幻想第四次を超えてどこまでも往く ―「できることならスティードで」感想3―

 

 

 「できることならスティードで」書籍化おめでとうございます!!!

 感想をまとめようと思っていたのに13回目で終わるから13回目まで待とうと思っていたらついつい更新するのを忘れてしまったのでこのタイミングで。

 

 加藤さんが自分をさらけだした文章を書いているので、以下の感想も「私」だらけです。加藤さんのエッセイって、あまりにも「自分」をむき出しに書いているような気がして(それをよく「内臓」と呼んだりしているのだけど)、読んでいる側も内臓を見せざるを得なくなる。というか、そのぐらいの気持ちでなければ私は読めないのかもしれない。もっと取り繕ってちゃんと内臓を体に収めて服を着た状態でいてくれよって思うこともあるけれど、そんなふうに内臓を見せてくれる人も滅多にいないので、私も内臓で応えたいと思います。さすがに記事タイトルに内臓って入れるのはやめました。

 以下の文章は私の内臓です。

 

 

 

 

 

 

trip9:スリランカ(2018年冬号)

 スリランカ旅行の話。私のもっているスリランカのイメージというと高地にある国だということと紅茶が美味しいという印象かな。建築というのは全く頭になかったので、初めて知ることだった。仏教国だということも知らなかった。なんとなくブータンのイメージと被ったので近い位置かな?と思って検索してみたらそこそこ近かった。あいだにインド(でかい)を挟むけど。ポルノグラフィティの新藤さんがエッセイ集の書き下ろしとしてブータン旅行記を書いていたことを思い出した。私の好きな男たちはインド周辺に行きがち。新藤さんはインド行ってるし、いずれ加藤さんも行くのでは?と思っている。

 

 で。そのなかでブッダの「憎しみは憎しみによって止むことはなく、愛によって止む」という言葉や、加藤さんが自身のうちから編み出した「自分に刃を向ける人を抱きしめられる大人であれ」という言葉が出てくる。私はこの言葉を是とすることができない。

 立派なことだと思う。でも別に、立派であってほしいとは思っていない。私はかつて、刃を向けられてひどく傷ついた経験がある。こんなにつらいなら死んだほうがましなんじゃないかと思った。死にそうだった。未だに思い出してしまって苦しくなることがある。当時の私が子どもで「大人」じゃなかったから、ということでは片づけきれない。だって大人でも、刃に傷つけられた結果命を絶ってしまうひとは、悲しいことに沢山いる。

 刃を向ける人を抱きしめたとして、その刃であなたは傷つかないというの?傷ついてほしくないよ。あなたはたった一人しかいないけど、刃を向けてくる人は一人じゃないかもしれない。それら全てに、その言葉を応用してしまうの?あなたが傷ついたら私は悲しい。傷ついてほしくなんかない。立派であることと傷つくことがイコールで結びついてしまうなら、立派じゃなくて全然いいよ全部逃げちゃったっていいよって思う。彼が弱いからとかそういうことじゃなくて、人って簡単に死んでしまうんだよ。だから傷ついてほしくない。刃を向けられる原因をもっていたとしても、だからって刃を向けていい理由にはならないわけだし、とにかく傷ついてなんかほしくない。立派じゃなくていいし、誰かのお手本にもならなくていい。元気で笑って生きていてほしい。でもそれは私のエゴなんだよね。私が悲しみたくないから傷つかないでって言ってるだけ。

 そういう自分のエゴにやられる回でした。誰かにエゴを押し付けるのは嫌だし、そういう場面を見ると気持ち悪いなって思ってしまうのに、自分がそう思ってしまうことが本当に嫌だ。気持ち悪い。長いこと「世界」については何も言わずにいたけど、そういうエゴについて語らざるを得なくなるからどうしても言葉にできなかった。でもこれはただの「感想」、思ったことや感じたことのひとつとして、書き留めておこうと思います。

 私はその言葉を是とはしないけど、好きに生きてください。変わってほしいとは全く思いません(同じ理屈で、変わってほしくないとも全く思いません)。そこに私の感情や要望が入る余地などない。好きにしてください。ネット上に文章を掲載する以上、本人の目に入る可能性はゼロではないので、非常に無責任なことを言っているとは思います。でもこれは意見じゃないから伝える意図もなくて、単純にエッセイを読んで(あるいは「世界」を聴いて)思ったことや考えたこと、というだけのことです。という言葉もただの逃げでしかないんだけどね……

