「好き」の正体をさぐる:愛というエゴの話

 まとまりは求めていない、思考を吐きだしただけの文章です。

 

 

 愛はエゴだと思う。ここに私から特定の誰かへ向けた愛があったとして、それを受け取るかどうかは受け取る側である特定の誰かが選択することであって、受け取ってくれと押し付けることはできない。受け取らない自由だってあるし、そもそも受け取ってもらえたのかどうか、確認できる場所にいる人に向けた愛ではない。これはファンである私が好きなアイドルへ向ける愛の話なので。

 

 過去にも何度も、私は本当に加藤さんが「好き」なのか?と沢山考えてきたけれど、最近は私が加藤さんにむける感情は本当に「好き」なのか?という疑問が浮かぶようになった。これはその疑問に答えを出そうとする試みで、100%私のために書かれています。

 

 そもそも「好き」とはなんなのか。それは「好き」の皮を被っただけの違う感情ではないのか。「好き」の定義が明確でないということは、「好き」と「好き」以外を見分けることも難しい。でも「好き」の定義は難しい。

 好きじゃなくはないと思うんだけど、「好き」かどうかわからない。ここしばらく、ずっとそんな気持ちを抱えている。「見ていたい」とは思う。この人のこの先を見ていたい、と。その感情は果たして「好き」と同義なのか?

 

 どうしてその人の行く先を見ていたいと思うのだろう。単純に「面白そう」だからだ。面白いものが見られると思っている。人生が80年くらいあるとして、私はそのすべてを面白いもので埋め尽くしたい。楽しみ尽くしたい。そりゃあつまらないこともいくらかある人生だが、つまらないことを打ち消せるほどの楽しいことに出会いたい。私にとっては、加藤シゲアキというアイドルはそういう人だ。

 奇しくも、加藤さん自身も自分のやることを「(ファンの人に)面白がってもらえるんじゃないか」と言う。面白がられたいと思っているなら、面白そうだと思って彼を見ている私と、需要と供給が一致しているじゃないか。うまく言葉にできないが、「いい関係」なんじゃないかと思う。

 

 では、「面白そう」なものは「好き」なものと言えるのか?どうだろうな。でも、「感情を揺さぶる」ものではある。「様々な感情を想起させる」ものというか。

 「最初からハッピーエンドの映画なんて 3分あれば終わっちゃうだろう?」という歌詞が、ポルノグラフィティの「Century Lovers」という曲の中に出てくる。ポルノの歌詞を引用するのは、私の自我を形成するのに多大な影響を与えているからだ。この歌詞を初めて聴いたとき、すごく衝撃を受けた。アルバム『ロマンチスト・エゴイスト』を初めて手にして、歌詞カードを見ながら聴いた中学生のときのことだ。真理じゃんって思った。そもそも「最初からハッピーエンド」という両立しえないものを並べているんだけど、そもそもハッピーエンドであることがわかっているものなんてつまんないじゃん、と思う。つまんない。面白くない。全然揺さぶられない。

 加藤さんという人の人生は、そりゃあハッピーエンドであってくれよとは思う。人生なんて何が起こるかわかんないけど。でも今言いたいのはそういう話ではなくて、私は私の人生の話をしたい。あの歌詞でいう「映画」は加藤さんの人生でなく私の人生の話だ。加藤さんを見ている私の人生がハッピーエンドかどうかなんてわかんない。加藤さんを見ていることでハッピーエンドが確約されているわけじゃないから。ときどき、考え方の根幹を揺さぶられることもあってしんどいと感じることもある。すごく思い悩むこともある。最高って思っちゃうくらい嬉しいことだってある。つまり、プラスからマイナスまで幅広く「感情を揺さぶる」ものであり「様々な感情を想起させる」ものだということ。このジェットコースターみたいな感覚の渦中にいるときはそこそこ真面目に苦しいときもあるが、ちょっと俯瞰でみられるようになってくると私はそれを楽しいと認識してしまう。加藤さんを見ている私の人生が、ハッピーエンドであってもそうじゃなくてもどっちでもいい。十分楽しませてもらったよって思えるから。

 

 「面白そう」なものと「感情を揺さぶる」ものは概ね同義であると言える。では、それらを「好き」と呼べるのかどうかだ。

 まずは、「好き」とは何か。

 好きな食べ物というときの「好き」は、私に「快」をもたらすものだと言えるだろう。「快」をもたらさない食べ物は多分「好き」じゃない。好きな色とか好きな数字とかいうときの「好き」もきっとそうだと思う。

