それはやっぱりどこまでも行ける切符 ―「できることならスティードで」感想2―

 14の感想は書いたのに続きを書くのすっかり忘れていました。忘れがちなくせに書いておきたいタイプなので書いておきます。とりあえず584回ぶん。

 

 

 

 

Trip5:ブラジル京都(2017年冬号)

 舞台「グリーンマイル」の話題。もはや懐かしい。サブタイトルの通り、「グリーンマイル」という話題を軸にしながらブラジル・京都の二本立てのようになっていて構成のうまさが光る回でもある。

 ブラジルについては実際に行ったわけではなく、ブラジル料理ポン・デ・ケイジョをつくることでキッチンからブラジルへの旅をすることができるという話。「調理」という行為がなかなか苦痛な私からすれば、加藤さんのように楽しめるのはすごいなぁと単純に思う。私が手馴れていないせいもあるけれど、自分の不器用さが如実に出る作業だし、料理をしているあいだは今している作業に必死なので段取りも全然考えられずにパンクしてしまう。昨日も「早く仙豆みたいな最強栄養食が出て、料理は趣味としてやる程度のものにならないかなぁ……」と思いながら人参を千切り(だいぶ太い)にしていた。その後、菜の花を茹でておひたしにするまで耐えられず、帰宅した夫に代わってもらって洗濯物を畳むことにしたが、そっちのほうが圧倒的に楽しく、加藤さんのように料理を楽しめるのは才能のひとつなんだろうなと思った。私にはその才能はないみたい。今のところ開花する予兆もない。

 京都については、こちらは実際に行っている。舞台の公演会場が京都で、そのときの話。お仕事の合間にも京都を堪能しようという姿勢が加藤さんらしいなと思った。私は一人で食事を楽しむということができない(一人だったらいかに安く腹を満たすかしか考えない……)ので、加藤さんのように普段とは違う土地で一人の食事を楽しむのもいいなぁと思う。旅先だと五感も研ぎ澄まされて、いつもなら気にしない会話も耳に入ってきたりするのかもしれない。でも一人だったら安ければいいやって思うから京都でマクドナルドとか牛丼とか食べそう……

 そして後日、食べられなかった「エレベーター」に後から気づくところは思わずくすっとしてしまう。エッセイは「自分がどう考えているか」が書かれている回と「自分の身の回りで起きたこと」が書かれている回があるけれど、今回は後者。私はどちらかというと気楽に読める後者のスタイルが好きだ。(でないと次の回のようにぐるぐると引きずってしまう。それも時には必要だと思うけど。)オチまでしっかりまとまっていて、その意味でもなかなか好きな回である。

 

 

 

Trip6:ニューヨークから世界へ(2018年春号)

 NEWSでニューヨークに行ってグラミー賞の授賞式を見たときの話。洋楽については明るくないのでグラミー賞と言われてもあまりピンとこないが多分すごいものなんだと思う。

 人には語ることと語らないことを選ぶ権利がある。今回のエッセイで「#MeToo」について語ったことに、まぁ加藤さんがネットを中心として起こった運動について知らないわけがないよなと思うとともに、普段この人は語ることと語らないことを選んでいるんだ、と当たり前のことを思った。「脳みそ露出狂」なんて言われることもあるけれど、ちゃんと選んでくれていて、信頼~~~!って気持ちになる。選んで言葉にしてくれているから、安心して加藤さんから言葉を受け取れる。勿論、選ばれて出てきた言葉に対して傷ついたり怒ったりもするけれど、それが「選ばれて出てきた言葉である」という点には安心できる。安心と信頼の加藤シゲアキ

 話が逸れた。エッセイ中に出てくる「タイムズ・アップ」という運動についてはこのエッセイで初めて知った。「#MeToo」と同じくセクシャルハラスメントに対する運動である。グラミー賞でもその運動に賛同する人々の姿が見られ、そこから思考は彼の子供時代へと飛ぶ。小学生の加藤少年が出会った差別と、絶望と、他人任せの期待の話。非常に素直で実直で、しかし誤解のないよう選ばれた言葉で書かれていると感じた。

