溶けゆく氷とチョコレート ―プレミアムショー「カカオ」考察メモ―

 プレミアムショー、待望の加藤さんプロデュース回。もしかして忘れられちゃった?見てないだけでやったっけ?みたいな気持ちでいたら、あんまりにも最高な演出だったのであれこれ思ったことをメモしておきます。今回も100%の主観なのでご了承ください。

 ※8月17日放送「ザ少年倶楽部プレミアム」プレミアムショー加藤さんプロデュース回のめんどくさい感想というか考察的な何かです。EPCOTIAツアーの加藤さんソロ曲「氷温」についても触れています。

 

それぞれの溶けるもの

 他の2曲は「AVALON」と「IT'S YOU」。EPCOTIAツアーでも続けて披露された2曲でもある。ツアーでは、この2曲の前には加藤さんのソロ「氷温」があった*1。今回のプレミアムショーでは、ツアーの「氷温」の位置が「カカオ」になっている。
 この2曲はそれぞれ、「氷」と「チョコレート」が象徴的なモチーフとして歌詞に登場する。そしてこのどちらも、歌詞のなかで「溶ける」。

溶けかけたチョコレート 舐めたら
汚れた口で何を探すの?

テーブルに落ちてしまった氷が溶けてく
時が止まればと心で願ってる

 「氷温」は氷が溶けるまでの時間は恋人同士でいたいと思いながらも別れ話をする側の物語(溶ける氷と凍りゆく関係 ―「氷温」感想メモ― - 来世はペンギンになりたい)で、一方「カカオ」は相手に翻弄される側の物語が描かれている。私は歌詞の人称に絶対的な意味があるとはあまり思っていなくてその気持ちを表現するのに最も適切な言葉を選んでいるにすぎないと思っているので、男か女かというのはそこまで重要ではない場合もあると思っている(多分、新藤晴一さんのせい。彼がそういうようなことを言っていたので)。ただ、「氷温」の一人称は「僕」であり、「カカオ」は女性らしさを強調するような言葉が選ばれているので、視覚的に表現するなら男性と女性というのがわかりやすいのかな、と思う。
 で、今回の「カカオ」の加藤さんは丈の長いシャツやメイク(深い赤のマットなリップをしているように見えるけど違うかな……?)などからも、女性をイメージしているように見受けられ、つまり翻弄する男と翻弄される女の対比をしているように思える。
 溶けるものをそれぞれモチーフにした楽曲で、内容的にも対になり、曲の配置でもそれが伝わるようにする。そこに意味があってもなくてもこうしてあれこれ勝手に考えてしまって、今すごく手のひらで踊らされているな……と実感している。

 「カカオ」の歌詞で溶ける「チョコレート」は、「あなた」の不誠実さの証のように読める。なぜ「溶けかけ」ているのか、その背景にある物語を想像してみたら、そこにはなんとなく「あなた」の不誠実さが見えてくるような気がしている。
 「氷温」の歌詞で溶ける「氷」は、「僕」のタイムリミットを表現しているように思えて、溶けるものふたつが対比になっているようには思えないのだけれど、でも単純に溶けるものという共通項で括ることはできる。そういうところが上手くてずるい。

 

