ひとりの青年と、私の愛のはなし ―コンサート「あやめ」感想―

 いつも以上に主観的な文章です。もしかしたら気分を害される方もいるかもしれません。責任は負えないので、それでもという方だけ先へ進んでください。
 私が見た、私の頭の中で紡がれた、私にしかできない「あやめ」の話です。

 

 

 この曲については、曲自体の感想は既にまとめてある(ドアの内側の君を呼ぶ ―「あやめ」感想― - 来世はペンギンになりたい)。コンサートの「あやめ」を見ても、曲を聴いて思ったこととは外れてはいないと思った。これらの気持ちが更に深まったような感じがした。


 私は、あの曲を歌い踊る加藤さんはとても「人間」だと思った。加藤さんというひとりの青年が繰り広げる物語だった。センステへ歩き、ばたりと倒れる(アリーナでは倒れているところから始まっていたらしい)。そこから歌い出す。もしかしたらあの青年は、何か大きな壁にぶつかって倒れてしまったのかもしれない。彼のめざす世界に手を伸ばしても届かないと知ってしまって、道半ばにして倒れてしまったのかもしれない。しかし彼は歌い出す。
 体全体を使ったり、指先と表情で見せたりと、前半は静かに燃える情熱が確かにそこにあるのを感じた。しかしその情熱はまだ向かう先を知らないようにも思えて、この先どうなるのかわからなくて、とても張りつめた空気だった。私は息をのんで見つめるしかなかった。遠いし、双眼鏡も持っていない。コンタクトをしているけど視力がいいわけではない。遠くの加藤さんがかろうじて見える程度。それでも私は、モニターではなくて彼を見つめるしかなかった。目を離すことができなかった。

 遠くから見ていたから、Jr.が出てきたあたりの細かな動きは覚えていない。ただとても美しかったことは覚えている。だんだんと、青年の情熱の向く先がはっきりとしていく。動きも大きくなっていって、「んなもんいらねぇ 飛んでやらぁ」の跳躍がとても力強かったことを覚えている。
 「あやめ」の音源を聴いたとき、このポエトリーリーディングの部分が苦手だった。「あやめ」だからというわけではなくポエトリーリーディング自体が苦手で、聴いていてどう感情を乗せたらいいのかわからなくなってしまう。けれどコンサートでの「あやめ」では、この部分が台詞のように聴こえた。加藤さんが演じるこの曲の主人公(さっきから仮に「青年」と呼んでいる)が、救済の蜘蛛の糸を否定して自らの力で飛ぶことを選択する。青年の心の底から出てきた言葉のように思えて、すんなり心に入ってきた。青年の熱の向かう先が決まった、決意のようなものを感じる場面だった。
 自らの力で飛ぶことを選択した青年は、「雨の弓を渡れ超えろ抱きしめろ」と自分に言い聞かせ、クレーンの上へとのぼっていく。蜘蛛の糸を拒絶したから、彼は自分の足で行く。
 青年の、もとい加藤さんの、文字通りいのちを懸けた姿だった。勿論、安全であることがある程度担保できているからこそ演出として組み込まれているのだと思うけれど、それでも危険なことには間違いない。加藤さんのいのちが、あの曲に生きている。映画「ピンクとグレー」のごっちの姉を思い出させるようなコンテンポラリーダンス。彼がクレーンをのぼっていったとき、あのシーンが一瞬頭をよぎって、少しだけ怖かった。でも彼はまだこれからやれることがある、やるべきことがある、まだこの先を見ることができるひとだから、あのシーンのようにはなることはない。彼は歌詞のとおり「生きていく」のだから。

