傲慢な私の傲慢な話 ―「いのちのうた2017」感想―

 生きていてごめんなさい、と今まで何度も思ってきた。
 いつ頃どのようにしてそういう思考回路が芽生えたのかはわからないけれど、小学生の頃に漠然と「私が死んでこの世の争いが全て収束するのなら死のう」と思っていた。勿論、私ひとりの命にそんな効力はないことはわかっている。そんな効力なんて誰の命にもあるわけないのに、私の命にないことがつらくて布団の中で泣くこともあった。そういう、とても傲慢な子どもだった。
 どうしてそういう考えが生まれたのかは覚えていない。でもきっと、生きていることへの罪悪感を打ち消すにはそのくらいのことがないと無理だ、と思っていたのだろう。じゃあなんで生きていることに罪悪感があるのか、と考えても思い出せない。私の人格が形成されるなかに、ごくごく自然に、その考え方が生まれたようにも思える。
 そんな子どもだったから、日々テレビで報道される事件や事故に心を痛めていた。特に、通夜や葬式で悲しんでいる遺族の方々の様子が映し出されると、どうして私ではなかったんだろうと思ってしまう。こんなに悲しんでいる人たちが沢山いるのに、私には何もできない。毎日毎日そんな気持ちになってしまうから、いつのまにか報道番組を見るのをやめた。今も、news every.は小山さんの特集コーナーくらいしか見られない。
 小学生の頃、大きな壁にぶち当たった。歴史の授業だ。ずっと昔のことは悲しみようがないけれど、私と同時代に生きている可能性があった人たちが沢山亡くなった痛ましい出来事については本当につらかった。だってその人たちは私と同時代に生きていたかもしれないのに。どこかで会うことができたかもしれない人たちなのに。怖くて教科書を開けなかった。ただでさえ眠れないのに、お風呂に入るのも怖かったししばらく眠れなかった。沢山の人が悲しんだし苦しんだ。今も悲しんだり苦しんだりしている人がいる。悲しまないでほしいし苦しまないでほしい。でも私にはどうすることもできない。ごめんなさいごめんなさいと何度も心の中で謝っていた。担任の先生が学童疎開の話をしたときも、私は何を思えばよいのかがわからなくてずっと考えていた。「怖い」と思うことは正しいのだろうか。「自分がその状況下にいたら」と想像すればいいのだろうか。想像したところで何か得るものはあるのか。「私だったら」と考えたところで、想像が及ばない。想像を絶する、とはこのことなのだろう。果たしてそれでいいのだろうか。
 国語の教科書に掲載されている戦争についての作品を読むたびに、どうすればいいのかわからなかった。自分が今生きていることを「良かった」と単純には思えない。私が生きていなくても私ではない誰かが生きていてくれるなら、そのほうがよいのではないか。
 たとえ知らない誰かでも、悲しんでほしくない。つらい思いをしてほしくない。苦しい思いをしてほしくない。痛い思いをしてほしくない。もう過ぎてしまった悲しみや痛みも、できればそんなのあってほしくなかった。私はそれらに対して何をすることもできないのが、本当につらい。
 だから私はなるべく他者の感情に介入することを避けることにしている。誰かの痛みは誰かのものであって私のものじゃない。誰かの嬉しいことは誰かのものであって私のものじゃない。そう思っていないと、私には何もできないという事実に耐えられないから。

 前置きが長くなったけれど、そういう傲慢な私が「いのちのうた2017」を見た、という感想文です。

 

