君と僕だから分かり合えない ー舞台「グリーンマイル」感想ー

 Wikipedia程度の知識しかない状態で観に行きました。二度観賞し、私のグリーンマイルが終わりました。ネタバレ込み込みかつとても脱線した感想です。100%主観です。ネタバレ込み込みなので未見の方はご注意ください。

 

 

 

 

 


 物語自体が好きかといわれたらそうではないので、この舞台がなかったらきっと触れなかったんだろうなと思う。そういう意味では、自分の手の届く範囲の外にあるものに触れられたことはとてもよかった。けれど好みの話ではないために映画も原作もまだ手を出せていない……。舞台の善し悪しではなく好みの問題です。
 あの物語はキリスト教的な観点から描かれている部分もあったが、私はキリスト教には詳しくないし特定の宗教を信仰しているわけでもないので、宗教的な視点からの死刑制度の是非はよくわからない。死刑制度の是非自体にも触れるつもりはない。

 舞台の主題としては命とか生死というものがメインだったのかもしれないけれど、個人的にはそこに何かを見出すことはなかった。意図的に考えるのを避けているという部分もあるかもしれないが、生死についての何かが私の胸に押し寄せることはなかった。もしそのあたりを受け取るべき舞台だったのなら私は良い観賞者だったとは言えない。しかしそれよりも、登場人物たちのエゴのなまぐささが目立って見えた。この舞台からは、人間が生きているにおいがした。

 

 

 

演出

 本題に触れる前に、演出についてのメモを残しておきたい。
 セットが少ない舞台が好きなので、今回のセットはすごく好きだなと思った。二度観賞したうちの一度は一階席の一段上がった部分だったので舞台上に当たる照明がよく見えて、「死刑囚たちの檻」「グリーンマイル」が舞台上を照らすことによって作られていることがわかった。
 特に緑の廊下、グリーンマイル。デラクロワとコーフィが電気椅子に向かって歩いていく場面では、舞台上を三角形に折り返すことで電気椅子に辿りつくようになっていた。しかし、最後にポールが「それにしたってこのグリーンマイルは長すぎる」と呟く場面では、舞台の下手奥から上手へ向かって、照明が斜めに道を作っていた。上手から先は舞台の外になってしまうけれど、行きつく先にあるはずの電気椅子は見えない。ポールの言う「長すぎる」道のりをわかりやすく視覚的に示していて、単純にすごいなぁと思った。
 それと、衣装で登場人物たちの気持ちの状況を示しているのも視覚的にわかりやすくてよかった。看守の衣装をかっちりと着込んでいるときは、彼らはそのコスチュームに守られている。「看守」という役割があるから死刑を執行することができる。しかし、彼らが死刑制度について話し合っている場面では、彼らは制服の上着を脱いでいる。「看守」という役割を脱いでいるから死刑についての考えも揺らぐ。それぞれの本心が現れた場面といえるだろう。



人間のエゴが詰まった物語

 出てくる人たちがみんな自分勝手で、私は人間のそういうところが大嫌いで大好きだなぁと思った。どことなく、『傘をもたない蟻たちは』を読んだときの気持ちにも似ていた。人間の生きているにおい、いうなれば「なまぐささ」のようなものを感じた。人間のもつ、あらゆる面の「なまぐささ」を、それぞれに反映しているように見えた。

 わかりやすいのはパーシー。彼は他者のことなど考えない人間の象徴のように描かれていた。他者を思いやる気持ちがあるならば、デラクロワの処刑であんなことはしないだろう。しかし、程度の差はあれど、他者のことを考えない=自分のことを優先する部分というのは誰にでもある。コーフィを死刑にしてよいものかと話し合う場面のディーンを見ていると、彼は無罪のコーフィを殺すこと自体を嫌がるというより無罪の人間を殺すという行為を自分が行うということを嫌がっているように見えた。それは他者について考えることをやめ、自分のことだけを考えているということではないだろうか。勿論パーシーと何もかもが同じというわけではないけれど、決定的な違いはないような気がしてしまう。
 「仕事だから」を言い訳にして処刑行為が自分の意思ではないとするブルータスもまた、人間くさい人間といえるだろう。彼の言い分は正しいとも思う。そうやって「仕事だから」と思わなければ回らない世界なのだ。生きるために金を稼ぐ手段に仕事という名前をつけることで、中身を隠している。
 コーフィは、私の目には死にたがっているように見えた。デラクロワが処刑されたあとに「彼は幸せだった」というような台詞があったように思う。つまりコーフィは死に――あるいは死の先に、幸せを見出していた。それを思うと、無実のコーフィを処刑することに悩んでいた看守たちの姿はただの空回りにしか見えない。声を荒げ、意見をぶつけ、語り合ったところで、彼らは処刑されるコーフィについて考えていたわけではなく、無実の男を処刑してしまう「自分」について考えていたにすぎない。
 また、デラクロワがパーシーを嫌うのも、他の看守たちとは親しく接するのも、とても人間らしいなと思う。自分に害を為す者を嫌い、自分に優しく接する者(たとえ彼らが死刑を執行する者たちだとしても)に親しげに接するのは、人間として至って普通のありかたのように思える。
 ウォートンは他者について自分のおもちゃ程度にしか思っていないように見えた。パーシーと同様、彼も人間のなまぐささがとてもわかりやすいキャラクターとして描かれていた。
 所長についても、コーフィが妻を救ったのを目の当たりにしてもなおコーフィが双子の女の子を殺したことを疑わないあたりが、誰かが「事実である」と決定した事実について疑いをもたないという思考の放棄に感じられた。コーフィが凶悪な殺人犯だなんて信じられないといいながらも、結局は事実として受け止めている。自分の目で真実を見極めようとはしない。
 コーフィは人間離れした能力をもちながら、それでもやはり人間だった。双子の少女を殺したウォートンとデラクロワの死刑で意図的に残酷なことをしたパーシー、二人に対してコーフィが与えたのは「私刑」であった。法のもとに実行される死刑とは違う。命を奪うことは悪いことで、「悪いやつ」の命を奪うことは咎められることではないのだろうか。それともコーフィは自分の手で実行したわけではないから咎められないのだろうか。舞台を見ながら、私はそこでぐるぐると考え込んでしまった。いくら不思議な雰囲気をもっていようと、どれだけ人間離れした力をもっていようと、自分の意思で人を殺した彼は、紛れもなく人間であるように、私の目には見えた。
 そしてポール。彼もまた人間くささを纏った人だった。自分の目に見える世界の外は見えなくて、どこまでも人間だった。舞台上で繰り広げられるやり取りから、ポールはコーフィが「無実」であると思っていたようだけれど、きっとコーフィは自分を「無実」だとは思っていなかったんだろうというように見えた。彼は「助けられなかった」と繰り返していたけれど、つまり彼にとって「助けられなかった」ことは罪なのだろう。他の人(たとえばポール)から見れば、「殺したこと」は罪だけれど「助けられなかったこと」は罪ではない。この考えのズレは、コーフィもポールも「自分の世界」の外側を見ようとしていなかったから生じたものではないかと思う。しかし、人間が見ることができるのは「私はこう思う」という主観で描かれた世界でしかない。その主観の世界に従って行動していたポールは、とても人間くさいひとだな、と思った。

