具合が悪い:毎日が未知との遭遇

 加藤さんのことを考えると具合が悪くなるという説がある。私は概ね具合が悪くなります。

 

 

ibuka4ge.hatenablog.com

 

 こちらのブログのアンケート、私の具合の悪さはこのコメント欄にはおさまらないな……と思ってノーコメントで回答したんですが、なんで具合悪くなるの?なんでだろう?わかったらちょっとは具合の悪さ解決しない?って思ったので考えました。そういう日記です。

 

 

 具合悪いとは:なんか胸のうちにぐるぐるしたものがあって快活!と言うには程遠い状態。たまにリアルな頭痛と腹痛を伴う(私の場合は)

 

 

 

原因1:使われる感情の総量が大きい/未知のものと出会う

 加藤さんに対して使われる感情の総量が大きすぎて、単純に疲れてしまって具合が悪くなるのではないかという説。たぶん原因2~4は感情が動いてしまう原因みたいなもので、一番の原因はこれだと思う。

 「無関心」が感情が全く動かない状態だとして、「好き」だけでなく「嫌い」も感情を動かしているとする。ちなみに私のいう感情のメーターはマイナス(嫌い)とプラス(好き)がひとつの目盛りで表せるやつ(数直線みたいな)ではなくそれぞれが独立している棒グラフみたいな感じをイメージしてください。「好き」と「嫌い」は矛盾せず両立するものだと思っているので、「好き」と思った瞬間にも「嫌い」が同時にある。加藤さんのことは「好き」なところもあるし、「嫌い」なところもある。多分どちらも同じくらいある。日によって比率は変わるけど。ここでいう「嫌い」とはなんかこう……「自分の主義とぶつかり合うがゆえに受け入れがたい」みたいな……そういう意味です。加藤さんとはよくぶつかり合う。

 で、具合が悪いときはそんな棒グラフみたいなメーターが絶えずMAX値に近づくようにギュンギュン動いている状態。「好き」「嫌い」「未知・分類不可能」みたいなジャンルのメーターがあって、3つ目はそんなに頻繁に動くわけじゃないけど年に何度かメーターが振り切れるほど動くときがあって、一番しんどい。自分で名付けられないものが自分の中にあるのやばくない?私はやばいと思う。未知、やばい。あまりにも未知な部分が多すぎると「好き」とか「嫌い」もわけがわからなくなって「私は加藤さんのことが好きなのか?」という問いから始めなければならなくなる。しんど。大抵は「まぁ多分好きって言っていいんだと思う」に落ち着くけど、雑に考えて結論を出すなんて加藤さんに失礼な気がするし私自身を大切にしていないように思えてめちゃくちゃ考えてしまう。このときの感情メーターの動き方は尋常ではない。たぶんMAX値以上まで動いちゃうときあると思う。

 他のメンバーに対する感情には大抵の場合名前がつけられるし、動いてもそこまで大きくはない(とはいえその他の人々に対する感情よりは全然動く)。ただ、加藤さんに対する感情はその比ではないほどに大きい。職場で動く感情の総量がMAX50、友達に対して動く感情の総量がMAX100だったら、加藤さんに対してはMAX500くらい。「好き」200・「嫌い」200・「未知・分類不可能」300くらい……700だったわ……。私は多分手持ちの感情の量が多いほうだと思うけど、それでも健康な状態を保っていられる感情の総量がせいぜい300くらいなので、「未知・分類不可能」のメーターがぐーんと増えるともうそれだけで具合が悪くなる仕組みなんだと思う。たぶんこのメーターが示す数値以上にしんどい。でも「好き」「嫌い」を足しただけで400あるからどちらもMAX近い数値になっちゃったらそれでもう既に具合が悪い。常時不調。

 

 

 

原因2:気が合わない

 気が合わない人のこと好きだと絶対具合悪くなるでしょ。気が合わないのに好きなんだもん。合う部分もあるけど、基本的には合わない。音楽の趣味も読書の趣味も映画の趣味もそんなに合わない。そんなに合わないのに「これは加藤さんが好きそうなやつだな」ってわかっちゃうから具合悪くなる。

 それ以上に、私の根本を揺るがすレベルで気が合わなくて泡とか吹きそうになる。加藤さんが「自分はこう思う」と出してきたものに対して「私はそう思わない」みたいな気持ちになることが割とある。どちらが間違っているとか正しいとかではなくて、主義のぶつかり合いのような感じ(ぶつかり合いというか一方的にぶつかっているだけではあるが)。上にも書いたけどそれを「嫌い」という言葉で表現したりしている(私としてはすごくしっくりくるんだけど、よそから見たら過激に見えるかなぁと思ってあんまりネットでは言わないようにしています)。ちなみにこの「嫌い」については河野裕さんの「階段島」シリーズに詳しいので気になった人は読んでみてください。

 もしこれが友達同士とかだったら話し合ってわかり合う(または納得できるところを見つける)こともできるかもしれないが、私と加藤さんは友達ではない。出会いもしない相手に「私はそうは思わない」と勝手に思っているだけの一人相撲である。そこもうちょっと詳しく聞かせてよ、みたいなのができない。悔しい~~~友達だったら聞けるのになってこといっぱいある!でも友達じゃない!知りたいのに!

