来世はペンギンになりたい

好きなものを好きと言うために生きてる

加藤シゲアキ作品における文章表現の面白さ #にゅすほめ #しげほめ

 レポートみたいなタイトルになってしまったけれど、#にゅすほめ の参加記事です。

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 小説家・加藤シゲアキを推したい!!!!!
 勿論アイドル・加藤シゲアキが第一だけれど、そのアイドル・加藤シゲアキが小説家・加藤シゲアキの顔を持っていると思うと更に好きになる。加藤さんが居場所を守るために身につけた「小説家」という武器を、もっともっと世にしらしめたい。
 つまらなかったりすごいと思えなかったりしたら語ることはできないけれど、面白いしすごいから語るしかない。私が大学生だったら加藤さんの文章表現に就いていくらでもレポートが出せたのに、と悔しくなるくらいだ。どうしても加藤さんの小説についてそこそこ詳細なレポートを書きたい!ていうか読みたいのにない!ないから書くしかない!!!
 もっと素直にしげほめしようかとも思ったけれど、今の私には加藤さんのことはちっともわからないから難しい。でも加藤さんの書いた小説のことなら、少しはわかる。
 そこで、今年のにゅすほめは、加藤さんの小説の文章表現について「ここが好き」「ここがやばい」を語ろうと思う。物語の考察は別の機会にしているので*1、今回は文章表現を中心に書いていきたい。

 ※大学で文学をかじったとはいえ専門的な知識はほぼゼロだし解釈はあくまで個人的なものなので、ひとつの可能性を示すにすぎないものと思っていただければ幸いです。

 

 

 既に出版されている『ピンクとグレー』『閃光スクランブル』『Burn.-バーン-』『傘をもたない蟻たちは』のネタバレには配慮しておりません。「チュベローズで待ってる」については、物語の展開に関わらないような部分(ラジオで言及されたことのある部分)について触れています。

 

 

各作品における文章表現のここがすごい

 長編3作品について、ここがすごい!と思う文章表現をピックアップする。それぞれ「加速」「省略」「回帰」と名付けているけれど、専門用語というわけではなくて私が勝手にそう思っているだけなのであしからず。

 

『ピンクとグレー』における加速

 『ピンクとグレー』はだんだんと加速していく物語だ。読んだ人ならどういうことかわかるのではないかと思う。『ピンクとグレー』は章ごとに現在と過去をいったりきたりするような構成で書かれている。第一章の24歳の時点が物語の軸(現在)となり、第二章では9~11歳(過去)へ飛ぶ*2
 そのため、前半部分はストーリーの進みが遅く感じられる。第一章の時間軸が物語における現在であるため、そこから過去に飛べばページが進んでも物語の中の時間は進まないのだから、話がなかなか進展しないように見えるのは当然のことだ。
 しかし第十章、りばちゃんが同窓会へ行ってごっちと再開するところからは時間軸が物語そのものの時間軸と合致する。そこからの加速がすごい。前半部分の停滞はこの加速を更に強くするためにあったのだと、そこも込みの演出としてこの構成にしたのではないかと思う。時系列を追って物語を書いてもこの加速は生まれない。だんだん速くはなるかもしれないが、ここまでの加速にはならない。現在と過去を繰り返して前半の進行をわざと停滞させたことで、加速し、転げ落ち、それでも止まれない、更に加速していく、そんな制御不可能な疾走感が生まれるのだ。
 停滞していたりばちゃんの物語は、ごっちと再会したことによって動きだし、加速する。ラストをより狂気的に、より美しくするために、27歳と139日目に向かって加速していく。りばちゃんがごっちを演じることで自分の中にごっちを再生していき、自分がりばちゃんなのかごっちなのかわからなくなり、首を吊るシーンを撮影しながら幻惑の世界に陥っていく狂気的なラスト。ごっちが自分で自分を止められなくなっていく様子や、誰も触れない世界にごっちとりばちゃんがいる感じが、この狂ったような加速によって更に強調されている。

