踵の高い靴を履く

 普段はぺたんこのスニーカーしか履かないけれど、ここ数日は踵の高い靴を履いている。かわいいので履きたいのだけれど、足が痛くなるし上手く歩けないので、滅多に履かない靴。でも、これを履かなければ背筋が伸びないと思った。背筋を伸ばして、胸を張って、前を見て歩きたいのに。でも、私はどこか遠くを見るばかりで、ちゃんと前を向けなかった。慣れない靴を不安がり、足元ばかり見て歩いていた。

 感受性のかたまりみたいな私が、ここ数日は笑ったり泣いたり怒ったりすることができなかった。じゃあ呆れたり失望したりしたのかというと、そういうことでもない。ただただ心が凪いでいた。凪いだ広い海にただひとつ浮かんだ筏のように、行き場のない「好き」という気持ちだけがぽつんと取り残されていた。目的地を見失い、漂流する筏のようなその気持ちを、私は完全に持て余してしまっていた。行き先を示してやりたいのに、行き先を示すこと自体が間違いなのではないかと思って悩んだ。悲しんだり怒ったり呆れたりすれば、心に感情の風が吹き、筏の行き先を示してくれるはずだ。そうであればどれほどよかったか。でもそうはならなかった。言葉にできるならしたかった。でも、言葉で説明できる気持ちも私のなかにはなかった。ただ、「好き」としか思えなかった。だけどもだからも何もなく、ただ「好き」。私はもっと私の「好き」は理性的なもので、あるいは感情的だとしても説明のつくものだと思っていて、こんなにも説明のつかない気持ちが心にぽつんと置いてきぼりになったことはなかったので、非常に困った。凪いだ心に「好き」を漂わせたまま、数日を過ごしていた。
 そうやってまた、私は私の問題にしてしまう。何があったとかなかったとかそういうことすらもうどうでもよくて、これはただ私が私と向き合わなければならない、そうしないと解決しない問題だった。
 私は、この説明のつかない「好き」が怖かった。「好き」という気持ちがそこにあるだけで、他のどんな判断基準も役に立たなくなってしまう気がした。客観性を失い、昨日と今日あるいは今日と明日との時間的な連続からも離脱しているような、そんな「好き」を心のうちに宿していることが怖かった。そんな強力な気持ちをいつまでも持ち続けることなんてこの先できないんじゃないか、どこかで破綻するんじゃないか、と怯えていた。
 そう、過去形。
 なんか別にいいじゃんそれで、と思った。「好き」という気持ちだって、かたちを変えることはある。かつては説明のつくものだったかもしれない。それが今は違うかたちになった、ただそれだけのことだ。いつかまた説明のつくものに戻るかもしれないし、このままかもしれない。でもとにかく今はこういうかたちなんだからそれでいいじゃん、と思うことにした。
 だって好きなんだもん。他の誰かが好きだから悲しみ、好きだから怒り、好きだから呆れたように、私も彼らのことが好きだ。心が凪いでしまうくらいに、感情を生み出す器官の調子が悪くなってしまうくらいに、好き。彼らの顔を見て、ただただ「好き」と思った。それ以外の気持ちが何もない。それでいいじゃんもう。だって好きなんだもん。
 今日、彼らを好きな人たちと会って、彼らの好きなところをたくさん話した。同じ話を何回もして笑った。好きとしか思えなくたっていいんだ、と思った。それ以外の気持ちを抱くべきだと決めつけていたのは他でもない私で、私を苦しめていたのは私自身だった。他の誰でもなく、私だ。ということに安心した。よかった、他の誰かに傷つけられたんじゃなくて。私が私を勝手に傷つけていただけでよかった。相手が私なら対処法はいくらでもある。
 だから、まだ微風しか吹かなくてほとんど凪の状態の心だとしても、もう怖くない。凪から回復して、それでも筏の行き先が見つからなくても、それさえも怖くない。これもまた説明のつかない気持ちだが、大丈夫だと思える。そんな気持ちも自分のものだと、自分の一部なのだと、ちゃんと愛していける。説明はつかないが、確信している。少なくとも今この瞬間は。
 明日もまた踵の高い靴を履こう。背筋を伸ばして、胸を張って、前を見て歩こう。明日はきっとできる。今日よりもこの靴を履きこなせる。根拠はないけれど、そんな気がしている。