とある「晴一チルドレン」の独り言 ―『ルールズ』感想―

 新藤さん二作目の小説が出版された。アスマートで予約しているにも関わらず発売日には届かなさそうだったので、本屋に行って買ってきた。『時の尾』が2010年なので、7年振りの新作となる。7年は待てたけど本が届くまでの1日2日は待てなかった。
 世間的にも夏休みは終わる頃ではあるけれど、夏休みの読書感想文もどきとして書いておこうかな、と思う。感想なので勿論主観100%です。物語の内容に触れまくりますので、未読(かつこれから読む予定がある)の方はご注意ください。

 

 

ルールズ

ルールズ

 


 新藤さんが小説二作目の題材に選んだのは、夢を見るバンドマンだった。
 物語は主人公・健太が天才ギタリストの青年――と呼ぶにはまだ幼さの残る少年・ハオランと出会うところから始まる。正直、もうこれ以上はあらすじすら話しちゃ勿体ない気がするので実際に手にとって読んでほしい。
 一作目『時の尾』は現実世界を舞台としていないという意味でファンタジー作品だった。「ファンタジーの世界のリアル」を感じさせる物語は、現実世界を反映させずに共感を得たり作品として美しく成り立つ新藤さんの歌詞の世界を更に拡張したようだった。しかし今回はリアルの世界に限りなく近いところで物語は展開する。バンドに懸ける青年の物語。この世のどこかにいるかもしれない誰かの物語。
 もしかしてこの主人公は新藤さんがいくらか反映されているのでは、と考えてしまうのは私だけではないと思う。現に新藤さんっぽい部分もあるし新藤さん本人も重なる部分があると言っている*1
 でも、それにしたって重なってしまう。主人公・健太の所属するバンド「オーバジンズ」からは、メインのソングライターが脱退してしまうのだ。もしこの小説を13年前の私に「未来の新藤晴一が書いた本だよ」と言って渡したとしても、決して読むことはできないだろう。2004年の今頃、ポルノグラフィティからはメインのソングライターが脱退して再スタートを切るところだ。たとえタイムマシンがあっても12年前の私にだけは会いたくない。多分いまごろ死んだような顔をしている。でもそこから13年生きると新藤さんの小説が二作も読めるよ、くらいは伝えてやってもいいかもしれない。
 率直な感想を言うと、「ポルノグラフィティのファンではない私に読ませたかった」に尽きる。たまたま図書館の「今月入った本」コーナーで見かけた『ルールズ』を手にとって著者名を見て「ふーん、ポルノの人ね、アポロサウダージアゲハ蝶ね」なんて思いながら読んでノックアウトされて新藤さんにポルノに興味を持って、そこからずぶずぶにハマっていく道を辿りたかった。それぐらいの力がある小説だし、中学生の頃に読んでいたら高校に入ったらバンドをやろうなんて考えちゃったかもしれない。お小遣いを貯めて楽器を買っていたかもしれない。私の中の夢見がちな部分が、バンドで楽器を弾いている自分を思い描いてしまう。そんな力をもつ作品だった。
 でも私は中学生ではないし、ポルノファンだ。ポルノファンというか、思春期に新藤さんの言葉や考え方に触れまくって生きてきたせいで私の中に根付いている考え方の元は新藤さんにあるかもしれないというくらい新藤さんに影響を受けている。そういう人のことを、心の中では「新藤チルドレン」とか「晴一チルドレン」と呼んでいる。ファンというか、ただファンと呼ぶ以上に影響を受けてしまっているので「チルドレン」とでも呼ぶしかない。私という人間の成長過程に、新藤さん(と新藤さんの言葉や考え方)は大きく関わってしまっているのだ。「晴一チルドレン」であるところの私が『ルールズ』を読んだ感想を一言に凝縮するなら、「私はやっぱり晴一チルドレンだったんだ」だ。思春期にあれこれ読んで聴いて心の中に刻みつけた言葉たちが、過ぎゆく日々の中でいつのまにか苔だらけになった記憶の中からまだ覚えてんだろと騒ぎ出す。覚えてるよ忘れるわけないだろ。なんたって私は「晴一チルドレン」なんだぜ。みたいな気持ち。
 そんな「晴一チルドレン」が『ルールズ』を読んで思ったことをざっくりとメモしておきます。