 では、好きな人というときの「好き」はどうか。その「好き」は「快」だけには留まらないと私は思う。もっと複雑なものだ。食べ物や色や数字は、見る人によっては違うという多面性はもっているかもしれないが、人は複雑な多面性をもっている。極端な話、すごくいいなと思う面をもつ人が、すごくいやだなと思う面をもつ人でもある。一見すると相反するものに見えるが、いともたやすく両立する。すごくいやだなと思う面がある人でも、その人がすごくいいなと思う面ももっていることを知っていたら、簡単に嫌いにはなれないだろうし、その人のことを「好き」と表現することもあるだろう。

 とは言ってみたが、それは身近な人の話にしか当てはまらないような気もする。相手のことを一方的に知ることしかできない間柄。人である以上多面性があることはわかるが、私が見られる面はほんの一部でしかない。それでも「好き」というのはどういうことなのか。人とは多面的なものだから、加藤さんを見ていると「快」ばかりではない。ぶつかってしまう部分もでてくる。だけど、それでもシャッターを下ろしてしまうほどの「嫌い」にはならない。多分、恋人でも友達でも知り合いでもないからだ。こちらの勝手なように解釈することができて、それを相手が知りようのない間柄だから。どれほどに私の感情を揺さぶったとして、どれほど様々な感情を想起させたとして、それらの一切を「私側のもの」として処理できる。私が勝手に感情を揺さぶられているだけだし、私が勝手に様々な感情を想起させられているだけ。多分ずっと、私は一人相撲をしているだけだ。

 様々な感情を想起させる存在でありながら、すべての感情の責任を負うことができる。とても安全な「好き」だと思う。

 あぁ、ようやく、加藤さんのことを「好き」だと証明することができたかな。なんとなく、この「好き」の正体が見えてきた。「推しに対する愛は責任のない愛」という言葉を見たことがあるけれど、むしろ「すべての責任が自分にある愛」だと私は思う。愛とはエゴだけれども、そのなかでもより純度の高いエゴ。まじりっけなしのエゴ。私は私の責任において、加藤さんとは何の関係もない感情で加藤さんのことを「好き」だと思う。

 言葉にすると少し寂しく見える。けれど、他の言葉で表現することは今の私にはできない。いつかの私はまた別の言葉で表現するのかもしれないけれど、今はまだわからない。

 

 加藤さんを見ていると、気が合わないと感じる部分もあるしそんなこと言うなよと思う部分もある。私のなかでは是とできない部分。ただ、嫌だとか変わってほしいと思うことはあまりない。決して頷けない部分はあっても、頷けないだけで、それは別に嫌ではない。それでいいと思っている。無理して頷く必要はない。私に合わせて変わってくれとは思わないし、むしろ変わってくれるなと思う。それも違うな。変わりたいなら変わればいいし、そうじゃなければそのままでいればいい。そこに私が口をはさむ余地はない。

 互いに言動に口をはさむような間柄ではないのだ。一方的にというよりは互いに。さすがに私がなんらかの違反や間違ったことをしたら咎められて当然だとは思うけど、そういう話でない限りは互いに口をはさむ余地はない。言葉を交わせる間柄ではないから。でも、私がこうやってネット上で発した言葉は届いてしまいかねない。だから何度も言う。これは、この愛は私のエゴなのだと。

 

 でも、「いい関係」だと思う。少なくとも、加藤さんが「面白がってもらえると思う」と言う以上、加藤さんを「面白そう」だからという理由で見つめている関係は、「いい関係」だと思う。むこうの意図とこちらの意図がうまくはまっている。まぁ、たぶん、「いい関係」だよね。私はとても心地いいなと思う。

 今はたまたま互いの意図がうまくはまっているけれど、今後はどうだかわからない。人は変わっていくものだから、私は不確定要素のある面白いものよりも安定したものを求めるようになるかもしれないし、加藤さんが「面白がってもらえると思う」と思うものが面白いと思わなくなるかもしれない。それでも「好き」と言えるのかはまた考えればいいよ。今この瞬間においては、過去も未来も関係なく、今この瞬間のことが一番大切だと思う。

 

