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来世はペンギンになりたい

好きなものを好きと言うために生きてる

ドアの内側の君を呼ぶ ―「あやめ」感想―

 

 コンサートには行っていないのでネタバレのしようがありませんのでその点はご心配なく。楽曲についての感想を、今更ですがメモ書き程度に書いておこうと思います。相も変わらず100%が主観でできています。コンサート行ってないから、行った後には「全然違うじゃん!」と思う可能性もあるので、曲を聴いて思ったことを書き残しておきます。
 
  「あやめ」
 
 初めて聴いたときは、加藤さんがまた知らない人のように思えてしまって寂しかった。私が私の頭の中で作り上げた「加藤シゲアキ」をどんどん更新しないと追いつかない。それは私が勝手に寂しいだけなので別になんの問題もない。こんなに美しい世界をつくってしまう人を好きでいることは誇らしいことのはずなのに、私は勝手に寂しくなってしまっていた。最初の数日間はほとんどまともに聴けなかった気がする。その気持ちを率直に書いたのが前回の『NEVERLAND』レビューで書いた内容だ。
 発売週の週末、友人に会った。昨年のQUARTETTO後に加藤さんへの思いを聞いてくれた友人だ。彼女に「寂しい」「でも新しく知る一面も好きになりたい」と話したところ、「新しい一面を楽しんでいけるようになるといいね」と言ってくれた。その言葉は私が自分に言い聞かせていたのと全く同じことで、そう言ってくれる人がいたことでなんだか気持ちが楽になって、素直な気持ちで聴けるようになった。素直な気持ちで聴くと、あれもこれも考えたいことだらけだった。
 全部に「ここはこう思う」と書いていくことはせずに、印象に残っている部分を取り上げて並べていくことにする。

 

 という前置きをしたくせにまだちょっとだけ前置きをさせてほしい。
 この曲は人々を――とりわけ取り残されてしまったり弾かれたりしてしまった人たちを世界と繋ぐ曲で、私はその取り残されてしまったり弾かれたりしてしまった人たちのひとりだ。私が特別というわけではなくて、そういう人は沢山いる。多数派ではないけれどいる。(今は私自身のことを詳しく語るつもりはない。)
 「あやめ」のいう多様性は大袈裟なことではなくて、たとえばいじめられていた人とか、仲間外れにされてきた人とか、陰で笑われてきた人とか、そういう人たちにも寄り添うような言葉で綴られているのだと思う。私にはそう思えた。

 

 

紙で切れた指先のように
伝わらない痛みを忘れないように

 「紙で切れた指先」の痛みは大きいわけではない。小さくてささやかな痛みだ。けれど瞬間的にはとても痛いし、頭の中では痛みを思い出せる。でも、傷口は痛みほど大きくないので、どれほど痛くても伝わらない。だけど、伝わらなくても確かに痛みはあった。
 萩尾望都さんの漫画『トーマの心臓』を森博嗣さんが小説にした同名の『トーマの心臓』という本がある。その中に「傷口を見ただけじゃ傷の痛みはわからない」というような台詞があった。もうだいぶ前に読んだけれど、その台詞は印象に残っている。
 痛みは主観的なものだから傷口を見たってわからないし、同じ経験をしても同じ痛みを感じるとは限らない。ただ「あの人もこんなふうに痛かったのかな」と想像することしかできない。
 この「紙で切れた指先のように 伝わらない痛み」は誰の痛みか。私はこの歌詞の「僕」が経験した痛みのことだと思った。「僕」が、自身の経験した「伝わらない痛み」を忘れないようにしよう、と決心しているように思える。
 きっと「紙で切れた指先」の痛み自体は誰にでもある。私にもある。小さいけれど確かに痛い。でも、忘れてしまおうと思えば忘れられる痛みだ。だからといって忘れていてはいけないのだと思う。でなければ、私が「紙で切れた指先」の痛みを忘れたことで誰かの指先を紙で切ってしまうかもしれないし、切ったことにも気付かないかもしれない。そういうことのないように、自分が経験した痛みも大切に持ったまま、忘れずにいようということなのかなと思った。痛みを知っていたら、他者にも同じ痛みを与えようとは思わない。少なくとも私はそうありたいと思っている。

