『Burn.-バーン-』を読み返した

 かつて読み返せなかった『Burn.-バーン-』(『Burn.-バーン-』が読み返せない - 来世はペンギンになりたい)を、文庫版になったのをきっかけに改めて読んだ。読み返せない、なんて記事を書いたのだからちゃんと読み返した記事も書こう、ということで。勿論、すべて私の主観であって主観以外のなんでもないです。引用箇所等のページ数の表記は文庫版のものです。

 

 

一人称と三人称のあいだ

 『ピンクとグレー』は一人称、『閃光スクランブル』は三人称で書かれている。三作目となる『Burn.-バーン-』はどうかというと、一人称と三人称のあいだのような人称で書かれている。
 全体としては三人称だが、時折レイジの一人称「僕」が混ざる。決して回数が多いわけではないけれど、時折でてくるこの「僕」のずるさがたまらなく好きだ。『閃光スクランブル』でもたまに出てきていたが、心の中で言っている台詞(多少の語弊はあるかもしれないけれど、「」で括られてはいないが括ったとしても不自然ではないもの)を地の文に混ぜ込んだかたちのものが多かったように思う。それは決して珍しいものではないし、読んでいて違和感もない。しかし、『Burn.-バーン-』では突然「あの頃の僕は機械同然だった。」(p77)*1という一文が出てくる。他にも数カ所、「ホテルの回転扉を抜けると世々子のワンボックスカーは数メートル先に停まっていたが、濡れるのを嫌がった僕らは立ち往生する羽目になった。」(p20-21)とか「僕が目を覚ましたときと同じように、声は乾燥してざらついていた。」(p70)「閉園時間まであることに僕は驚いたが、時代の流れからすれば自然なのかもしれない。」(p245)というものが出てくる。該当箇所の前後を含めて読むとよくわかるが、これらはレイジの台詞としてではなく、明らかに地の文の一人称として書かれている。
 前後の文章では「僕」にあたる人物は「レイジ」と表記されているのにもかかわらず、だ。一体どういう意味なのだろうと考えたけれど正解はわからない。でもなんとなく、「レイジ」と表記するよりも「僕」と表記したほうが、そこにレイジがいることがより強く伝わってくる気がする。『Burn.-バーン-』は三人称ではあるけれどもレイジが知らないこと・覚えていないことは描かれない。実質的には一人称に限りなく近い書かれ方のようにも思える。レイジが書き上げた舞台のタイトルもまた「Burn.-バーン-」だから、レイジが書いているのは脚本であって小説ではないのだけれど、でも小説のほうにもレイジの一人称が時折洩れてしまうところがあるのかもしれないなぁ、という気持ちになる。
 何よりこれを不自然にならないようにやってのけるところに小説家としての技術のすごさを感じるし、読み手としては単に「ずるい、好き」という感情しか湧かなくなってしまう。ずるい、好き。

 

時代を表すあれこれ

 加藤さんの小説には読み手が生きている世界に存在するものが登場することがある。それが最も色濃く効果的に現れたのが『Burn.-バーン-』だと思う。
 レイジの少年時代にはジャンプで「地獄先生ぬ~べ~」が連載されている(p139-140)し、自動販売機で買える缶の飲料が110円(p104)だ。レイジが大人になった現在では、生まれてくる子供が女の子だったらプリキュアにだって付き合ってやろう(p137)、と思っている場面もある。
 『閃光スクランブル』でも中村一義ピチカート・ファイヴの曲やさまざまな映画が登場したりするし『ピンクとグレー』にもそういった部分はあるけれど、時代を表すというよりは登場人物たちの人となりを表しているという意味合いで使われていたように感じられた。『Burn.-バーン-』は時代を行き来する形式で書かれているということもあって、登場人物の性格というよりも時代の説明として使われている。そのおかげで、同時代のどこかにレイジがいるような気がしてくる。
 「渋谷」というモチーフもまた同時代とか現実の延長線上であることを示すものではあるけれど、渋谷が身近ではない人には伝わりにくい部分もある。私は都民ではあるけれど、小さい頃は渋谷なんて遠いどこかみたいなものだと思っていたから、レイジの幼少期の渋谷にはなじみがない。宮下公園が変わっていく様子といっても、あまりぴんとこない。それを補うものとして、今は変わってしまっていて時代性を感じられるものが使われている。「ぬ~べ~」はもう連載していないし、自販機の缶の飲料の値段も変わったし、レイジが父親になるのが20年前の話だったらセーラームーンを一緒に見ようと思っていたことだろう。でもレイジは娘とプリキュアを見よう、と思うのだ。そうやって「あぁ、あの頃か」とか「あの頃とは違うんだ」と思えるアイテムをちりばめることで、渋谷の街の移り変わりが伝わりにくい人にも懐かしさを想起させられるようになっている。

 

文庫化にあたっての変化

 今回も文庫化にあたって直しが入っている。細かく検証したわけではないけれど『閃光スクランブル』ほど大きな加筆修正ではなさそうだ。しかし、それでも数カ所気になる変化があった。
 個人的に一番気になったのはラストシーンの変化だ。火災報知器が鳴ったあと、レイジが「徳さん。これはエールのつもりかい?」(単行本p257)と語りかける一文があったが、文庫版では削除されていた。単行本で読んだとき、その一文に泣かされたのを覚えている。
 大好きな一文が削除されていることは少し寂しいけれど、ラストの場面を通して読むと火災報知器が鳴ったときに徳さんのことを想い出していることは明らかだ。文章中でそれを明示するのではなく、読み手に委ねることでさらに奥行きのある文章になっている。前回『閃光スクランブル』のときも最初の巧の章のところでだいぶ心内文を削っていたので、加藤さんが直しで手を加えるときに気になりやすい点なのかもしれない。
 余談だけれどどちらが好きかっていうとより想いが伝わっている感が文章から汲み取れる単行本のほうかな……って思ってたけど比較して読んでいたら文庫版もいいなぁと思ってしまったので結局どっちも好き。

