラストシーンが何を意味しているのか、わざとぼやかしているので触れるのは野暮かなとも思うのだけれど、建二が生きてても死んでてもどっちもいいなと思った。どっちでもいいのではなくて、どっちもいいなって感じ。どちらであってもこの映画はいい映画だと思う。どちらにせよ、建二が新次と「繋がりたい」と思った気持ちは届いたのだ、と確信している。

 

 多分、ひとは本質的に孤独なのだと思う。
 新次と建二に関わる人たちがそれぞれの思いを抱えながら試合を観戦している。同じものを見ているのに、多分全員に違うものが見えているんだろうなとも思った。だって全員が違う思いを抱えているから。それぞれが勝手なことを考えているから、そしてそれは譲れないものだから、みんなで仲良く手をつなぐ世界なんてやってこない。繋がりたい人とうまく繋がることができない、きれいごとでは生きていけない人たちだった。でも、きっと彼らが特別なのではなくて、私の中にも彼らのような要素はあるのだと思う。
 私が愛してやまないギタリスト・新藤晴一さんのエッセイ集『自宅にて』の中に「人は”完全”にわかり合えることはない」というタイトルの回がある。私とあなたが違う人間である限り100%わかり合うということはない、という話だ。多感な思春期に新藤さんの言葉に触れまくったせいなのか、あるいはもともとそう思っていたのか今となってはわからないけれど、私はこの「人は”完全”にわかり合えることはない」という言葉を信じている。”完全”にわかり合うことができないから誰かと繋がりたいという気持ちが芽生えるのだろうと思うし、”完全”にわかり合うことができないから孤独なのだろうと思う。
 その孤独を浮き彫りにした映画だったから、孤独を心に叩きつけるような映画だったから、こんなにも刺さってしまっているんだろう。

 

 この映画は最後にすべてが解決するタイプの映画ではなくて、解決されない問題が沢山残されるタイプの映画だ。でもきっと生きていくってそういうことだよなと思う。別にこの映画の登場人物たちみたいにドラマチックな何かを背負っているわけじゃない人(たとえば私)でも、胸の奥に消えないわだかまりみたいなものはあるし、何もかもが解決することなんてない。何もかもが解決しなくたって、この映画を観終えたって、私は生きているし、生きていく。
 こういう映画は普段はあまり観ないけれど、菅田くんが出ているからという理由で観てみたら想像以上に良いものを観ることができた。素晴らしい映画と出会わせてくれてありがとう。

 

 余談だけれど、大学時代のバイト先が新宿だったために4年間新宿に通っていた。馴染みがあるというほどあるわけでもないけれど、ないわけでもない。朝と夜の混みようは嫌いだったけれど、人が沢山いるのを見るのは嫌いではなかった。景色を覚えるのが苦手だし行動範囲と微妙に被らないところもあって映画で出てきた場所に懐かしさを覚えることはなかったけれど、知っている光景もあった。たとえばコクーンタワーはわかる。大きくそびえ立ち目を引くあの建物が見えると、新宿だ、と感じる。あの大きな建造物も、猥雑な路地も、このちっぽけな私も、何もかもを飲み込む雑多な街、新宿。いろんな人のいろんな人生が交錯するにふさわしい舞台だと思った。

 

 

 ここ最近、何に悩んでいるのかわからなくなるくらい悩んでいる。現在進行形で。多分、いくつもの事柄が複雑に絡み合って悩んでいるので私自身にもよくわからなくなっているのだろうけれど、その絡み合っている悩みのひとつは「わかりたい/わかってほしい」という欲求のことだと思う。
 一体どうしてこの人はこんなことを言うのだろうと不思議に思うことがある。それがいくつも積み重なって、ものすごく苦しくなってしまった。自分が直接言われたわけではない言葉もあるけれど、それらの言葉があちこちで放り投げられている場所で息をするのは、私にとってはとても大変なことだった。
 それと、これは多分この先も一生考えてしまうことなのだろうけれど、私は「この人にさえわかってもらえていればいい」と思っていた人にわかってもらうことができなかった。「お前はこういう人間だ」と決めつけられても、違うよと声を上げることすらできなかった。その人も、私が何も言えないことをわかっていて、それでも言ってしまうのだ。それほどにわかっているのに、その人は私のことが少しもわからない。でも、私もその人のことが少しもわからない。私はその人が愛として差し出したものを愛として受け取れなかったし、その人は私が愛として差し出したものを愛として受け取れなかった。愛したいし愛されたいし、愛してるし愛されてるのに、きっとこの先もすれ違ったままなのだろうと半ば確信している。そのことを考えては、寂しくて虚しくて、どうしようもない衝動に駆られることがあるけれど、でもやはりどうしようもない。胸いっぱいのどうしようもなさを抱えて、時にしぼんだり膨らんだりするそいつを抱えていくしかない。
 先日、舞台「グリーンマイル」を観たときにも「わかり合う」ということについて考えた(君と僕だから分かり合えない ー舞台「グリーンマイル」感想ー - 来世はペンギンになりたい)。わかり合えないことの悲しさを乗り越える術を持たない私が必死に考え出した策が、わかり合えないということだけでもわかっていたいという強がりだった。わかり合えないということがわかるのは、相手のことをわかりたいと思い自分のことをわかってほしいと思うからだ。そんなことを考えていたときに、映画「あゝ、荒野」に出会った。
 この映画を観たからといって私の悩んでいることが解決したわけではない。相変わらず私の中には「わかりたい/わかってほしい」という欲求が消えない。そろそろそういうのやめようよと思う自分もいるけれど、やめられない。私ではない誰かがそこにいて、少しでも関わってしまったら、わかりたいと思うしわかってほしいと思ってしまう。そういう気持ちを抱くことが「生きている」っていうことなのかもしれないし、全然違うのかもしれない。
 だけどひとは孤独ないきものだからと思うと、少しだけ楽になる。「わかりたい/わかってほしい」という欲求も、それが叶わないことも、それはひとが、私が孤独だからだ。諦念にも似ているのかもしれないが、納得はできる。この映画に出てくる人たちがみな孤独だったように、私も孤独で、私ではない他者もまた孤独なのだ。だからわかりたいし、わかってほしいし、わからないし、わかりあえない。

 

 

 ひとはみな、孤独ないきものだ。孤独ないきものたちが生きていくこの世界は、間違いなく荒野なのだろう。