 

 とても人間くさい役だからこそ、加藤さんが演じていることに意味があるように思えた。加藤さんはとても人間らしいひとだから。音楽も映画も本も、自分が聴いて観て読んで面白かったものを伝えてくれる。彼の主観を通した世界を伝えてくれる。
 人間らしさを隠さない加藤さんだからこそ、彼に向き合うとき(向き合うという表現が正しいとは思わないけれど、他に言葉が見つからないしニュアンス的には一番近いので「向き合う」という言葉を使う。)、私も人間らしさをもっていたいと思う。自分の気持ちを隠すことなく、全力の感情で、私の主観の世界をもって向き合っていたい。だから私は今日も加藤さんのことが大嫌いで大好きです。

 

 

分かり合えないということ

 コーフィが自分に親切にしてくれたポールに対して「救い」として与えた命は、ポールにとっては「罰」であり「呪い」だった。それまでは全然泣かなかったのだけれど、思い当たる節があってつい涙が零れてしまった。結局、どんな人も自分の目に映る世界しか見えない。「私はこう思う」以上の世界は、見ることはできないのだ。
 「救い」と思って渡したものが受け取る人にとって「呪い」になってしまうことは、あるいはそれに近い状況は、きっといくらでもある。たとえば、私が正義だと思ってとった行動が他の誰かから見たら悪だったりもする。勿論その逆で、誰かが正義と思ってとった行動が私から見たら悪になったりもする。もっと小さい範囲でいえば、よかれと思って行動したことが余計なお世話だったりとか。そういう「すれ違い」はどうしたって発生する。相手が自分でもない限り、すれ違いは起こりうる。私と私だったら、きっとこんなすれ違いは起きない。君と僕だから、あなたと私だから分かり合えない。
 誰かが私に「愛だよ」と言って渡してきたものが、私にとっては毒だったことがあった。ちょうどコーフィとポールのように。でも、私ではない誰かがそれを受け取ったとき、愛だと思うこともあるのだろう。私はそれを毒として受け取ってしまった自分が悲しかった。しかし、それは私が悪いわけではない。勿論、私に「愛だよ」と言って渡してきた相手が悪いわけでもない。何も、誰も悪くない。強いて言えば相性が悪かったのかもしれない。コーフィとポールもそういった関係だったのだろうなぁと思った。

 もしこの舞台が生死について考えてほしいという意図をもって作られていたのなら、私はそれがわからなかった、ということになる。私の受け取り方と舞台の作り手の意図のあいだには溝が存在する。二者のあいだに溝があるとき、ひとはそれを「分かり合えない」と表現する。
 同じ舞台の同じ回を見ても、私と異なる感想を抱く人はいる。たとえば私と誰かが感想を言い合って、もしかしたら真逆の意見を持っていたかもしれなくて、互いに譲らなければ溝は深まるだけだろう。だからといってどちらかがあるいは双方が無理をして溝を埋める必要もない。そこにあるものはあるわけで、どうしようもないのだから。
 大切なのは、その溝を善でも悪でもなく「溝」だと認識すること、「分かり合えない」という事実を認識することなのではないかと、私は思う。溝の向こう側は私の領域ではないのだから、手を出すことはできない。同様に、溝のこちら側は私の領域なので何人たりとも手を出すことは許されない。
 舞台上に限らず、普通に生活していても様々なところに溝を見つける。職場だったり、家族だったり、あるいはこうして書いている私と読んでいるあなただったり。
 コーフィもポールも、自分と相手のあいだに溝があることに気付かなかったのかもしれないと思った。分かり合えないこともわからないなんて、それってひどく悲しいことのように思える。私は、できれば、分かり合えないことくらいはわかっていたい。分かり合えないということを、そこに溝があるということを、なかったことにしたくない。どちらが善とか悪とかではなく。

 分かり合えないってかなしいね。でも、分かり合えないからこそ人間なんだろう。