 

 あなたが好きなように生きるところを見ていたい、それだけです。

 

 

 

trip10:渋谷(2019春号)

 私は東京生まれ東京育ちだけど、渋谷のことは自分のいるべき街だとはあんまり思っていない。何度行っても慣れないし、なんだかこわいというか、とげとげしたものを感じることもある。似たような混み具合の街ならば、新宿のほうが私の街だなって感じがする。バイト先の最寄り駅が新宿だったこともあり、新宿は結構好きな街だ。他の大きな街に比べれば地下にも詳しい。

 けれど新宿も「地元」ではない。地元というのなら、生まれ育った区になるのかな。今は生まれ育った区とは違うところに住んでいるが、それでも実家の近くではあるし、実家には行かなくてもその区には普通によく行く(通勤経路にあるので)。なんていうか、やっぱり落ち着くような気がする。文化面(というか図書館)がなかなか充実していてそこを手放すのが惜しいという気持ちが強いのかもしれない。私が山ほど本を読んで育つことができたのは図書館のおかげだし。

 中学までの交友関係は絶っているし、高校はさまざまなところから通っている人たちばかりだったので、地元といったって親しい人のいる街というわけではない。それでもすごく愛着がある。地域のお祭りに参加したこともないし(そもそもあるのかもよく知らない)、よく行くお店があるわけでもないし、通っていた図書館も建て替えられたけれど、私の地元は「ここ」なんだろうな、と思う。

 

 

 

trip11:パリ(2019夏号)

 「上皇」と呼ばれる存在が200年ぶりくらいにこの国の歴史に登場することになる瞬間を目の当たりにするんだし、私は割と楽しく改元フィーバーを受け止めていた。多少日本史が好きというのも関係しているかもしれない。200年ぶりくらいなんだよ?やばくない?

 上皇陛下は今まですごく沢山お仕事をしてきて、私だったら80過ぎても仕事しろって言われても絶対に無理……って思うので「お疲れ様でした」の気持ちが強かった。私は平成生まれなので平成になったときのことは知らないんだけど、こんなふうに改元を「お祝い」できるのも生前退位だからというのを見てそっか!と思ったし、そういう歴史的瞬間を体験しているっていう興奮が大きかった。なので、改元フィーバーにうんざりする加藤さんの文章を読んで「そんなふうに思ったのか~」って思いました。スクランブル交差点などで騒ぐ人たちにはふ~んって感じだったけど、やたらセールをやったり平成を振り返る番組が多かったり、みんなどこか浮かれている感じがして嫌いじゃなかったな。加藤さんは渋谷が思い入れのある土地だから、そこで騒がれることに思うことがあるのかもしれないな~と前回の内容と関連して思った。

 パリについての知識も一般的なものしかないので、かつての加藤さんがパリで見たものを書いたあたりはとても面白かった。風景を想像する力が乏しいので「わかる」とは言えないけど、素敵だなぁと思った。

 ノートルダム大聖堂の火事。ノートルダム大聖堂というものがあるとは知っているけどそれが現地の人々にどれほど愛されているのかっていうのは全然わからなかったので、別世界の話を読んでいるようにも思えた。テレビで報道されていても、歴史的な建物が火災に遭ってショックなのであんまり見ないようにしてしまったから、そこにいる人々のことまでは思い至らなかったな……でも思い至ってしまうと非常につらい気持ちになってしまうので……。どうにかこのあたりの折り合いをつけられるようになりたいとは常々思っているものの、どうしても感情が先に動いてしまう。難しいなぁ。自分の身に起こったわけではないことを自分のことのように捉えるのはとても傲慢だと思うからそうならないようにしたいんだけど。でも悲しんでいる人を見て悲しくなるのは私だしなぁ……。

 これは後から感想を書いているから書けることだけど、首里城の火災の映像を見たときに地元の人々がとても悲しんでいるのを見て、ノートルダム大聖堂のときもこんなふうだったのかもしれないと思った。パリの件があったからちょっとはテレビやネットで見るようにしてみた。そこで悲しんでいる人に何もできないのがとても悲しくてつらかった。この気持ちはどうしたらいいんだろうなぁ。

 

 

 

trip12:無心(2019秋号)