 

 

音楽は扉を叩く

 音楽には何ができるのか。音楽を生業としているわけではなく、音楽に浸かって生きているわけでもない私には「これ」と呼べるものは見当たらないけれど、でも音楽に圧倒された経験はある。歌詞ではなく、音そのもの。たとえば、新藤さんのギターソロだったり。
 『ルールズ』にもそんな描写が出てくる。グリムワルツとの対バンの場面、健太がハオランにオリジナルのフレーズを奏でろと音で語る場面だ。

(前略)つまり、お前は万のスーパーギタリストを父に持つ子だ。俺なんかの薄い血と違って、漉されて漉されて、ドロッドロのマグマみたいな血が流れてるんだ。お前の心のフィルターを通して音にするだけなんだよ。俺がぶつけるこの音の塊は、少し乱暴だけどお前の心をノックしているんだよ。(p202)

 これと同じことを描いている歌詞を、私は知っている。「m-FLOOD」だ。ダンダンと扉を叩くようなイントロ、そして「大人しく扉の鍵を開けろ」から始まる歌詞。タイトル「m-FLOOD」の「m」は「music」の頭文字だ。音楽は扉を叩く。

10だけ数える NoかYes決めるんだ
心の扉は自分でしか開けられやしないから

 中学生の頃、狂ったようにピアノの練習をしていた。3歳から習い始めて、それまで10年くらいろくに練習もしたことなんてなかったのに、10年間の練習量を一か月で上回りそうなくらいピアノを弾いていた。防音加工なんて何もないマンションの一室で、音が外に漏れてしまうのをなるべく防ぐために部屋を閉め切って弾いていた。夏には汗だくになった。勢いのある曲を弾いていると息が切れることもあった。正直、何が楽しかったのか今思い返してみてもよくわからないけれど、なぜそんなことをしていたかといったら多分ポルノが私の心の扉を叩いたからだと思う。自分も音楽をやっていないと、いてもたってもいられなかった。中学の卒業文集には「初めて行ったライブが楽しかった、音楽ってすごいんだ」という作文を書いたくらいだ。残念ながら音楽の才能はなかったようで高校2年になるときにピアノはやめてしまったけれど、今は心の扉から音楽ではなくて言葉が溢れ出している。だからこうやって文章を書いている。音楽と同様上手くはないけれど、音楽よりは得意かもしれない。

 ちなみに「m-FLOOD」は音楽の洪水という意味だが、『ルールズ』では音楽が自分の中から噴き出す様子を火山の噴火にたとえて「ヴォルケーノ」と表現している。「m-FLOOD」は歌詞を追うとわかるようにリスナーに呼びかけるので音楽はリスナーを巻き込む洪水=「身をまかせて Music Flood」となるが、『ルールズ』ではプレイヤーであるハオランに呼びかけているのでハオランの中から噴き上がるもの=「ヴォルケーノ」という表現になるのだろう。聴き手と弾き手、水と炎、内と外。対比が美しい。さすが新藤晴一


たったひとつの音にさえ

 俺たちの音といえば、軽やかに羽ばたくはずの音符に鎖で荷物を括り付けているみたいだった。ファンに向けてだの、デビューに向けてだの。目の前にガシャンと音を立てて落ちた。焦った俺は、やみくもに激しくベースを弾いた。そうすればするほど、音は輝きをなくした。
 当時の俺たちは、常連客のビートルズと、オーバジンズを比較する客観的な思考を持ち合わせていなかった。皆、頭を傾げたが、いつも使ってる楽器じゃなかったからな、という程度の分析をした。
 そういった意味で言うと、音楽に生活やら成功やらを背負わせていないフーバーズのほうが、純度の高い音なのではないか。いや、そもそもデビューを目指すことや成功を望むことは、音を濁すものなのか? 俺の頭はますます混乱した。(p158)