 また、文庫化にあたって表紙のイメージもがらっと変わった(記事下に両方のリンクを貼ってあるので比較して見てみてほしい)。単行本ではタイトルを連想させるオレンジ色に花とリスと金の箔押しの茨が目立つイラストだったのが、少年時代のレイジと徳さん・ローズのイラストになった。加藤さんの作品で登場人物がイラストとして描かれているのは初めてのことだ。単行本だとなかなか手が出ないけれど文庫版なら買える層に届きやすい表紙になったのかもしれない。
 それに、単行本が出版されたときのラジオ「SORASHIGE BOOK」でリスナーから「今敏監督作品の『東京ゴッドファーザーズ』を思い出した」と言っていたのを受けて影響があるというような話をしていた気がするから(あまり覚えていないけどなんらかの言及をしていたことは確か)、だとしたらこのキャラデザでアニメ化してもおかしくないような文庫版のイラストはすごく合っているんじゃないかな、と思った。

 

 

初期衝動と熱量と「小説家」

 加藤さんが『Burn.-バーン-』を書くときに「初期衝動と熱量」を強く意識していた、という話はあとがきにも書いてある。
 私が「小説家」という言葉を使うときには、ふたつの意味がある。広義としては、商業的に出版されている小説を書いている人のこと。狭義としては、自分の分身のような物語に頼らずとも小説を書うことができる人のこと。
 『ピンクとグレー』を書いた加藤さんはまだ加藤シゲアキではなかったし、小説家でもなかった。『ピンクとグレー』はどこか加藤さんの分身のような部分のある物語で、だからこそこんなにも初期衝動と熱量が読み手にも伝わってくるのだろう、と思う部分もある。自分には何もないと思っていた加藤さんが追い込まれた状況で、なおかつ初めて書いた長編小説。初めて書いた作品だからこそ、文章としてはもっとブラッシュアップできる点はあるが、どうしようもないほどの「熱」が詰まっている。読んでいる人にも伝染してしまうような熱が。たぶんこれは、初めて書いた小説だからこその熱で、もう一度同じような熱を持った作品を書こうと思って書けるものではないのだろう、と思う。
 『閃光スクランブル』は広義の意味での小説家・加藤シゲアキが書いた初めての作品だ。『ピンクとグレー』を書いたときの彼はまだ加藤成亮だったのだから、加藤シゲアキとして書き上げた作品という意味では『閃光スクランブル』が初となる。それに、加藤さんの軸であるNEWSとしての活動がまだ軌道に乗る前(4人で初となるコンサートの前)に書かれていたということもあってか、主人公の一人が加藤さんの趣味であるカメラをキーアイテムにしていたりもう一人は加藤さんと同じアイドルという職業であるからか、登場人物たちに加藤さんの姿を探してしまう。というか、探せてしまう。私個人としては、『閃光スクランブル』は加藤さんの分身のような物語の要素が大きい物語だった、と思っている。
 しかし『Burn.-バーン-』には加藤さんの姿を探すことはできなかった。勿論加藤さんが書いていることは文章の端々からこれでもかというほど読みとれる。でもこれは分身の物語ではない。加藤さんは私の思う狭義の意味での小説家になったのだ。加藤さんが『Burn.-バーン-』で生みの苦しみを味わったというのも、これが分身の物語ではないからなのだろうと勝手に思っている。加藤さんが意識している「初期衝動と熱量」という言葉の意味するなにかが、この作品からはとても強く感じられた。実のところ私にも「なにか」としか表現しようがないのでどういった言葉で表せば伝わるのかわからないけれど、軽い気持ちで読むと痛い目を見る作品、というのが一番近いかと思う。加藤さんの身体を切ったら赤い血が流れることを見せつけられているというか、そんな気持ちになった。わかっているのに改めて見せつけられると言葉を失ってしまう。それだけの覚悟のようなものが伝わってくる物語で、私にはそれが「初期衝動と熱量」の現れのように思えた。そして何より、分身の物語ではないのにそれだけのものが伝わってくること、これが小説家というものか、と思い知らされた。
 それが『Burn.-バーン-』を読み返せない理由でもあったのだけれど、改めて読んでみたら何を意固地になっていたのだろうとも思ったし、やはりどうしても刺さりまくるものがあってすごく痛かった。久々に傷つく覚悟で本を読んだ。これを書いた加藤さんの身体を切ったら赤い血が流れるのなら、これを読む私の身体を切っても赤い血が流れるのだ。加藤さんと互いに人間として対峙できる、加藤さんがアイドルであり小説家でもあってくれてよかった。
 私にとって、ある意味では加藤さんの書いたどの作品よりも特別な作品が『Burn.-バーン-』なのだと思う。

 

 

Burn.-バーン- (角川文庫)

Burn.-バーン- (角川文庫)

 
Burn.‐バーン‐ (単行本)

Burn.‐バーン‐ (単行本)

 

 

 

*1:ちなみに単行本では「あの頃の僕はただの機械だった。」(p76)