 ここに出てくるダンスに定評のある先輩ってきっと大野さんだよな~って思って微笑んだりした。

 私は身体感覚がやばめ(自分の体がどう動くのか把握できないので動きの真似をするのがすごく苦手、というレベル)なので、身体の動きを伴う部分では無心にはなれないな……。相手の動きを見て真似することができないから、自分の体がどう動いているかが全然わかんないんだよね……

 そもそも頭の中でずっと喋っているので無心の状態になることがないかもしれない。一人で歩いていようが誰かといようがずっと喋っている。基本的にはこういう文章の文体で喋っている。あんまり台詞調ではないかな。普通に一人称の文章を組み立てるように頭の中で喋っている。おはなしを作っていたりもするし、頭の中で会話のシミュレーションをしていたりもする。なので夫と一緒にいるときに突然「だけど〇〇だよね」みたいな話し方をしてしまい、「そのだけどは何につながってるの?」と訊かれたりする。私のなかではそこまでの思考がばっちりあったんだけど、声に出たのは「だけど」以降の部分だったりとか。無心にはなかなかなれないなぁ。無欲にもなれそうもない。小さい頃から自分は欲の塊だなぁと思ってきた。七つの大罪に当てはめるなら「強欲」だろう。今のところ、どうしても成功させなければならない場面も特にないので強欲でも困らないけど、無欲かつ無心の状態にならないといけない場面に出会ったりするのかなぁ。

 加藤さんの「無心」の旅は本の引用から始まり、お馴染みの先輩の話、コンサートの話、お馴染みのジムのトレーナーさんとの話、そして釣り(釣り!)と、これまで出てきたオールスター総出演のようなテイストでとても面白かった。最終回を見据えていたからそんな話になったのかな。

 

 

 

 

 

trip13:浄土(2019冬号)

 加藤さんの人生、「後悔だけが人生だ」ってキャッチフレーズがつきそうだなって思う。勿論そんなことはないんだろうけど、でも「あのとき自分がこうしていたら」っていう、自分が何かできそうな余地を見つけたいんだろうなって気がしてしまう。それはエゴでしかないと、ただの自己満足だと、似たような傾向のある私は思う。なんでもかんでも自分のせいにしてしまうのはとても楽だ。

 死んだ誰かの言葉を、生きている他者(まして私のような一切の関わりのない他者)が解釈するのはよろしくないと思うのでしないけど、加藤さんとジャニーさんは何かがすれ違っていたのかな、と感じた。きっと、もっと対話できれば解消できるものもあったんじゃないかと思う。って言うのは簡単なことだけど、実際はとても難しいんだよね。タイミングの問題もあるし、他者が勝手に口を出していいことではない。でもまぁ、それもひとつの感想として。自分がそういう状況に置かれたときに、同じ後悔をしないようにという教訓として、そう思った。

 ジャニーさんの訃報に際して発表された加藤さんのコメントを、私は愛おしくて好きだと思った。こんなふうにエッセイを書くくらい本当なら文章の上手い人なのに、言葉を選ばずに言うとへたな文章だった。だからこそ、すごく胸に刺さった。加藤さんにとってどれほどの衝撃なのかが言葉そのものから伝わってきた。言葉を選んでいられない場面だったのだろうと想像できた。こんな場面で再確認するのは不謹慎かもしれないが、この人が好きだと改めて思った。

 そう思ったこともあって、これ以上何かを語ったのを読んだとしても私としてはもう十分という気持ちもあったし、うじうじしている人のことは(同族嫌悪の意味もあって)好きではないのでこの回を読むのは非常に気が進まなかった。他者(=この場合は読み手の私)にはどうすることもできない感情が吐露された文章というのは、私は苦手だ。だって何もできないから。何もできないのに、ただ読むしかないのに、そんな文章を読むのはちょっとつらい。

 誰にもどうしようもないことをなぜ書くのか。なんらかの教訓を得てほしいのだろうか。たぶん違う。書かずにはいられないからだ。さっき、教訓として受け取った部分があったって書いたけど、それは私が勝手に受け取ったのであって、そう受け取ってほしくて書いたわけじゃないだろうと思う。書かずにいられなかったから書いたんだろう。書くことで、加藤さんの中で何か落ち着くものがあったんならいいな。

 

