言葉にしないこと、信じること

 加藤さん、32歳のお誕生日おめでとうございます。お誕生日と関係あるようなないような、そんな文章です。

 

 ここ数年で今が一番気楽にシゲ担でいられる気がする。なんていうか「気楽」。今まで割と思いつめた気持ちでいたので……多分2016年からずっと思いつめてた。長いな。よくもまぁ数年間も思いつめた気持ちでいられたよねって思うくらい今は気楽です。気楽になれた要因ふたつを書き残しておこうかなと思います。

 

 

言葉にしないこと

 

 私は嬉しいことがすぐに話したくなるし、悲しいことがあったときもできれば話したいなって思うし、とにかくすぐ話したい。今でもそう。母親になんでもきいてもらいたがる子どもみたいな(実際は母親にはなんでもは話せなかったんだけど)、そんな気持ちで「きいてきいて!」って思っちゃう。今でも結構思ってる。私がどれだけNEWSのことを愛しているかきいてほしい。私がどれだけ加藤さんのことを愛しているかきいてほしい。だから書こう。好きだって気持ちを言葉にしよう。

 

 だけど、ここ一年ほど、言葉にすることについて考えている。

 言葉こそすべてで、思ったことを表明したかったら言葉にするべきで、言葉なら思っていることをなんでも表現することができると信じていた。

 でもそうじゃないなと去年の春ごろに気づいた。言いたかったことが意図通りに伝わらないこともある。言葉を紡ぐ側が下手だからかもしれないけれど、それ以前の問題として受け手と使っている辞書(頭の中にある概念的な意味での辞書)が違う可能性もあるから、まったく同じ意味で伝わるなんてことはそもそもありえない。私の辞書で「メロンをお腹いっぱい食べること」を引いたら「最高に幸せ」って出てくるけど、もしかしたら「地獄」って出てくる人もいるかもしれないように、真逆の意味で伝わることもある。ここまではわかっているつもりだったけど、まったく重要でない部分が切り取られてそこだけ解釈されてしまうこともあるのだと気づいた。

 怖い。私はそんなこと言ってないのに、そう言ったととられてしまうことが怖い。だったら何も言いたくない。誰も傷つけたくないのに、誰かが私の意図しない傷つき方をしているかもしれない。誰かを傷つける意図はないであろう文章に、なんでそんなこと書くのって私が勝手に傷つくように。

 あまり言葉にしないようになった。そのくせにブログの更新頻度が落ちないけど、書いている意識としては数年前とは全然違う。中身が薄くなったとかではなく、今までと違うことを書くようになった。そのくらい、言葉について悩んでいる。今もまだ。

 だから、ここしばらくはあまり加藤さんのことを文章にしていない。何かきっかけがあったら書くけれど、Twitterにもブログにも昔ほど書かなくなったなと思う(最近はファンサの話とか具合が悪い話とか書いたけど、あれは日記的な位置づけだし、めちゃくちゃ推敲して書いていいと思えるところだけ書いた)。

 正直、書かなくなったら好きって気持ちも薄れるかもしれないと思っていた。書くことで何度も繰り返し意識して好きという気持ちを更新して、という作業が気持ちを維持するために必要だと思っていた。それでも書きたくないと思ったから書かずにいる。

 

 愛は誰かに見せたり まして誇るようなものではなくて

 どんな形 どんな色 そっと秘めたまま

 

 ポルノグラフィティの「ルーズ」という曲の一節だ。私はずっと、この部分の意味がわからなかった。

 私が愛していることを誰かに見せたい。こんなにも愛してるんだって大声で話したい。誰かを愛することがこんなに楽しくてつらいことだって、伝えたい。わかってほしい。だって、自分の中だけにあるものが本当に「ある」かどうかなんてわからないじゃないか。それを「ある」と言い切れるのか?私は「ある」と言い切る自信がなかった。だから、誰かに伝えて、「あなたのなかにその気持ちがあるんだね」って思われることで、私のなかの気持ちが「ある」ものになると、そう思っていた。

 それに、書いて外に出していかないと私の中の気持ちは更新されず、古いものから忘れ去り消えていくんじゃないかって、そんな気もしていた。自動でファイルを削除してくれる便利な機能があって、最終更新日が一定期間より古いものはどんどん消えていくようなイメージ。

 私は忘れっぽい。夫は私とした些細な会話も覚えているが、私はとっくに忘れていることがすごく多い。あまりにもよく忘れる。だから、好きなものに対しては好き好き大好き超愛してるって書き続けないとって思っていたし、ただの「好き」では忘れてしまうから理由も書いて関連付けていればきっと忘れないだろう、この気持ちが冷めることはないだろうって思っていた。