 加藤さんがメインMCを務めなければ、NEWSが出演しなければ、きっと見ない番組だっただろう。つまり私は加藤さんがメインMCに起用された理由のひとつである「若い世代の人々への影響力」の影響下にあると言えるのだろう。
 特に印象に残ったのはコトリンゴさんの楽曲。今年の頭に「この世界の片隅に」を見たときは楽曲にまで思いを馳せることができなかった。映画は思わず笑ってしまう場面もあったし「日常を描く」という言葉でこの映画が語られる理由もすごくわかると思ったけれど、終盤は「何を思えばいいのかわからない」という気持ちと生きていることへの罪悪感が混ざり合って、すごくぐるぐるした気持ちでいっぱいいっぱいだった。今回改めて「みぎてのうた」を聴いて歌詞を改めて知って、心の底のほうがじんわりとあたたかくなった。己の傲慢さに苦しめられる私を「貴方などこの世界の/切れつ端に/すぎないのだから」という言葉で包みこむ。「どこにでも宿る愛」で包みこむ。「この世界の切れつ端にすぎない」私と、「どこにでも宿る愛」。ちっとも特別なんかじゃなくて、だからこそ「私」という存在のかけがえのなさを思った。
 NEWSと学生たちの歌う「U R not alone」は、未来への希望に満ちていた。輝かないタイプの学生だった私には眩しすぎるほどの学生たちだったけれど、輝かしい彼らにもたぶんそれぞれの胸にそれぞれの思いがあるのだろう。輝かない私の胸に私の思いがあるように。それってなんだか素敵なことだなと思った。もし彼らがいつかつらいことに直面してしまったとき(そんなことないほうがいいけど、そういうことがあったとき)、「U R not alone」が背中を押してくれたらいいなと思った。

 

 私はずっと、戦争を「語り継ぐ」ということについてよくわからないでいた。「語り継ぐ」といっても、戦争を経験していないひとが語り継げることなんてあるのだろうか、と思っていた。戦争を経験していないひとが語ったところでそれは「にせもの」なのではないか、という疑問がずっと頭の中にあった。戦争は繰り返してはならないと語るときの根拠が「自分ではない他者がそう語っていたから」では、強固なものだとは言い難い。それなのに若い世代が語り継いでいかなければと言われても、と思ってきた。
 けれど番組を見るなかで、加藤さんが様々な人に話を聴く映像を見るなかで唐突に気付いた。「語り継ぐ」ということは誰かの経験や体験をそのまま伝言ゲームみたいに伝えることではなくて、誰かの経験や体験の話をきいて「私」がどう思ったのかを伝えていくことなのだと。それは私がいつもやっていることだ。それならできる。私の中に強固な根拠を持つことができる。
 ずっと避けてきたから気がつかなかっただけで、私以外の人にとっては目新しいことでもなんでもなかったのかもしれない。でも、私にとっては大きな発見だった。

 

 そして、番組の最後は「あやめ」で締めくくられる。きっとどんな理由よりもこの曲ありきで加藤さんに決まったのだろう。ことばを扱う仕事を持つ人も、若者に影響力のある人も、探せば他にいるだろうけれど、「あやめ」という曲を持っているのは加藤シゲアキという人しかいない。そのくらい重要な位置に「あやめ」は置かれていたように感じられた。
 テレビを通して伝わってくる、いのちの躍動感。「いのちのうた」と名付けられた番組にぴったりだと思った。コンサートでは双眼鏡も持たずモニターも見ないタイプなのでどのように表現されているのかわかりづらい部分もあったけれど、種→芽→花という流れがわかりやすくかつ美しく描かれていた。
 加藤さんがあまりに激しく動くので、息がブレるところがあった。そこに彼の生を感じた。生きているということを、全身で示しているように見えた。私はあまり「あやめ」に神々しさを感じていないのだけれど、それは彼がまさしく今ここで生きているということを見せてくれるからだ、と思った。加藤さん自身の人間くささも含めて、彼からは「生」のにおいがする。人間よりも一段(あるいはもっと)上の存在というよりも、人間として歩いていく決意のようなものを感じた。
 「あやめ」は多様性をテーマにした楽曲だ。多様性とは、今この世界に同時に生きている人たちのことだけでなく、かつて生きていた人、これから生まれてくる人のことも指すのかもなぁ、と思った。漠然と思っただけなのでそれ以上のことは全然考えられていないけれど、そう思ったことを書き記しておく。
 それと、多様性を「認める」というけれど、きっと「認める」よりも「受け入れる」「受容する」ということばのほうが近いのだろう、と思った。世界は広いのだから、私の正義とは相反する正義を持った人もいて、ぶつかり合えば争いが生まれる。私は私の正義と相反する正義を正義と認めることはできないけれど、そのものを受け入れることはできるかもしれない。それは私の正義を否定することにはならない。「そうだね」と頷くこと、その先の言葉を紡がないこと。それだけで変わるものがあるような気がする。なんでも受け入れるからといって、その人の芯がないわけではない。自分とは相反する意見を、否定も肯定もせず受け入れることで、むしろ「私」という芯は強くなっていく。種から芽が出て、茎が伸びて葉が生い茂っていくように。
 この番組を見た人たちのこころにも種が眠っていて、番組をきっかけに芽が出て花が咲いたりするのかもしれない。私もそのうちの一人かもしれない。そう思ったら、自分のことも愛おしくなった。