 青年は駆けあがった先でドアをノックする。ドアの向こうの誰かを呼んでいる。「cause i need u cause i love u/knock knock open the door」彼が呼ぶ先には誰がいる?
 そこにいるのは私だった。上手に世界に馴染めなくて扉の奥に閉じこもってしまった人だった。青年はそんな人たちに語りかける。「あなたが必要だから、あなたを愛しているから、ドアを開けて」と。
 私は「あやめ」を聴いたとき、この曲は「取り残されてしまったり弾かれたりしてしまった人たちを世界と繋ぐ曲」だと思った。そして私はその「取り残されてしまったり弾かれたりしてしまった人」だ。上手く世界に馴染むことができない。馴染む努力をしたら、それは自分を傷つけることと同義になってしまう。それならば、馴染めなくてもせめて認められる努力をしようと思った。けれど私の努力は裏目に出てしまい、結局は弾かれてしまう原因のひとつになるだけだった。自分にできることを頑張ればきっとどうにかなると思ったけれど駄目で、ただただ耐えることしかできなかった。そのうち、どうやって努力をすればいいのかもわからなくなっていった。物理的には引きこもらなかったけれど、心は扉の奥に閉じこもっていた。
 昨年の秋頃から、実家を出たり結婚したりということで自分について考える機会が増えた。考えれば考えるほど、己の駄目さ具合に気付くだけだった。私が自分で気付いただけではなく、親の意見を聞いてもそうだった。なるべく迷惑をかけないようにと思って生きてきたのに、弟の方が数倍楽だったと聞いて悲しくなった。私が必死にやっていることは、多くの人にとっては意識せずともこなせることだった。私が必死に悩んでいることは、多くの人にとっては取るに足らないし悩みの種にもならないことだった。頑張らないとできないことが多すぎて、どうして、と思った。どうして私はこんなに頑張らなければいけないの?必死になっても追いつけないのに、追いつけたとしてもその輪の中に入れるかわからないのに。毎日が怖い。明日が来なかったら良いのにと思った。
 だけど、加藤さんが呼んでいる。ドアをノックしている。大好きなひとが私を呼んでいるのだから、ドアを開きたい。のばされた手を掴みたい。そんな気持ちになった。

 そして青年は虹色の旗を振る。旗を振る青年の上にはクレーンでできた虹が架かっている。
 旗を振るという行為にはいろいろな意味があると思うけれど、「あやめ」における旗を振るという行為は「ここにいること」を示すことだと思う。私は加藤さんが全身で歌い踊り、そして「ここにいること」を示すこの曲がとても好きだと思った。
 多様性を示す虹色の旗を振って、ひとりの青年が誰かのSOSに応えているように思えた。ドアの向こうにいる誰かに、ドアのこちら側で必死に生きている誰かに、彼は旗を振ってその存在を示していた。ここにいるよと伝えていた。
 この世には神様なんていない。だって美しい世界はまだ存在しないんだから。だから蜘蛛の糸には頼らない。自分の足で虹を歩いていく。あなたのことを愛して、手を繋いで、前へ進んでいく。美しい世界は自分たちの手で描いていく。息遣いの音で曲が締めくくられる、これからも青年が、そして「あやめ」の世界が生きていくことを表しているかのようだった。コンサートでの「あやめ」は、そういうひとりの青年を主人公にして「生」を描いた演出のように思えた。

 