 でも、加藤さんについて口を閉ざしているなかで、ちょっとだけわかった。悲しいことを自分の心に閉じ込めたとしてもなくならないように、嬉しいことや楽しいこと、好きという気持ちもなくならない。マイナスな気持ちもプラスの気持ちも、どちらか一方だけがなくなるということはない。私は過去の悲しかったことやつらかったことを沢山覚えているけれど、それと同じように好きという気持ちは持続する。言葉にしないとなくなってしまうと思っていたけれど、そんなことはなかった。言葉にしてもしなくても、なくならないものだった。言葉にしなくても頭の中で繰り返し考えているから、なくなるなんてことは全然なかった。外に出さなくたって繰り返し考えてしまうから最終更新日は常に今日いまこの瞬間みたいな感じ。

 それに、書いて外に出して誰かに「ある」ことを確かめてもらわなくても、それは確かにそこに「ある」ということもわかった。正直これはまだ半信半疑で、もしかしたら「ある」と思い込んでいるのは私だけなのかもしれない……と思ってしまうのだけれど、そもそも私が「ある」と思い込んだ時点でそれは「ある」のだろう。あります。

 なんだか、安心したのかもしれない。私の愛は秘めたとて失われず、確かに「ある」。それがわかったので、言葉にするのをやめるのも悪いことではなかったなと思う。言葉にしなくても好きでいられるんだと、20代最後の歳にして知った。まだまだ知らないことが沢山あるんだね。

 好きでいることを頑張っていたわけじゃないけど、好きでいられなくなりそうなことをしないようには気を付けていた。でも、言葉にしないことで好きが薄れるわけではないことはわかった。わかったことで少し気が楽になったな~って思う。

 多分これからもあまり言葉にしないと思う。まぁ、私も人間なので、方針の転換はあるかもしれないけど、今のところは。

 

 

 

 

信じること

 

 信じてたいんだ 光見えない未来を 

 あのとき君が信じてくれたように

 

 「生きろ」の加藤さんのパートで、最初はそんなにしっくりきていなかったけれど聴くたびに好きになっていく部分。信じるってなんだろうと考えるきっかけになった歌詞でもある。

 なぜあんまりしっくりきていなかったかというと、「あのとき君が信じてくれたように」に対して、私はどうだろうって思っていたから。そこに私が重なることはありえるのだろうか?ちょっとこの話題は一旦私の四畳半に持ち帰って考えますね。で、考えた。そういう話です。

 

 辞書で「信じる」を引くと(「信ずる」に飛ばされ)、三つの意味が出てくる。

   ①  疑わずに本当だと思い込む。心の中に強く思い込む。

   ②  疑うことなく、たよりとする。信頼する。

   ③  神仏などをあがめ尊び、身をまかせる。信仰する。

 たぶんこの場合は②が当てはまる。②の「信じる」について、最近よく考える。

 ②の意味で使っていたとしても、「その人が正であると信じる」ことと、「その人を信じる」ことでは意味合いが違ってくる。

 私は、加藤さんがいついかなるときも正であるとは信じていない(私の主義とぶつかりまくるし、加藤さんを正と信じたら私がぼこぼこになるので生きていけない。ここでいう主義主張に正誤の区別はなくて、たぶん対等なものだと思う)。特定の人やものがいついかなるときも正であると信じる、というのは、きっと宗教における「信じる」に近いのではないかと思う。世界の大前提として信じるというか。私の「信じる」は、それではない。

 私は加藤さんの言葉に揺らぎまくるし、私の正義とぶつかることも結構ある。でもそれってきっと加藤さんのことをひとりの他者として信じているからなんだよなぁと最近は思う。加藤さん自身のことは信じている。なんていうか、ひとりの人間として、この人を軽んじたくないと思っている。

 加藤さんから出てくる言葉にいちいち引っ掛かり、いちいち考える。疑っているわけじゃなくて、私の主義主張に何がどう引っ掛かるのかを、丁寧に確かめたい。なあなあで済ませたくない。対話はできないから、相手を理解することにはならない。でも、私がどう思うかをより深めることはできる。ここに書いていることも、そうやって深めた自分の話であって、加藤さんの話では全然ない。これはただただ私の話です。

 

 もし加藤さんが選んだ道(考え方や言動などを含む)が、私が正とするものと違っていたとして、だからなんだというのだろう。別に、それでいい。私は、そっちじゃないよなんて言いたくないし、言えないとも思っているから。私の位置から見たら見えないものを加藤さんは見ていて、ゆえにその道を選ぶのかもしれないし。進んでみないとわからないよね。