 

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸《さいわい》のためならば僕のからだなんか百ぺん灼《や》いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙《なみだ》がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧《わ》くようにふうと息をしながら云いました。

 

 傲慢な私は「銀河鉄道の夜」を読んだときに傲慢なのは私だけではないのだ、と知った。ジョバンニという少年は、誰ひとり悲しむことのない「ほんとうの幸(さいわい)」を探している。それは命を賭して他者の命を助けたカムパネルラにも辿りつくことのできなかったところにあるものだ。きっと私が生きていく中で探すべきものもそれなのだと思った。私は「ほんとうの幸」を叶えたいのだ。
 私の知っている誰かも、私の知らない誰かも、全てのひとに救われてほしいし幸せになってほしい。そのためにできることはなるべくしたいけれど、私の力でとある人を救えたとしても別の誰かを救えないかもしれない。私の力の及ぶところにあなたの幸せはないかもしれない。
 たとえば私とは真逆の正義を持つ人がいたとして、私は私の正義を貫きたいけれどそれでもその人の幸せを願いたい。たとえば私が顔も名前もその存在さえも知らない誰かがいたとして、その人の幸せも願いたい。その人たちの幸せは私の幸せではないかもしれないけれど、それでも願いたい。
 傲慢な私は矛盾している。自分に誰を救う力もないとわかっているし、自分の幸せは自分で叶えるしかないとわかっているのに、それでも幸せであってくれと願わずにはいられない。私は私の心を守るために他者の感情に介入しないように、他者に興味をもたないようにしているけれど、それでも誰かの幸せを願わずにいられない。
 私は誰のことも救えないし、誰の幸せにも寄与できない。私のことを幸せにできるのが私しかいないように、その人のことを幸せにできるのもその人しかいない。だから、勝手に幸せになってくれ、と思う。私の知らないところで私の意思とは無関係に勝手に救われてほしい。勝手に幸せになってほしい。無力な私にできるのは、私の知らないところで勝手に幸せであってくれと願うことだけだ。

 

 せっかく見るのだから、全編通して見ようと思った。予定が入っていたので全国放送をリアルタイムで見ることは叶わなかったけれど、録画で全て通して見た。思ったよりもエンタメというか「音楽を楽しむ」という要素が強かったので、私が覚悟していたほどつらい番組ではなくてよかった、というのが第一印象。しかしそれでも生きていることへの罪悪感は胸に込み上げてきた。相変わらず私は傲慢で、つらい思いをした人や苦しい思いをした人に何もできないことが悔しいし悲しい。そんな力はないけれど、それでも悔しいし悲しいし申し訳ないと思う。
 自分が傲慢だとわかっていて、私はこの傲慢さを正す気はない。正せるものでもないし、そもそも私のなかではこれが正しい。「私」というひとの在り方として、この傲慢さは正しい。27年間生きて、己の傲慢さに悩んで出した今のところの答えだ。いつのまにか生まれていた考え方なのだから、いつのまにか消えることはあっても意識して消せるものではないのだろう。だったらそれも受け入れていきたい。
 


 今のところ、私の答えはこれです。