 なので私もなるべく誤解のないように、かつ素直に書くと、この回に書かれていることは難しくてとても「わかる」とは言えない。書かれている文章とその意味を汲み取ることはできても、それを理解できているとは思っていない。単純にグラミー賞アメリカの話が私の生活圏とはかけ離れていて状況を想像するのが難しいというのもあるし、差別(ハラスメントや蔑視といったものも含む)について語る言葉をもっていないということもある。語る言葉をもたないのは知識がないからで、半端な知識で私が語ったことで誰かが傷ついてしまうのは嫌だと思うから、結果として何も言えることはない、ということになる。「よくない」とか「なくなってほしい」「被害を受けた人が救われてほしい」とは思うけれど、私は私のことで手いっぱいで、それ以上のことを抱えるのは難しい。っていうと「それは私の問題ではない」と切り捨てることになってしまうからそれとはまたちょっと違うんだけど……この話をすると私の自己評価の低さとかそういうのが入ってきてしまうのでこれ以上は割愛するけど(割愛するが結構重要な気がするので個人的に一旦持ち帰って考えます)、手いっぱいであることは確かだ。取り零している問題がただでさえいっぱいあるのに、そこにまた新たな問題を乗せられる余裕がない。なので、考えが上手くまとまらないな。まとまらないけど、エッセイからこんなふうにいろいろと考えることが、エッセイが書かれている意味のひとつだと思う。だって加藤さんのエッセイ読まなかったらこんなこと考えてないだろうし。

 この号が出た直後も、今も、変わらず手いっぱいでいる。

 

 

 

Trip7:時空の旅(2018年夏号)

 「旅する落語」で箱根に行き、そこで見たものや考えたことをつかって落語を披露したときの話。ここでタイトルを「箱根」としないところがいいなと思った。そうやって捻ったことをしてくる面白さ。しかもこれ、「EPCOTIA」にも掛けているでしょ。好き。

 話の主題は落語のために旅をした箱根のことではなく、その「落語」自体だ。加藤さんはかつて一人舞台「こんなんやってみました。」でも自作の落語を披露していて、そのときのことと今回の落語とを引き寄せて語っている。余談だが、この舞台のパンフレットにも加藤さんのエッセイ(散文)が掲載されていて、めちゃくちゃ愛おしくなるのでもし手に取る機会があれば是非見てみてほしい。私は舞台そのものを見たわけではないが、このパンフは宝物だ。

 当時の自分は上手くできていたと満足していたものでも、今の自分が見てみると「お前これでよく満足できたな!」くらいに思えてしまうこともある。年齢を重ねるなかで様々な経験をして、以前よりもレベルが上がったから気づくことが増えたということもあるだろう。ましてや加藤さんのような職業であれば、同年代以上に経験していることが多そうだし。

 そんな加藤さんが語る、かつて落語を披露した自分と今落語を披露しようとしている自分。このときの落語は、すごく勉強してすごく練習したんだろうなというのが見えて、加藤さんへの好感度がめちゃくちゃ上がった。きっとかつての加藤少年が見ていたら(ちょっと斜に構えたところのある少年はきっと素直に「かっこいい」とは言わないだろうが)「いいな」と思ったんじゃないかな。その話を「U R not alone」にのせて紹介するの、本当文章のまとめ方として上手くてさすが!よっ加藤屋!みたいな気持ちになる。

 加藤さんほど人生経験のない私にも、過去の自分に対して「なんでそれでいいって思ってたんだろう」と思ったことがある。短歌だ。このブログを始めてしばらくしてなんとなくやってみたら「おっ私いい感じじゃん」と思ってやり続けているが、初期のほうの作品を見てみたらいや~~~マジで!?ダサ!!!みたいな気持ちになる。いいなと思うものもなくはないけど、単純に「洗練されてない」みたいな感じに見える。そういうのがわかるのは私の短歌に対する感性が磨かれたからだろう。そういう経験って大切だし、加藤さんがそういった経験を積み重ねていってくれるのが勝手に嬉しい。私もそうやって成長していきたいな。

 

 

 

Trip8:小学校(2018年秋号)

 「NEWS2人」で出会った“小学校へ行きたくない問題”を受けて書かれたもの。私の個人的な意見を述べると、小学校へ行く以上にやりたいことがあるのなら行かないという選択肢をとることがあるかなとは思うが、そうでないのなら行ったほうがいいとは思う。加藤さんの言うように「学び方を学ぶため」にも、行っておいて損はないという考えだ。同年代の人間と集団で生活するという行為は、学校に行かないとなかなかできない。良い面も悪い面もあるが、そこから学べることもあるだろう。少なくとも私はあった。