 健太がバンドの「音」を考える場面は、どうしたって新藤さんと重なってしまう。切り離して考えるには新藤さんのことをかけらも知らない状態に戻らなくてはならない。つまり私にはもうできない。重ねないようにと気をつけても、頭と心に刻み込まれた新藤さんの言葉が脳裏に浮かんでしまう。
 素人だから「音」についてなんてよくわからない。でも、狂ったようにピアノを練習していた時期はそれなりにいい音を出せていたような気がする。上手くなりたいとかいうよりも「弾きたい」という気持ちが勝っていた。ピアノを弾くためにピアノを弾いていた。何が楽しかったのかはわからないけれど、それでも楽しかった。満たされる、という感覚があった。健太のいう「純度の高い音」に近いものだったのかもしれない。
 物語の終盤で、レコード会社の偉い人たちの前で演奏するオーバジンズの「音」は、次のように描写されていた。

 俺が紡いだサビのメロディが、4人の音にのってライヴハウスに羽ばたいていくのが見える気がした。ビートルズの音楽に無邪気にじゃれあう、あのオヤジバンドが奏でていた音に近づけているだろうか? 打算や妥協みたいな重い荷物を背負わさない音。(p342)

 2016年9月、ポルノグラフィティは「17年目の所信表明」として「ダイアリー 00/08/26」を演奏した。歌詞にはフィクションを描くという新藤さんにしては珍しく、2000年8月26日に思ったことを歌詞にしたものだ。だからタイトルは「ダイアリー 00/08/26」。

汚れた手でギターを触ってはいないかな?
僕の声は君にどんなふうに聴こえてる?響けばいいけど。

 きっと、新藤さんの「音」についての考え方はこのときから変わっていない。どれだけ曲が売れたって、どれだけテレビに出るようになったって、きっと変わっていない。いつまでも健太のような気持ちで「音」を追いかけているのだろう。
 ポルノグラフィティがデビューして、もう18年が経つ。18年のあいだにいろいろあった。20代だったかれらは40代になり、メンバーそれぞれが家庭を持った。それでもまだ新藤さんは「音」にロマンを求めている。
 新藤さんは「ポルノグラフィティではやりたいことをやればいいというわけではない」と言う。ポルノグラフィティにはポルノグラフィティの文脈がある。その文脈を踏まえないものを作ったところで、それはポルノグラフィティではなくなる。それは、それほどまでに強固なものを彼らが築いてきたということでもある。だからこそ、健太の「音」に対する考え方に触れて不安に思った。健太が「デビューを目指すことや成功を望むことは。音を濁すものなのか?」と自問自答するのなら、ファンという存在がポルノグラフィティの「音」を濁らせてしまうことになってしまわないだろうか、と。彼らはファンのことを愛してくれているけれど、でもファンがいなかったら「ポルノグラフィティ」という文脈で曲を作る必要はないだろう。ファンがいるから、彼らは「ポルノグラフィティ」でいることを選択している。しかし、ファンがいなければ音楽はどこに届くのか。誰に向けて放たれるのか。ファンだけに向けてやっているわけではないと思っているけれど、溢れる音楽の中から選んで聴く人がいるから成り立つ部分もあるのではないかと思う。そう思いながらも、不安になることはある。
 新藤さんは夏フェスのセトリについて「みんなが知っている曲をやると喜んでくれるしそれは嬉しいけど、客が喜ぶことだけをやることが理想というわけではない」と言っていた。「だからといって全然知らない曲だけやるのも違う」という趣旨の発言もあった。こういうことを言ってくれる人たちだから、不安は払拭される。デビューという夢を叶えて、18年というキャリアを積んで、それでも彼らはいつまでも「打算や妥協みたいな重い荷物を背負わさない音」を探し求めている。上手くバランスをとりながら、それでもまだまだ青春の只中で夢を見ている。

たった一つの音にさえ真実があるんだよ。
それを追いかけてここまで来たんだけど、僕のはどうかな。
(「ダイアリー 00/08/26」)

 