ピンクとグレー (角川文庫)

ピンクとグレー (角川文庫)

 

 

 


閃光スクランブル』における省略

 省略、といっても言葉を略しているという意味ではない。文章そのものが省略されていて、そこがとても良い。
 該当箇所は巧と亜希子の逃避行のところ。1カ月にも及ぶ逃避行は最初の長瀞のあたりしか描かれていない。

 あの蛍と星の瞬きから一ヶ月間、マスコミと事務所関係者に追われながらもなんとか巧と亜希子は逃避行を続けた。秩父から上信越自動車道を北へと抜け、新潟から金沢、そして長野、名古屋を抜け、東名高速道路で今二人は東京へ向かっている。

 という短い描写でまとめられている。
 しかしそのあとの巧と亜希子の様子や渋谷で写真を撮るに至ることを考えると、二人にとって悪いものではなかったことがわかる。でも、具体的に何をしていたのかはわからない。巧と亜希子の逃避行は、作者の加藤さんしか知らないし、加藤さんすら知らないかもしれない。
 省略されているということは、きっとこんなことがあったんだろうなぁと想像する余白が残されているとも考えられる。どんなことを考えても正解ではないし、不正解でもない。
 この省略というテクニックは小説に限った話ではなくて映画などの映像作品でも漫画でもしばしば見かけるものだけれど、前作『ピンクとグレー』は時間軸をバラバラにしているものの作中に明確な意図を持った省略は見受けられなかった。何があったのか、主人公であるりばちゃんが知るところの物語は詳しく書かれている。『ピンクとグレー』は読まれることはある程度頭にありながらも(だからこそ加速するような構成になっていたんだと思うけれど)一番の目的は「読まれる」よりも「書きあげる」だったような印象を受ける。出版されるかどうかわからない状態で書いていたし、何より初めて書きあげた長編小説なのだからそれは当然だろう。加藤さんが加藤さんのために書いた、りばちゃんによるりばちゃんの物語が『ピンクとグレー』で、つまり余白を許さない物語だった*3。そんな『ピンクとグレー』のあと、加藤さんはどんな小説を書くのだろうと期待と不安の入り混じる気持ちでいたから、『閃光スクランブル』で読者に物語を委ねてくれたような気がして嬉しかった。当時からメールを送るタイプのシゲ部リスナーだったらめっちゃ送ってたと思う。
 また、文庫版は改稿が行われているが、その際には加筆よりも削除のほうが多く行われている。第一章を見比べてみると、主人公・巧の心内文がカットされており、巧のキャラクターを読者の想像に委ねる余白を生んでいる。

閃光スクランブル (角川文庫)
 

 

 


『Burn.-バーン-』における回帰

 『Burn.-バーン-』を読んで、今までの二作に比べて格段に構成のテクニックが上がっている、と感じた。元々持っている物語を作る発想力や言葉のセンス、書きあげるスタミナに加えて、構成のテクニックが身についている。現在と過去を行き来しながら物語が進行するという構成は『ピンクとグレー』と似ているが、『ピンクとグレー』の場合は読者が知らないことをりばちゃんは知っているということがありえたが、『Burn.-バーン-』は「失った記憶を取り戻すためにレイジが物語を執筆する」というスタイルで進んでいくため、読者の知らないことはレイジも知らない。主人公とともに話を追っていくことで読みやすくなっている。
 『閃光スクランブル』は「ここにこういうテクニックを使っている」というのがわかる部分があったが、『Burn.-バーン-』ではごく自然に取り入れられていた。アイドルの書いた小説が出版されたのではなく、加藤さんは読ませる小説を書く力を持ったアイドルだった、ということが、この本で証明されたような気がしている。「渋谷」と「芸能界」がモチーフとして使われているものの、それらはあくまでモチーフであり主軸ではない。加藤シゲアキという作家の羽ばたきが聞こえるような気さえする一冊だ。
 そんな『Burn.-バーン-』で一番ぐっときた表現が、最初と最後が同じ文、という構成だ。「ただいま」という台詞で始まり、終わる。初めて『Burn.-バーン-』を読んだとき、この仕掛けに気付いたとき、泣くしかなかった。私が加藤シゲアキという小説家を甘く見ていたことを思い知らされたような気がした。なんの不自然さもなくすっきりと、物語は「ただいま」から始まって「ただいま」に落ち着いた。つまり冒頭に戻る=回帰。とても美しいつくりになっている。
 しかし冒頭の「ただいま」と最後の「ただいま」は意味合いが異なる。冒頭の「ただいま」は「ただいまご紹介にあずかりました」を言い淀んでしまった結果の「ただいま」だ。言葉が詰まって途中で切れてしまったがゆえの「ただいま」。一方、最後の「ただいま」は、再び役者として舞台に立つことを選んだレイジの台詞になっている。この最後の「ただいま」は単なる台詞という意味だけではなく、かつて天才子役だったレイジが舞台の上に帰ってきたことへの「ただいま」、成長したレイジから徳さんとローズへの「ただいま」、なくしていた記憶がレイジの中へ戻ってきたことへの「ただいま」など、さまざまな意味が重ねられているように思える。