「カカオ」はすべて持っている

 コンサートの「氷温」では、ライトと引き替えに靴を手に入れ、人でつくった椅子に座る。この「ライト」「靴」「椅子」を、「カカオ」は最初からすべて持っている(椅子については単純に昔の「カカオ」でもソファあったしな……とも思うけど)。
 以前書いたコンサート演出「氷温」の記事(僕のなかの僕と僕 ーコンサート演出「氷温」感想・考察ー - 来世はペンギンになりたい)では、あの演出を「僕」の心の中の動きであるように見えると書いた。その考え方を踏まえて(別に踏まえる必要はないけど、せっかく考えたんだしそこに付け足してみたい)、今回もまた「カカオ」の主人公の心の中を表現していると考えることにする。
 以前の記事では沢山いるJrたちは「僕」の心にある様々な気持ちを示し、加藤さんは「僕」の自分を愛する心=エゴ、加藤さんと対になる存在であったJrの新藤くんは「僕」が「君」を想う恋心なのではないか、ということを書いた。様々な感情の中心にいた恋心はエゴにその座を明け渡すという流れが、別れ話が成立したときの心の動きを表現しているように読み解くことができる。沢山あったライトは様々な感情を表現し、ひとりだけ特別な靴をもっていた恋心はその靴をエゴに渡し、エゴは感情の中心で椅子(Jrの子が椅子代わりになっている)に腰掛ける。
 「カカオ」は、ライトも靴も椅子も最初から持っている。なぜかと考えたら、そこにひとりしかいないからだと思う。「カカオ」の主人公の心の中には、加藤さんが演じるたったひとりしかいない。ひとりしかいないのだから、すべてを持っていても不思議ではない。では加藤さんが演じるそれの正体はなんなのか。
 それは、「あなた」のことを好きでいる心、子供みたいで勝手すぎる「あなた」に翻弄される恋心だ。(この曲の主人公が女性だとして彼女と呼ぶけれど、)彼女は「正直者」なわけで、「正直者」な彼女の心の中は一途に「あなた」を想い「あなた」に翻弄される恋心しかない。言ってみれば恋に溺れてしまっているような、そんな状態なのかもしれない。彼女の「あなた」への恋心は彼女の心の主であり、自由に歩き回る靴も周囲を照らすライトも玉座とも呼ぶべき椅子もすべて恋心のもので、しかし「あなた」の心を手に入れられないから満たされないで、シーツにくるまるときもひとりきり。ライトを「あなた」に見立ててみても、彼女の恋心はおとなしくなれない。ライトを突き放しても意味がないことを悟って、結局ひとり、椅子に座ってライトを抱きしめる。結局のところ、彼女は「正直者」でいる自分を「バカみたい」と言いながら、それでも「あなた」への気持ちを捨てられなくて「正直者」でいることをやめられないんじゃないかな……なんて思ってしまう。こんなに一途で健気で……めっちゃかわいいじゃん……そんな男やめて私にしときなよって思っちゃう……


 「氷温」と「カカオ」がひとつの物語の表と裏であるようには私には見えないのだけれど、対比的な箇所の多い物語が部分的に重なっているように見える。それをこんなふうに表現したのかなぁとかああでもないこうでもないと考えていると加藤さんの手のひらで踊らされてるなって……踊らされるの楽しいなって思う……


 あとまぁ単純に19歳の成亮少年の「カカオ」が31歳のシゲアキ青年の「カカオ」にアップデートされたことに心を奪われる。やばい。冷静になれない。オケまでアップデートされちゃって、前のやつ聴いても新しいバージョンを聴きたい気持ちは満足しないし新しいバージョンを見ると19歳の少年が歌う「子供みたいで勝手すぎるわ」の若さゆえの甘さみたいなものを求める気持ちは満足しない。ずるい。どっちもよすぎて選べない。


 こんな考察的な何かを書くことに意味があるのかということから始めたい。意味なんて、あるといえばあるし、ないといえばない。
 私は大学時代に文学を専攻していて(特に宮沢賢治、更に言えば「銀河鉄道の夜」)、様々な研究者が書いた本を読んでは「なるほど」と納得できる部分と「多分作者はそこまで考えて書いてないだろ」と腑に落ちない部分があった。でもきっと、「多分作者はそこまで考えて書いてないだろ」みたいな部分にも意味を見いだして読むことも、作品を味わううえではアリな読み方なんじゃないかと思う。そうやって自分の頭の中で知識と想像力を総動員して作品を拡張していくことは、文学の存在意義なんじゃないかと、私は思う。
 で、私は加藤さんのソロ曲について文学的な解釈ができると思っていて、できると思っちゃったらせずにいられない。それに、そうやって考えたり書いたりすることは、楽しいのだ。もしかしたらただやってみたかったからやってみただけ、ビジュアル的にいい感じだからやってみただけというものもあるかもしれない。それでもそこに意味を見出すことで、加藤さんの作品を通して、私の世界が拡張していく。世界の拡張って、めちゃくちゃ楽しい。頭の中にあるあれとこれとそれを組み合わせて新たなマップを開拓し、更に奥深くへ踏み込めるようになる。飽くなき探求心が後押しして、世界がどんどん広がっていく。一度この楽しさを覚えたら、やめられなくなってしまう。これだから加藤シゲアキのファンはやめられない。
 はー楽しい!今日も私はシゲ担です。

*1:正確に言えば「氷温」から「AVALON」のあいだにドッキングシークエンスがある