 『ルールズ』を読んでいると、要所要所で「夢」についての話が出てくる。夢を追う青年の話なのだから当然といえば当然だ。主人公・健太の考える「夢」はやはりどこか新藤さんの考える「夢」を反映しているような気がした。
 レコード会社の人間である笹井はデビューのデの字も見えないオーバジンズを「夢の中で夢を見るバンド」(p191)と表現し、一方でデビューが決まっているバンド・グリムワルツを「両目を開けて現実の道を進むバンド」(p191)と呼んでいる。では、デビュー18周年を迎えるポルノグラフィティはどちらなのか。私は前者だと思う。
 新藤さんのエッセイ集『自宅にて』では「夢」というテーマについて書かれている。

 夢が叶って夢心地になるというのは、上を見なくなったときかもしれない。
 そんなら夢心地なんて、なれなくても、いいや。(「夢の話」)

 これは連載第一回「夢の話」の中に出てくる文章だ。雑誌「PATi PATi」2001年2月号に掲載されたものなので、ざっと計算しても16年前、ポルノが1999年9月にデビューして2年目に書かれたものということになる。
 2004年、ベースのTamaさんが脱退した直後の回でも、「夢」の話をしている。

ポルノグラフィティを仕事として僕が生きていけてるのは、まだ夢を見られているからだとも思う。ときどきは目が覚めそうなときもあるけどね。そういうときはぎゅっと頑なに目をつぶって、見ていた夢をたどり直すんだ。(「嘘でも前に」)

 私がポルノグラフィティの話をするときのサビだから何度でも語ってしまうのだけれど、2013年のライブ「ラヴ・E・メール・フロム1999」のオープニング映像でも「それでもまだまだ みんなと夢の中にいたい 時には薄目を開けて 周りをうかがいたくもなるが ギュッと目を閉じて」言っている。2001年、2004年、2013年、そして2017年、おそらく新藤さんの言っていることは変わっていない。「両目を開けて現実の道を進む」より、「夢の中で夢を見る」ことを選び続けている。夢を見続けることは、簡単なことではない。強い意思を持って夢を見続けることを選ぶ必要がある。

 凄腕のギタリストとはいえ現実を生きるハオランと、夢だ仲間だとやってきた俺とは、もともと交わるはずはなかった。しかし、俺はハオランや、こいつが背負う琴山村を知ることで、はっきりと変わったことがある。夢の世界にも地面があるって知ったことだ。宇宙空間のようにふわふわと浮いているだけじゃ、どこにも辿り着けない。毎朝、満員電車で通勤する人たちにしたら、そりゃ俺の足下は数センチほど浮いているように見えるかもしれない。それでもつま先で、夢の地面を掻いて進もうとしている。
 夢に地面があるなら、現実にだって空があるはずだ。その空をお前は見たんじゃないのか? 琴山村の空は東京より広いけど、それとは違う青い空を俺たちはおまえに見せてやれていなかったか?(p300)

 私は夢を追っているわけではない。なりたいものはあったけれど、それを叶える実力がなかったし、実力がないとわかっていながら足掻こうとする勇気もなかった。やろうと思えばできることはまだあっただろうけれど、私はやらなかった。何も成し遂げられない自分が嫌になることもある。それでも昨日の続きの今日を、現実を生きていくことを選んだ。
 もし私が『ルールズ』の帯を書くなら、「夢に地面があるなら、現実にだって空があるはずだ。」を引用するだろう。健太がハオランに空を見せたように、ポルノグラフィティは私に空を見せてくれる。たとえば「オー!リバル」のヒット、たとえば「THE WAY」の横浜スタジアムを空から映したドローン映像、たとえば台湾ワンマン、たとえば熱狂の夏フェス。夢の中にいる彼らだからできることだ。
 夢を見ることを選んでくれて、ポルノグラフィティでいてくれて、私にも空を見せてくれて、ありがとう。

 