 辻村深月さんの『ツナグ 想い人の心得』という作品(『ツナグ』の続編)がある。「ツナグ」というのは死んだ人に一夜限りで会わせてくれる仲介人だ。連作短編のかたちで、ツナグである歩美のもとに死者との面会を求める人たちがやってきて……という話が描かれる。この物語の中で、ひとつだけ、死者と会わない話がある。

 木工の工房を営む三人家族がいて、一人娘は工房の主である父の跡を継ぎたいと言っていたが、父は許可することなく亡くなってしまった、という話だ。生きているうちに認めてもらえなかった、という思いが娘には残ってしまった。歩美は父親のことも娘のことも知っているが、ツナグとしてではなく普通の仕事をするなかで出会った間柄なので、自分がツナグであることを言い出すべきかどうか逡巡する。他の話ではすべて、死者に会ってわだかまりを解いたり言いたいことを伝えたりするのに、この話ではしない。わざわざツナグに頼んで会わなくたって、心の中にいるその人を指標に生きていくことができるからだ。工房の娘さんは、自分の心の中にいる父に認めてもらおうと努力を重ねていく。

 このエッセイを読んだときに、『ツナグ 想い人の心得』のこの話を思い出した。きっとこういうことだろう、と思った。実際にはツナグはいないし、死んだ人には会えない。でも、心の中で「きっとあの人ならこう言うだろう」とか「こうしたら褒めてくれるかな」とか、そういうかたちで“会う”ことはできる。加藤さんにとって、ジャニーさんはそういう存在なのだろうな、と思った。

 

 

 カムパネルラは、その紙切れが何だったか待ち兼ねたというように急いでのぞきこみました。ジョバンニも全く早く見たかったのです。ところがそれはいちめん黒い唐草のような模様の中に、おかしな十ばかりの字を印刷したものでだまって見ていると何だかその中へ吸い込こまれてしまうような気がするのでした。すると鳥捕りが横からちらっとそれを見てあわてたように云いました。

「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈でさあ、あなた方大したもんですね。」

 

 スティードの感想記事には、「どこへでも行ける切符」と名付けてきた。「銀河鉄道の夜」で、ジョバンニが持っている切符をイメージした言葉だ。感想記事の第一回で、こんなことを書いていた。

 

この「スティード」は加藤さんにとってのどこへでも行ける切符みたいなものなのかなぁと勝手に思っている。「銀河鉄道の夜」でジョバンニのポケットに入っていた切符のような、そういう存在。加藤さんにとって、文章を書くことこそがどこへでも行ける切符なのではないだろうか。

 

 「銀河鉄道の夜」はカムパネルラという死者とジョバンニという生者の物語だ。奇しくも、最終回の内容と重なる部分があるように感じた。

 加藤さんはきっと「ほんとうの天上へさえ行ける切符」を持っている。文章を書くことで、きっとどこへだって行ける。そうやって旅を続けた先で彼の理想とするものにいつか辿り着いてほしいと、散々ここまで内臓をぶちまけておいて最後に穏やかな気持ちになるのもどうかと思うが、すごく穏やかな気持ちで、思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 スティードの文章は加藤シゲアキ濃度500%って感じで、ページ数/文字数としては決して多くないのに小説を読むより気持ちがもっていかれてしまう。あまりにしんどすぎて読んでは手を止め……を繰り返すこともざらだ。あまりにも濃度が高い。こんなにも濃度が濃いエッセイが書き下ろしや掌編小説やあとがきをプラスして一冊になったら更に濃ゆくなってしまう。こってりスープのつけ麺みたいで、途中で箸を止めてしまいたくなるかも。

 でも、単純に読みたいと思う。読んで、ああでもないこうでもないと感想を繰り広げたい。時には飛躍して自分の話に引き寄せてしまうこともあるだろうし、飛躍しまくって全然関係のなさそうなところに着地するかもしれないし、決して楽しいことばかり思い描けるわけではなくてつらい記憶や悲しい思い出に触れなければならなくなることだってあるだろう。しかしそのきっかけを辿ればこの「できることならスティードで」に辿り着く。それってすごく素敵なことだと思う。

 

 書籍化によってそんな素敵な体験ができることを、また楽しみにしています。

 

 

 

できることならスティードで

できることならスティードで

 

 

 

 

 

 

 以下は1回目~4回目分と5回目~8回目分の感想。

 

penguinkawaii.hatenablog.com

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