 しかし、どちらかというとこれは親や周囲の大人が子どもに対して無関心なのかな、という印象を受けた。集団で授業を受けるということが苦痛なのであれば、その原因を探る。これは子ども自身ができることではなく、親やその周りの大人だからできることだ。子ども自身が「苦痛に思っている」と思っていることが実は別の原因によるものということもあるだろう。それを見極めるのは、大人の役割ではないかと私は思う。

 「授業の内容がわからない」から苦痛なのであれば「何がどうわからないのか」「なぜわからないのか」を突き止めないと解決方法は導けない。「授業のあいだ、じっと座って話を聞く」のが苦痛なのであれば、もしかしたら子ども本人の意思とは無関係の何かが影響しているのかもしれない。そういった部分は子ども本人ではわからないことが多い。「集団で授業を受ける意味がわからない」ことが苦痛なのであれば、集団で授業を受けることの意味を一緒に考えることもできるだろう。私は集団で授業を受けながら、そこでいかに個性を発揮するか、みたいなことを楽しんでいた節がある。そういう楽しみ方を子どもに提示することも、大人ならできるのではないだろうか。

 私も中学生のころには学校に通うのが苦痛だったけれど、その原因が自分では明確にはわからなかった。周囲に合わせることが苦痛だったのは確かだが、それ自体が原因だったのか、その更に奥に原因があったのかは、当時の私にはわからなかった(今は当時よりはわかるようになっている)。小学生が苦痛の原因に気づけなくても不思議ではないし、気づけないものだと考えた方がいいのではないかと思う。子どもを舐めているからそう考えるのではなく、子どもが生きてきた年数で得られる経験値ではまだ習得できないスキルなのだと思う。勿論、すべての子どもに当てはまることではないけれど。

 子どもの意思を尊重すること・子どもの自由を尊重することと、子どもに無関心であることは違う。しかし、尊重と無関心は実はとてもよく似ているのだ。意識しないと取り違えてしまうこともある。番組に出てきた人たちに対して口を出したいわけでは決してないが、考えることが沢山出てくる回だったな、とは思う。思うことはまだまだあるが、これ以上を言葉にするのはやめておく。

 

 加藤さんは自身の意見を述べつつ、彼が小学生だった頃へと記憶を巻き戻す。一日だけ不登校をした話(ここで「不登校」というワードを使うところが加藤さんらしいな、と思う。きっと幼い加藤少年にとってはただの「サボリ」ではなく「不登校」だったのだろう)や、得意ではなかった水泳の話へと移っていく。

 小学校で学んだこと(=泳ぐときにバタ足をすること)が理論に照らし合わせると正しくない(=バタ足をしないほうが速い)ということもある。しかしそれを実際にやってみたいと思うことはかつてバタ足で泳いだ経験があるからだし、プールの塩素のにおいを思い出すことも小学校のプールで泳いだ経験がそうさせる。理論的な正しさ以外の指標が加藤さんの中にはあるのだろう。きっと私の中にもある。

 

 

 

 

 手に入れてすぐ感想を書くわけではないから、多少は冷静に読めているのではないかと思う。自分があまり冷静な人間ではないということは重々承知なので、このくらいの期間を設けて感想を書いた方がいいのかな……Trip910にも思うことが沢山ある(本当に沢山ある)が、それを今すぐ言葉にするのは一旦待ってみよう。

 今は、考えたことをすぐ言葉に(それもログの残る言葉に)できてしまう時代だ。TwitterなどのSNSでは、投稿ボタンにはもはや「投稿」なんて文字もない。それを「投稿」していることさえ感じさせない。しかしそれらの言葉は確かに「投稿」される。非公開アカウントでもなければ、全世界に向けて発信されている。脊髄反射のように言葉を発してしまわないよう気をつけなければと思っている。そういう意味では、ある程度の回数分がたまってから感想を書くという行為は、頭を冷やすことにも似ているのかもしれない。

 

 ということを考えてみたり、加藤さんの文章から派生して様々なことが思い浮かぶ。今後も様々なことを考えていきたい。ときには意見がぶつかることもあるだろうけれど、それにもちゃんと向き合っていきたい。

 いつか一冊の本にまとまってくれたらいいのになぁ。できればブータン旅行記をつけてほしい……

 

 

小説 TRIPPER (トリッパー) 2019年 春号 [雑誌]

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