見つめること、誠実であること

 どう言葉にしたって伝わらないから言葉にするの諦めてたけどちょっと残しておこうと思う。ファンサもらったよ~って日記です。

 

 

 

 WORLDISTA仙台での話。スタンド1列目だった。 

 前日も入っていたから目の前でちょうどトロッコが止まることはわかっていて、「ここ絶対来るじゃん!やば!」と一緒に入った小山担と盛り上がっていた。

 ファンサ曲のとき、まずは増田さんのトロッコが通過した。体の分厚さがマジやばい。想定していたよりも近かった。そのあとで加藤さんのトロッコが来る。 

 こんな至近距離で加藤さんを見るのいつ以来だ……?って感じだしこっちもこっちで思い入れが積み重なりすぎて無理無理の無理だしいっぱいいっぱいになってしまって微動だにできなかった。「シゲ」って書いてその周りにハートが散ってるうちわ持ちながら、周りの人たちがキャー!ってなってるなか、まったく動けないまま泣かないように顔に力を入れて加藤さんを見ていた。何かに集中しすぎて周りの音や見えているものが遠のくっていうか、ドラマとかでそこにだけスポットが当たる感じのやつが私は割と実際に起こるタイプなんだけど、まさしくあれが起こってた。誰かに手を振る加藤さんと、それを見つめる私しか世界にはいなかったの。 

 ちょうど曲と曲の合間で、トロッコが私の目の前で止まった。加藤さんがこっちを見ていた。私を。動けないままでいる私を、手を振るとか何をするとかでもなく、険しい顔ですっごく見ている。こっち側に何か(モニターとかスタッフさんとかそういう段取り確認的な何かが)あるのかな?って思ったけどそういう視線じゃなくて、これは私なんじゃない?って思えちゃうこの間数秒。加藤さんがこっちを見ている、何か応えなくちゃ、多分叫べば届く位置だけど、言うべき言葉がない。言葉が無力だって知っちゃったから、言えることが全然ない。「好き」とか「最近書いてる?」とか「釣り行けてる?」とか「大好き」とか「嫌いなところもあるけどその嫌いなところがなくなっちゃったらもっと嫌いになるくらい好き」とか「ぶっちゃけ私のブログ読んだことあるっしょ」とか「嫌な思いさせてたらごめん……」とか「でもどうか好きであることだけは伝わってほしい」とか「好き」とかいろいろ思って、それらが一言で収まりきるような言葉が私の中にはなかった。誤解されるくらいなら何も言いたくないけど、加藤さんの視線が私をとらえていることはわかったよって伝えたかった。ので、咄嗟に頷いた。 

 そしたら加藤さんも頷き返してくれた。これは、勘違いのしようがない。あーーーいま世界に二人しかいない。視線の届く範囲だけが世界だ。と思ったらまた泣きそうになっちゃって、涙をこらえようとしたらどんどん険しい顔になってしまい、しかもまだトロッコが止まっているし、加藤さんも険しい顔のままだし、険しい顔のまま見つめ合っている。でも頷き合ったらもうこれ以上できること何もなくない!?だけど目をそらせない。奥で先行するトロッコに乗っている人たちが入れ替わっているから、それが終わるまでの結構なあいだ目の前にトロッコがあって、そこにあるあいだはお互いの視線がぶつかっていたと思う。長すぎて戸惑った。 

 隣にいた友達が「シゲが見てるよ!」って言って私の肩に触れて、周りの世界が帰ってきた。音も視界も全部一気に流れ込んできて、魔法がとけたみたいにはっとなって、私を支えていた足が仕事をやめてその場に崩れ落ちた(私はよく加藤さんがやばいと膝から崩れ落ちる)。加藤さんと目が合ったまますとーんと崩れ落ちて、目の前は柵(?)があるので視界が遮られる。どうにか這い上がった頃にはトロッコはもう遠ざかっていた。友達いわく「シゲびっくりしてたよ」。 びっくりさせてごめんだけど私もびっくりしたんだよ……そんな見られると思わないもん……

 

 私は私の感覚の世界に生きているから他の人のことはよくわからないけど、世界に二人だけになることってあんまりない感じですか?私は割とある。集中の度合いなのかわからないけど、自分の周りが遠ざかるような、集中している部分だけ感覚が研ぎ澄まされたような感じになる。