 たとえば、加藤さんは『愛するということ』を読んだという話の中(レタスクラブ6月号)で「感情の奴隷になるな」ということを言っている。感情をコントロールすることについて、それが是であると、そういうニュアンスに読み取れる。しかし、私はそうは思わない。私は「感情はコントロールできない/コントロール下においてはいけないもの」くらいに思っているふしがあるし、「感情が先か、私が先か」(感情があるから私があるのか、あるいは私があるから感情があるのか。今のところ私は前者なんじゃないかと思っている)という話について考え続けているくらいには感情を「信仰」しているのだと思う。だからといって加藤さんの考え方が間違っているとは思わないし、私自身の考えが間違っているとも思わない。

 

 加藤さんのことを考えるとき、よく「彼の前に42.195kmの距離があるとしたら、自転車や車に乗ることなく走り切ってほしいと思うし、遅くて並走はできないかもしれないけど私も走ろうと思う」という思考に辿り着く。車に乗ったり、電車に乗ったりすればもっと安全だし速いだろうけど、そうしてほしいとは思わない。この気持ちが、加藤さんに対する私の「信頼」なのだと、そう思っている。信頼しているんだから、やっぱり信じてるんだろう。じゃあこの歌詞はきっと私とも重なる。

 

 で。

 

 信じてたいんだ 光見えない未来を 

 あのとき君が信じてくれたように

 

 「あのとき君が信じてくれた」のはなんだったんだろうって、WORLDISTAの会場で聞きながら考えていた。順当に歌詞から予想すれば「光見えない未来」を信じていたのかなと思うんだけど、実際に歌声を聞いていると「加藤さんのこと」かなぁと感じた。私は作品に正解があるというより受け手の感じ方次第だと思っているので、そんなのこの曲の解釈と違う!というご意見もあるだろうけれどこのときの私はこう感じたという話です。

 私が加藤さんを信じたことが、加藤さんが未来を信じる力に変わるんだとしたら、すごくない?私はすごく嬉しい。

 だって、それっていつまでも残るものだから。私はこの先加藤さんのファンじゃなくなるかもしれないけれど、未来はいつでもいつまでも加藤さんの前に広がっている確かなものだ。いつかいなくなるかもしれない私が加藤さんを信じたということは、たとえこの先私が加藤さんを信じなくなったって変わらない。そのときそうだったという「事実」は消せやしないのだから。

 そんな私の「信じる」という気持ちが糧となって、確かにあるこの先の未来を信じてくれるんだったら、安心していられる。いつか私がいなくなってもこの人はちゃんと立っていてくれるって思うと安心できる。

 応援しなきゃとか、信じなきゃとか、思ったことはない。ないけど、本当に1mmもないんですかって訊かれたら即答はできないしはっきりと答えることもできない。心のどこかにそういう気持ちがあってもおかしくないなって思うから。でも、多分ここから先は一切ない。

 私がこの先加藤さんのファンではなくなっても、私が加藤さんを信じていた事実は残る。それだったら安心していられるなぁと思った。具体的に言うと、私はここ数年「きっとNEWS担/シゲ担としてジャニオタとしての人生を終えるだろう」と思ってきた。なんとなく、そうでありたいと思っていたのかもしれない。そうやって言葉にすることで、自分を縛り付けていたようにも思える。

 でも今は「わからない」と思う。この先のことなんてわからない。未来は不確かなものだし。全然わからないなかで、いま私が加藤さんを信じているということは確かで、だったらそれだけでいいじゃないか。今まで信じてきたことと、今信じていること。それ以上に何があるというのだろう。

 今こうして加藤さんのことを信じていられることがとても幸せ。

 

 

 

 

 

 考えていることを整理しながら書いたつもりだけど、思考がたまに脱線するせいでまとまりのない感じになっちゃったな。まぁいっか。

 

 ここまで話してきたふたつのことは繋がっていないように見えるけど実はつながっている。言葉にしなくても消えないということ、消えた(あるいは変わった)としても「そこにあった」という事実は残るということ。

 なんだかとても気が楽になった。今まで何を背負っていたのか忘れちゃうくらい。もしかしたら、背負った気になってただけで、その「気のせい」が晴れたのかもしれない。

 

 

 多分、加藤さんのことを応援したい、好きなアイドルとして、「自担」として名前を挙げたいと思ったときから、いろんなことを考えてきた。ときには「加藤さんのことを好きなのかどうか」「シゲ担と言っていいのだろうか」といろいろ悩んできた。めんどいやつだな。でも、今はすごく気楽だ。背負うものが何もない。

 こういう気持ちで加藤さんの誕生日を迎えられることを嬉しく思います。改めて、お誕生日おめでとうございます。