Burn.‐バーン‐ (単行本)

Burn.‐バーン‐ (単行本)

 

 

 

加藤シゲアキ作品における嗅覚的描写

 私が加藤さんの小説で特に好きなのが嗅覚を用いた描写だ。好きすぎるのでちょっと語らせてほしい。
 私は文章を視覚的にイメージしながら読むということができないタイプ*4なので、残念ながら「文章を読んで頭の中で映像が見える」というのがよくわからない。しかし、嗅覚についてはわかる。加藤さんの文章からはいろんな匂いがする。

 

『傘をもたない蟻たちは』収録「染色」

 『傘をもたない蟻たちは』を読んで、全体的に「なまぐさい」という印象を受けた。感覚的なものなので言葉にするのが難しいけれど、生と死のにおいとでもいうような感じ。「いまを生きる人々の「生」と「性」を浮き彫りにする6編の物語。」というコピーがついていたが、「性」と「生」を描くことで独特のなまぐささが生まれているように思えた。あるいは、そのなまぐささは「死」のにおいなのかもしれない。特に「染色」「にべもなく、よるべもなく」はそうだった。
 
 物語の雰囲気から感じる「におい」だけでなく、文章中にも嗅覚的描写が多くみられる。『傘をもたない蟻たちは』から「染色」をとりあげ、嗅覚的描写を引用する。

  時折銀杏の臭気を含んだ風がどこからか流れてくる。

 川に近づくにつれて、銀杏の臭い川の臭いが混じっていく。土手に出て皮を見下ろすと、昨日雨が降ったせいか流れは想像以上に速く、濁っていた。

 鉄道橋の奥に大きな銀杏の木があった。なるほど、原因はこれだったか。そこまでいくとまた臭うだろうからと、僕は橋の手前で土手を川の方へ下りることにした。

 芸術祭に来ていた彼女と別れた後、主人公である市村が宛てもなく歩いている場面。これだけの文章の中に、銀杏の臭いが三回、川の臭いが一回ある。
 銀杏のにおいはあまりいいものとは言い難いし、降雨の後の川の臭いもあまりよいものではない。川に溜まった汚れや微生物の死骸などが雨によって底のほうからかきまぜられ、生臭いような臭気を放つ。
 これらの臭いの表現が繰り返されることで、なんかとりあえず臭いんだなという印象を読者に植え付けている。これだけ悪臭の表現が繰り返されると、市村の今後にあまりいい予感はしない。
 また、「染色」にはもうひとつ特徴的なにおいの描写がある。「塗料の匂い」だ。