哀しみとは絶対的なもの

 私は「感情の大きさは比べることができない」と常々思っている。たとえば私のポルノに対する「好き」という感情と他の誰かのポルノに対する「好き」という感情は比べることができない。どれだけお金を使っているとかどれだけ時間を割いているとか、そういうのは絶対的な評価軸にはなるかもしれないが相対的ではない。他者の「好き」を測るときに使えるものさしなどない。どちらが大きいとか、どちらが濃いとか、そういう比較をすることは不可能だ。それは「好き」という感情だけでなく「つらい」とか「悲しい」とかでも同じことだと思う。
 そういう考え方をしているので、時折周りの言葉が引っかかってしまうこともある。たとえば仕事を頼まれるとき「○○さんのほうがつらいんだから」という理由を持ちだされたことがあった。そんなの知らない。他者のつらさは他者のつらさであって、しかもそのつらさを私がどうすることもできない以上どうすることもできない。他者のつらさと私のつらさにはなんの関連もない。ないはずなのに、それが伝わらないことがたまにある。

 マリリンの過酷な人生も、俺の平凡な人生も、そこに個人的な哀しみがあれば、それは等しく核に取り込まれロックを燃やす。哀しみに相対的な評価などない。他人にとっては取るに足らないことほど、深く人の心を傷つけることがある。誰かに話せるほどのドラマティックな傷なら、それはそういう弔い方もあるだろう。しかしストーリーにもなり得ない、始まりも終わりもない傷はどうすればいい? 透明に見えて無数の傷に覆われたグラス。それが割れる前に、温かい手で包んであげないといけない。俺たち自身の手で。そしてその手は恒星の熱でなんとか体温を保っている。離れるわけにはいかない。そうして俺たちはぐるぐると回っている。(p316)*2

 健太は普通の子で、これといってドラマティックな人生を送っていたわけではない。けれど、彼が自分の胸に渦巻く感情を「哀しみ」と思うならそれは紛れもなく「哀しみ」だ。どこの誰の「哀しみ」とも比べる必要はない。その人がそれを「哀しみ」と思うならそれは「哀しみ」なのだ。
 『ルールズ』のあちこちに新藤さんのことを更に好きになるポイントが散りばめられているけれど、この部分でもそう思った。更に好きになるというか、だから私は彼が好きなのだと実感する。
 新藤さんはエッセイ『自宅にて』で「人は”完全”にわかり合えることはない」という話をしていたことがある。

 この“完全”はよく「絶対という言葉はない」の”絶対”に近い精錬さかな?
僕も「人はわかり合える」とは思うよ。むしろ人とわかり合えないと、生きていくことはとても苦しいものになるかもしれない。けれど繰り返すことになるが「”完全”にはわかり合えない」と思う。理由は結構あっけないもの。他人は自分じゃないから。

 人は完全にわかり合うことはないけれど、そこで終わりではない。完全にわかり合うことのない世界で新藤さんが提示した答えのひとつは、『ルールズ』でいうと「透明に見えて無数の傷に覆われたグラス。それが割れる前に、温かい手で包んであげないといけない」ということのようにも思える。完全にわかり合うことはできないとしても寄り添うことならできる。私はその優しさに救われたひとりだ。
 しんどい思いをしていた中学生の私が頼ったのはポルノの音楽だった。新藤さんが作詞した「幸せについて本気出して考えてみた」の一節は、私にとっては蜘蛛の糸であり青い鳥だった。

誰だってそれなりに人生を頑張ってる
時々はその“それなり”さえも誉めてほしい

 「つらい」と思っていることや「頑張ってる」ということを誰かに認めてもらいたかっただけだったんだ、と気付いた。そのくらいのつらさは誰にでもあるとか、そのくらいの努力なら誰だってしてるとか、そういうことは問題ではなくて、そんなこと言われたって気持ちは全然楽にならなかった。私がつらいということ・私が頑張っていることを誰かに認めてほしかった。他の誰かと比較するんじゃなくて「私」を見てほしかった。このたった二行のフレーズは、それだけで私の心を軽くしてくれた。

 