 あと、まぁ、ここまで言ってきたいろいろなことはおいといて、単純に顔が好みだ。あの輪郭のラインがどうしても好き。むしろあの輪郭じゃないと好きな顔って言えないくらいあの輪郭が好き。そしてなくならないほっぺた。男の人ってある程度の年齢になると頬がこけてきちゃうことあるじゃないですか。それはそれで恰好いいなって部分も大いにあるんだけど、単純な好みの話だと私はふっくらしたほっぺたが好きなんですよ。加藤さんのほっぺはずっとふっくらしていて非常に好きです。痩せてもあんまりなくならない。顎も細すぎない。ぱっちり二重。全部好きな要素でできている。それから声。歌っている声が埋もれないのがいい。少し耳に引っかかるようなフックのある声で、最近また更に好きになってしまった感がある。関西にルーツのある言葉がたまに出るのもいい。「転ぶ」のこと絶対「こける」って言うよね。好き。あとダンス。加藤さんのダンスって愚直さが見える感じがして、言葉や態度と並んでその人を表すものなんだなぁと思う。それと字。本人はあまり上手くないと言うけれど、縦長で線のはっきりした字は意志が強そうで好き。ライムのにおいがするような字。小説を出すたびに文章が上手くなっていくところも好き。ここから先は私の主観オブ主観になるが、納得がいかないときに「納得がいかない」って顔をするところが好き。納得がいかなかったとしても、自分で自分をどうにか納得できるところにもっていけるところも好き。自分のこと好きだって言う人に対して誠実であろうとするところが好き。内臓みたいな文章を書けるところが好き。映画や音楽や本の話をするときにたまに出てくる「男の子だから」が好き。同意できるかって言ったら別だけど好き。30歳になったときに「僕ももう30なので」って飽きるほど言ってたのも好き。私が30になって同じこと言うかって言ったら言わないけど好き。そうなんだよ、私が頷けない部分もあなたを構成する大事な要素なんだと思うよ。だから好き。たまに出てくる自己犠牲の精神と、同じくらいたまに出てくる神経の図太そうな部分と、どっちも好き。いちいちの言葉選びが好き。ときどきすごくしんどく思う言葉もあるけど、それはそれとして好きなんだよな。「ありがとう、愛してるぜ」って言葉を選べるあなたが好き。こちらこそっていつも思うよ。コンサート会場で緑色の服を着ていたら自分のファンなんじゃないかって思っているところも、自分のうちわを見つけようと真顔になって手を振るところも。好きなんだよなどうしようもなく。そういう姿勢が。私が私の好きな人を特別に思う気持ちと、あなたがあなたを好きな人を特別に思う気持ちは、きっと対等な立場におかれるべきものではないけれど、釣り合っていると錯覚させてくれるところが、好きなんだよなぁ。勿論錯覚しているのは私の勝手で、だから何度でも言うんだけれど愛なんてエゴだよ。恋なんて言わばエゴとエゴのシーソーゲームだってミスチルは歌ってるけど恋に限らず人間関係なんてだいたいそうだよ。本当はただの一人相撲で、シーソーの片側には誰も乗っていないはずなんだけれど、そこにあなたのエゴが乗っているような錯覚に陥ることができるのが、すごく幸せなんだよ。疑似的な恋愛関係という意味では決してなく、恋愛関係とはまったく互換性のない関係であるファンとアイドルという関係において、すごく幸せだよ。でもこれはやっぱり一人相撲なので、幸せなのは私だけかもしれない。私が愛してるってどれだけ言っても全然嬉しくないかもしれない。むしろ迷惑かもしれない。嫌な気持ちになってなければいいなと思うけど、なるかもしれない。世の中にはそういう類の愛だっていっぱいあるんだし。もしこの愛もそうだったら申し訳ない。許してほしいとは思わない。あなたに向ける私の愛の責任はすべて私にある。だけどやっぱり、言わなきゃ伝わらないことってあると思うから。伝えたいと思うことだってエゴだけど。他人にむける感情なんてエゴだよ。愛なんて言葉じゃ免罪符にならない。だって愛がエゴだもん。健康でいてほしいとか幸せでいてほしいとかやりたいことがやれてほしいとか思うけど、全部エゴ。全部私の、ただのわがまま。

 

 

 

 愛はエゴだと思う。ただのわがままだよ。うるせえな、それでも愛してるって言ってんだ!