 

青と藍と紫のボーダーライン
見極めるなんてできないんだ

 「あなたは私/私たちとは違う」という線を、何度も引かれた覚えがある。線を越えてこっちへ来ないでと言われたり、線の向こうから指をさして笑われたりしたこともある。でも、私もまた線を引いたことがある。「私はあなたたちとは違う。ここから出ないから傷つけないで」という線を何度も引いてきた。

 違う。確かに違いはある。けれど、それは決して悪いことではない。たとえばこれは仮定の話だけど、私は紫で私の母は青だったとする。母は青が正と思っていたから、私に「お前は青だし世界は青が正しいのだから青として生きていかないといけない」と教えてきた。けれど私にとってはそれは苦痛だった。持って生まれたもの、私を私たらしめるものを殺さなければ私は青の中では生きていけない。でも、母のしたこと自体が間違いだとは思わない。私が他者から傷つけられないようにという私に対しての愛情からくるものだったし、紫でも青の中に馴染んで生きるほうが楽な人もいる。私はそうではなかった。ただそれだけのことだ。まぁ仮定の話だけど。
 違うけど違いを悪いものとしない世界が理想なんだろうと思うけれど、そこに至るのはとても難しい。

 

いずれあやめかかきつばた
いずれもあやめず青空

 「いずれもあやめず」という言葉が、とても美しいと思う。先程の仮定の話をまだ続ける。私は私を殺さないと溶け込むことができない。でも私はそれをしたくなかったしできなかった。でも、私を殺してでも溶け込まなければいけないという気はしていた。そう教えられてきたからということもあったし、私の溶け込むべき世界が正しいのだという認識でいるからか、できない自分に対して罪悪感もあった。ちゃんとできなくてごめん、とずっと思ってきたし今も思っている。
 だけど加藤さんは「いずれもあやめず」と歌う。なんだか心が少しだけ軽くなった気がした。私は私を殺さなくてもいいし、それに罪悪感を持たなくてもいい。今すぐ気持ちが切り替わるかといったらそうではないけれど、でも気持ちが軽くなったのは確かだ。
 私が「正しい」と教えられてきて正しいと思ってきた世界にも疑問に思うことはある。それでも頭のどこかでは「それが正しくて、疑問に思ってしまう自分が正しくない」と思ってしまうこともある。でもそこには正しい正しくないの判断は、きっとない。誰もが等しく正しくて等しく正しくない、というか正しいかどうかで測れるものではない。これもまた今すぐ変えられる価値観ではないと思うけれど、次第に変えていければ私の罪悪感もなくなるだろう、と思う。

 

ゴッホも描けないほどの 愛の美しさを
あなたと手をつなぎ重ね重ね塗り描いてこう

 「あやめ」に出てくる「あなた」はただひとりの誰かを示すというよりは聴き手すべてを指すような、あるいはもっと沢山の人を指し示すような気がする。「あなた」という存在は曲の中では完結せず、曲の外側にいる「あなた」に届くことで更に広がっていくようなイメージ。

 不特定多数の「あなた」と手をつなぎながら描いていけば、いつかは「世界」というキャンバスに愛の美しさを描くことができるかもしれない。

 