「バンド」

 ポルノグラフィティはデビュー前には「バンド」という形式だった。リアルタイムで見ることはできなかったけれど、記録を辿れば「バンド」だったことがわかる。ボーカルと、ギターと、ベースと、ドラム。なんの但し書をつける必要もなく、最低限この4つが揃えば「バンド」と呼べるだろう。それからドラムが抜けて「スリーピース」という但し書をつけつつも「バンド」だった。そして13年前に「バンド」と呼べるかどうか揺らぐこととなった。ベースが脱退したからだ。
 でもポルノグラフィティが「バンド」という形態ではないからできることも沢山ある。バンドだったら「オー!リバル」のような打ち込みのリズムの音を多用した曲は作れなかったかもしれないし、メンバー以外が奏でる音が含まれることを嫌って分厚く絢爛なサウンドにはならなかったかもしれない。
 私は今もポルノグラフィティを「バンド」と認識しているけれど、新藤さんが12年前に書いたエッセイの中では「バンド」であるということが揺らいだことが書かれているし、ライブ中に「バンド」と言いかけて何度も「ミュージシャン」と言い直す場面もあった。いくらファンが「バンド」と思っていたって、新藤さんには引っかかるものがあったのではないだろうか。
 もしかしたら、健太はギターではなくベースで闘う新藤さんなのかもしれないし、オーバジンズは「バンド」であり続けられたポルノグラフィティなのかもしれない。
 でもオーバジンズはオーバジンズであり、ポルノグラフィティではない。最後のほうを読めばそう言いたくなる気持ちがわかると思う。オーバジンズは2010年代のバンドで、ポルノグラフィティがインディーズだったのは1990年代の話だから、絶対に交わることはないんだけど、もしかしたら、なんて思ってしまう場面がある。そういうマジックだって起きるかもしれない。この物語はロックのルールでできているんだから、正気の頭で考えちゃいけないんだから。
 ギターが脱退してすぐに天才ギタリストと出会っちゃうなんて、そんなマジックが起きちゃうなんて、全然現実的ではないのだけれど、現実的ではないからこそ小説の中に描かれることに意味があるのではないか、なんて思う。それが創作の力だ。

 


 昨年、読売新聞ブログ「popstyle」で連載が始まったとき、楽しみという気持ちと共に怖いとも思った。この怖さを、私は知っている。NEWSの加藤シゲアキさんが書いた『ピンクとグレー』を読むときに感じた怖さだ。ただ小説を読むだけなら怖くない。けれど、『ピンクとグレー』が芸能界に生きる男性アイドルが書いた芸能界の話だったように、『ルールズ』(連載当時は「We are オーバジンズ!」)はバンドマンが書いたバンドマンの話だ。少し読めばわかってしまう、そこに書いた人の影があることが。もしも、私が見たくない彼の姿が見えてしまったらと思うと怖かった。今まで信じてきたものが打ち砕かれてしまう気がして。でも、読んでみてわかったのは私の知る彼は物語の随所にいる、ということだった。私知ってる、この小説を書いた人。たとえ名前を伏せていたって誰が書いたかわかる。読んでいて心の奥が痛くなる部分もあったけれど、その痛みも含めて、私は知っている。まるで名刺のような小説だ、と思った。

 健太は、数多のギタリストの技をその身に沁み込ませたハオランを「万のスーパーギタリストを父に持つ子」と表現している。だったら、新藤さんの考え方や言葉が刻み込まれた私は晴一チルドレンで間違いない。この小説を十代の多感な時期に読めなかったことは悔しいけれど、十代の多感な時期に新藤さんの言葉に触れて生きてきたことを幸せに思う。だからこそ、この小説を読んで心が動いたことをなかったことにしたくないから、そう教えてくれた人がいるから、こうやって10000字近くあれこれ書いているんだろう。言葉が溢れ出して止まらない。ヴォルケーノ、とでも呼んでおこうか。

*1:ポルノグラフィティ新藤晴一、手の感覚がなかった投球 - 朝日新聞デジタル&M

*2:ここでいう「恒星」はロックのこと。ロックを恒星にみたて、その周りにいる健太やマリリンのことを衛星とたとえている。