 でも気が合わないからってこう……これ以上知りたくないとかどうでもいいとかそういう気持ちにはならない。自分と違うから知りたくなるし、すごく気になる。それに好きな部分も「わかる」と思う部分もたくさんあるし。だけど私も人間なので、自分とは違うものについて(しかも答えがないものについて)考えているとそれだけで疲れるししんどいなって思う。単純にそういう意味でも具合悪いです。

 

 

 

原因3:内臓

 エッセイやWeb連載で出してくる文章ってたまに内臓じゃないですか?

 内臓というのは、本来ならば体の中にあるべきプライベートな部分(ここでいうプライベートは私生活という意味ではなく、極めて個人的とかそういう意味)というか、外に出すことを想定されていないもの(その多くはグロテスク)的な意味合い。私はそう思って「内臓」と言っている。

 見る準備をしていないのにいきなり内臓見ちゃったらギャー!ってなると思うし、ずっと見てたらなんだか疲れてくると思う。そういう具合の悪さもある。

 内臓を見たとき人は何を思うか、っていうと他者のことはわかんないから答えようがないが、私は何を思うか、なら答えられる。内臓を見たとき私は何を思うか。私の内臓である。私の中にあるそれを思う。だから、本当は考えたくないプライベートな部分を引っ張り出されたような気持ちになることがある。別に引っ張り出す意図はないのだろうけど、結果として引っ張り出される。エッセイやインタビュー記事などは特にそうで、「こういう出来事があってこういうふうに思った」という話をしているだけだとしてもそれが圧倒的に内臓。読んですぐには感想を言葉にすることができない。とてもじゃないけどネットに書けるような感想にはならない。しばらく寝かせないと直視できないというか。加藤さんの文章を読んでいると「お前に内臓を晒す覚悟はあるか?」って問われている気持ちになる。多分問うてないと思うけど、内臓に対抗できるものは内臓しかないので(?)、そういうふうに受け取っちゃったら内臓について考えるしかなくなる。

 自分の中にある、外に出すことを前提としていない部分って、とてもグロテスクだ。こんなグロテスクなものが自分の中にあったのかよ……ってテンションが下がることもあるし、こんなグロテスクなものが自分の中にもあったんだ!ってテンションが上がることもある。そのときの気分次第みたいなところはあるけど、でも加藤さんが内臓を提示してくるからこういう発見があるんだよな。発端は加藤さんです。

 ただし、加藤さんはファンレターに「脳みそ露出狂」と書かれていたという話で「俺が全部見せてると思ったら大間違いだぞ!笑」ってラジオで言っていたことがあるので、このひとは自分が「見せてもいい」と判断した内臓しか見せていないのだと思っている。加藤さん的には「見せてもいい」内臓なので「これは見せちゃいけないのでは……」とは思わなくていい、安心して見ていい内臓ではある。見ていて安心できるかどうかは全く別の話だが。できないです。 

 余談だけど大学のゼミの先生が「まだ誰の足跡もない真っ白な雪の上に内臓が落ちていて、そこに朝日が射していたらとても奇麗じゃないですか?」って言っていて、確かにすごく奇麗だなぁと思ったことがあって忘れられないんだけど、加藤さんの発言や文章もときどきそういう美しさを放っているときがあるなぁと思う。内臓。

 

 

 

原因4:コヤシゲ

 「親友」って呼べる人、いますか?私はいません。

 友達はいる(と思ってる。少なくとも私の視点から見ればいる)。信頼をおいている友達や尊敬している友達もいる。でも、今までの人生で誰かに対して「親友」って言葉を使ったことがないし使われたこともない。中学の頃とか「私たち親友だよね」っていう二人組がクラスにいたりもしたけど、都市伝説みたいに実感のないものとして見ていた。信じるか信じないかはあなた次第

 中学までの知人友人とは縁が切れているし、高校・大学でもニコイチみたいな仲のいい人はいなかったし、何より私の周りには「親友」という響きに気恥ずかしさのある人ばかりが集まっていたから自分たちの関係にそういう名前をつけなかったんだと思う。ベタベタしすぎないけど仲のいい私たちかっこいいよねみたいな(ってあのときの私は思ってた)。高校の卒業式のあとも「お腹すいたんだけどこれもう帰っていいの?」つって帰ったし。そういう関係が心地いいって思ってはいるけど。

 このあいだ本を読んでいて、主人公の女の子の一人称で書かれていて、別の女の子に対して「親友」って呼んでてうわー!って思った。私の全く知らない文化!私の通らなかった道だ!あんまりにも未知すぎて話そのものよりも「親友」というワードのほうが強烈に残ってしまっている。この気持ちが、コヤシゲを見ているときにも沸き起こることがある。

 なんていうか……相手が自分のことを好きだってなんのためらいもなく思えるのってすごいと思う。私はちょっとできないかな。私は私と付き合うとこういう利点があるからその利点が有効なあいだは私のこと好きでいてほしいなって思うくらいしかできないのに……コヤシゲのお互いに対する信頼すごくない?人という字は人と人が寄りそってできてんだな~って感じがする。

 どういう気持ちで関係性に「親友」という名前をつけるのかを考えると未知すぎて具合が悪くなる。なによ「俺もいるし」って。なによ!なんなのよ!ウワーーー!

 

 

 

 もっと短く済まそうと思ったのに長々と書いてしまった。加藤さんのことを考えると毎日が未知との遭遇、今日も具合が悪いです。