cause i need u cause i love u
knock knock open the door

 大サビの英語部分、それまではなめらかで流れるようなメロディだったのに、少し緊張感のある音になる。歌声の前の跳ねるような音は、まるでドアを叩いているよう。「knock knock open the door」という歌詞とも相俟って、ドアの向こうの誰かを呼んでいるように聴こえる。 受け取り方によって変わるとも思うのだけれど、ドアを叩いているのはドアのこちら側にいる私か、それともドアのあちら側にいる誰かか。私には外側から叩かれているように思えた。
 あなたが必要だから、あなたを愛しているから、そのドアを開けて。
 緊張感のある切実に訴えるような響きで、閉じたドアの中にいる人を呼んでいる。先述した「取り残されてしまったり弾かれたりしてしまった人たち」の中にはドアを閉じてしまった人もいると思う。あるいは自分から線を引いてその中に閉じこもってしまった人たち。きっとそういう人たちは(あるいは私は)、私がそこにいる必要もなく、誰かに愛されることもないと思ったから、ドアの向こうに閉じこもってしまったのだ。そこに「cause i need u cause i love u」と呼びかけられたら、外へ出てもいいかな外へ出たいなドアを開けようかな、なんて思ってしまう。
 「i need u」も「i love u」も、素直な感情で、そのままの意味。それ以上の意味などない。使い古された言葉かもしれないけれど、とても美しく響く。
 それに、「open the door」。鍵を特典につけるアルバムにこの歌詞があるソロ曲を用意する加藤さんのことが好きだ。どうしても好きだ。 

 

世界は心の奥底にある

 それまでのサビでは「世界は光の地図を求める」と歌っているところ。「光の地図」だからきっと明るい方向へ向かうための地図なのだろうと思うけれど「求める」と言っているからまだ手元にはないものだ。それに「世界」はとても広くて大きくて漠然としたもののように思える。しかし、最後は「世界は心の奥底にある」と歌う。ずっと漠然としていた「世界」は、実はひとりひとりの心の奥底にある。ひとつの大きな「世界」というものがあるのではなくて、ひとりひとりが集まってできるのが「世界」。それぞれの心の奥底にある「世界」が変われば、それが集まった「世界」もきっともっと良い方へ変わっていく。それをこんな言葉で表現する加藤さんの言語センスが好き。
 ひとりひとりが変われば世界が変わるなんてそれこそいくらでも言われてきたことだし、今更だけれど、しかし実践するのは難しい。しかし改めて言葉にして、それを頭のどこかにおいておくことに意味があると思う。

 

 コンサートの演出などについては情報を一切シャットアウトしているので本当にまだ何も知らない。なので既に行った方が見たら「こいつ何言ってんだ」という部分もあるかもしれないけれどそれはどうか見逃してほしい。私もコンサートを見たら「何言ってんだこいつ!」と思ってこの記事を消してしまうかもしれないけれど、それもそれで見逃してほしい。

 

 素直な気持ちでいろいろ考えながら聴くと、言葉にするのが難しいくらいいろいろなことが浮かんできた。私の音楽的な趣味と合致するかと問われたらそれはちょっと違うと答えるしかないのだけれど、でもとても好きな曲だ。加藤さんが作らなかったら聴かなかったし好きにならなかった曲だけれど、加藤さんにしか作れない曲だからそれでもいいんじゃないかと思う。
 私は「あやめ」はドアの外側から内側へ向けて歌っている一面があると思っているから、ドアの内側にいる私はドアの内側からの受け取り方しかできない。外側にいる人が聴いたらきっとまた違うのかもしれない。でも私はこういうふうに受け取って、誰かが私に言ったいろいろな言葉について「実はこういう意味があったのかもしれない」と思えるようになった。今更気付くなんて自分の未熟さを露呈するようだけれど、でもこの曲がなかったらもっと気付くのが遅かったかもしれないし、気付けなかったかもしれない。「あやめ」のおかげで気付けてよかった。
 曲を聴いて嬉しくなったり気持ちが軽くなったりはするけれど、その日から何もかもが一変するわけではない。絡まった糸が全部ほどけるわけではなくて、絡まった場所がわかった、くらいの感じ。周囲にうまく溶け込むことができないことの罪悪感は消えない。でも、今はそれでいいと思う。もう糸が絡まっている場所はわかったのだから、きっとほどいていける。