 「来世はペンギンになりたい」というこのブログのタイトルは、「死にたい」を私なりに柔らかく言い換えたものだ。早く来世にいきたいとずっと思っていた。でも親を含め私に好意的に関わる人のことを思うと死ぬのも申し訳なくて、でも生きているのがつらくて、なにか言葉を残そう、と思って始めたのがこのブログだった。私がここにいることを残しておきたかった。私にとって「ここにいること」はとても重要なことだから。
 かつて私が加藤さんのことを好きだと思ったとき、そのきっかけになったのは「シャララタンバリン」というソロ曲だった。ちょっとひねくれたところのある彼があんなにもまっすぐなうたを歌っていること、そのまっすぐな曲も歌詞も彼の中から生まれたことに驚いた。それをきっかけにして、私は加藤さんのことを好きになった。「三番目にシゲが好き」といううちわについてMCで取り上げてしまうような彼が、誰より自信たっぷりに「ここにいること」を強く主張するように歌う姿が好きで好きで仕方がなかった。だから、いつかそんなパフォーマンスをする加藤さんを見ることが夢だった。
 昨年「星の王子さま」を見たときに書いたブログ(さよなら、私の愛したあなた。 - 来世はペンギンになりたい)にも「普段はどこか居心地が悪そうな顔をしているのにソロ曲では「俺はここにいるんだ」と自信を持って歌うあなたを、生きづらそうなあなたを、かつてはいたのかもしれないけれどもう今はどこにもいないあなたを、ずっと心の中に閉じ込めたままだった。」という文章があった。
 あのブログ記事を書いたあとも悩んでいた。加藤さんのことが好きだから、加藤さんのことを好きでいられるか不安だった。こんな気持ちになるくらいなら、加藤さんを好きになるきっかけが「シャララタンバリン」でなければよかったのにと何度も思った。中途半端に知っているくらいならいっそのことかつての加藤さんを知らない私になりたかった。知っていると言えるほど知らないのに、知らないと言えないほど知っている。この中途半端さが嫌で嫌で仕方がなかった。あの頃の加藤さんのことはやっぱり特別に好きで、でももういないからこそこんなに好きなのかもしれない。私はこの先も加藤さんを好きでいられるだろうか、と何度も悩んだ。
 確かに、あの頃の加藤さんはもういない。でも、全く知らない人ではなかった。「あやめ」を歌い踊る加藤さんを見て、「シャララタンバリン」の延長線上にいる加藤さんに会えた気がした。私がずっと見たいと思い続けてきた、「ここにいること」を強く訴える加藤さんを見ることができた。「星の王子さま」のパフォーマンスを見たとき、「あやめ」を聴いたとき、それぞれ加藤さんが知らない人に思えてとても寂しかったけれど、今は寂しくない。彼は旗を振っている。「ここにいること」を歌っている。
 勿論、あのときとは意味合いが違う。「シャララタンバリン」は単純に存在の主張だったけれど、「あやめ」は取り残されてしまったり弾かれたりしてしまった人に対して自分がここにいることを伝えているように思えた。

 

 

 ここから更にものすごく痛いことを言うので地雷のにおいがしたら引き返してください。
 「あやめ」を見ていたら世界には私と加藤さんしかいないような気がした。勿論東京ドームなんだから私は1/55000だし、加藤さんが私の存在に気付いているとかそういう話ではない。だけど、私の主観の話として、世界には私と加藤さんしかいなかった。あのドアをノックした先にいるのは私だし、あの旗は私のSOSに応えるために振られていた。1日目はそんな気がした。
 2日目は、私と加藤さんしかいない世界で、加藤さんは誰かのためにドアをノックしていたし誰かのために旗を振っていた。そんな加藤さんの背中を見つめることができたことを、幸せに思う。
 私はリア恋とかガチ恋とかというタイプではない。加藤さんに恋をしているわけではない。でも加藤さんのことを愛している。恋愛に発展するようなものではなくて、そもそもが全く別のかたちの愛。でもそれは愛と呼ぶ以外に呼びようがない愛。ファンとアイドルというかたちの愛。私はファンとしてアイドルである加藤さんのことを愛しているし、加藤さんはアイドルとしてファンである私のことを愛しているように思えた。私の愛は、間違いなくあのとき成就した。だからものすごく晴れやかな気持ちでいっぱいになっている。恋愛とはなんの関連もないし他のどんな愛とも代用がきかない「ファンとアイドル」というかたちの愛だってある。私の愛はそういう愛だ。

 ずっと見たかった「ここにいること」を主張する加藤さんのパフォーマンスを見ることができたことと、私のような人間のSOSにも応えてくれること。二つの意味で、私は「あやめ」に救われ、私の愛が成就したことを感じることができた。「あやめ」は私にとってとても特別な曲になった。この特別な気持ちは私だけのもので、誰にも何にもどんなことがあっても侵されたりしない。強く確信しているくらい、私にとって特別な曲になった。
 それがどうしたということかもしれないけれど、私は今すごくあたたかで晴れやかな気持ちで加藤さんのことが好きだ。

 

 というわけで、今日も私はシゲ担です。