 前にポルノのライブで横浜スタジアムのバックネット裏席(ステージの真向かい)だったとき、ステージから一番遠い位置の席にも関わらず世界に私と新藤さんしかいなくて、世界に二人きりなのにこんなに遠いんだって思って泣いたことがある。遠くたって世界に二人きりになっちゃうんだから目の前にいたらそりゃあなっちゃうよね。っていう話です。

 

 

 

 ここから先は余談です。ここより前もずっと余談だけど。

 

 

 本当に、言葉は無力だなぁと思う。去年それに気づいてしまった。いくら言葉を駆使しても届かないものはあるし、意図とは違う届き方をしてしまうこともある。余計なことを言ってしまうくらいなら何も言わないでいようって思っている。言えないわけじゃない。私は私の意思で「言わない」って決めて、言わないでいる。Twitterでもブログでもそうだけど、言っていることが全てというわけではない。言わないでいることも沢山ある。言葉こそがすべてだと、言葉ならなんでも表すことができると、ずっとそう信じてきたのに、そうじゃなかった。それがちょっとしんどい。現在進行形で。

 だから去年、「好き」とかそれに類する感情について改めて考えた。私の「好き」のかたちについて。私の「尊敬」のかたちについて。そこで私が一旦の答えとして出したのが「見つめること」だった。

 

 「尊敬」という感情の発露の仕方にもさまざまなかたちがあると思うけれど、私の場合は「目を瞑らずに見つめること」というかたちだ。あるいは「ひとりの人間としての目線で、相手をひとりの人間として見ること」と言い換えてもいい。対面し対話することが叶わない関係だということはわかっているけれど、できるだけなんのバイアスもなく対等でありたい。ここでいう対等は、社会的立場もクソもない自分に下駄を履かせて相手と同じ立場になることではない。ただのひとりの人間として、ただのひとりの人間を見るということだ。周囲の意見とは関係なしに、私と私が見る加藤さんについての、それ以外の何者も関係しない世界で完結したい。過保護にもなりたくないし、過度にきつくなりたくもない。ただ、私は私の価値観でもって、あなたを見ていたい。

 

 これは去年のブログ(信仰と尊敬と、誠実であること - 来世はペンギンになりたい)の私の内臓みたいな文章なんですけど……こんな……フラグ回収みたいなことあります?って自分で読んでて思っちゃった。ここでいう「見つめる」は概念的な意味を含んでいるというか概念的な意味の話だけど、でも実際としてもそうだよねって。それまでの私は言葉を尽くして「わかる」ことこそが最重要事項だと思っていたんだけど、そうじゃなかったって気づいて本当に本当にショックだった。でも、加藤さんが頷いてくれて、言葉が無力だと打ちひしがれた1年だったけれど言葉じゃないものが届いた気がした。私が大事にしようとしてきたものはもしかしたら無駄じゃなかったのかもしれないなぁ、迷って悩み続けてきたことも無駄じゃなかったのかもしれないと思った。私が新しくつかみ取ろうとしたものは、悪いものではなかったんだなって今のところは思っている。

 相変わらず、加藤さんについては言葉にできることが少ない。ノンバーバルな部分を伴わないネット上の言葉ではなおさらだ。言葉はすべてではない。これからも迷ったり悩んだりしていくんだと思う。でもそれでいいような気もする。

 

 今の私の「好き」のかたちは、「誠実であること」だ。嘘をつかないこと。彼に対して思ったこと、それが喜びであれ怒りであれ悲しみであれ、自分の気持ちを偽らないこと。

 

 これも去年の同じブログからの引用で、私の「愛する」ということは誠実であることだと書いた。今のところ、考え方は変わっていない。今もまだ誠実であろうとしている。加藤さんに対して思ったことを、それがどんな感情であれ、なかったことにしたくない。言葉にするかどうかは別として、自分の中でなかったことにしたくはない。

 これからも私の誠実さでもって加藤さんのことを見ていたいと改めて思った。私が去年いっぱい考えたことは、今の私もまだ大事にしていられることだったんだなぁ。それが唯一の正しいことだとは思わないけど、今の私が正しいもののひとつだと思えるものだったんだなぁって実感できた。なんだかすごくすっきりした気分!はれやか!