 彼女から漏れる声とビニールが擦れる音。塗料の匂い

 さまよい歩いた先で市村は以前居酒屋で出会った橋本美優と再会する。美優は橋の下でグラフィティアートを描いており、その後二人は美優の部屋で抱き合う。そのときの描写には「塗料の匂い」が出てくる。「匂い」という漢字を当てている。
 一般的に、「匂い」は良いにおい、「臭い」は悪いにおいに対して当てられる漢字である。デジタル大辞泉によれば、「臭い」は「嗅覚を刺激する、不快なくさみ。悪臭。」とあり、「匂い」は「そのものから漂ってきて、嗅覚を刺激するもの。」とある。「匂い」と「臭い」の使い分けにおいては、感じる本人の快/不快が現れているとみていいだろう。
 物語の語り手である市村は、美優の塗料の匂いには先程の銀杏や川の臭いのように嫌悪感は抱いていない。人によっては塗料のにおいを嫌だと思うこともあるが、市村は好意的にとらえていることが「匂い」という漢字からわかる。
 「染色」において、「塗料の匂い」は美優の才能、非凡さを表現しているように思える。しかし塗料のにおいは刺激の強いにおいであり、常にそのにおいがするということは普通の人間には耐えがたい部分があるのかもしれない。美優には類稀なる才能があり非凡だから、常にそのにおいを纏っていられる。しかし市村はそうではなかった。

 部屋には何もなく、それなのに塗料の匂いはまだ残っていた。

 美優と別れてしばらくして彼女と出会った居酒屋で彼女の現在を知り、美優と過ごした日々の残滓を探す市村。しかしもう何も残っていない。そして美優と過ごした部屋を訪れたときの描写にも「塗料の匂い」が出てくる。そして最後の一文にも「塗料の匂い」が登場する。

「今から会えないかな」
 その時にはもう塗料の匂いさえ感じなくなっていた。

 感覚とは主観的なもので、もしかしたら他の誰かが美優の部屋にいても最初から「塗料の匂い」なんてなかったのかもしれない。市村がそこに「塗料の匂い」を感じたかっただけだったのかもしれない。
 果てることのできない自慰行為のあとで杏奈に電話をかけた市村はもう「塗料の匂い」を感じることができなくなっている。常にスプレーで己に色をつけていた美優の、才能と非凡の象徴でもあった塗料の匂い。非凡である美優のまとう「塗料の匂い」はあくまで美優のものであり、市村はそのにおいに包まれていただけで、美優のもっていた非凡さまでもを手に入れたわけではなかった。結局のところ、市村は普通の人間でしかなかった。
 市村と美優の関係が完全に終わったことを印象付けるこの一文は、この物語の終わりに相応しいものだといえよう。

傘をもたない蟻たちは

傘をもたない蟻たちは

 

 

 

 

「チュベローズで待ってる」第一話

 週刊SPA!にて連載されていた「チュベローズで待ってる」にも嗅覚的描写が効果的に使われている。ここでは第一話をとりあげる。

 自分の吐瀉物から大量に飲んだテキーラの臭いが沸き立ってくる。

 サイケデリックな色使いのメイクをした女たちは香水の臭いを巻き散らし、

立ち食いそば屋に入るといい出汁の香りが僕を迎え入れた。

 「チュベローズで待ってる」第一話に登場する「におい」に関する描写をピックアップすると上の三か所が該当する。第一話では主人公・光太が就活に失敗し、自暴自棄になってひたすら飲み、吐いて、ボロボロになっていたときにホストである雫と出会う、という場面が描かれている。
 「大量に飲んだテキーラの臭い」が悪臭であることは勿論だが、次に出てくる「香水の臭い」もまた、ここでは悪臭に分類されている。「匂い」ではなく「臭い」という漢字を使っていたり、「巻き散らす」という否定的な意味合いをもって使われることが多い動詞を使っていたりして、就活に失敗したことと酒に悪酔いしたことで、歌舞伎町を歩く女性の香水のにおいに苛立っている様子がわかる。
 最後に出てくるのは「いい出汁の香り」。「香り」は好意的に捉えられたにおいに対して使われる。しかも「いい出汁」。さっきまであれだけ悪臭を漂わせていたのに、一気に美味しそうなにおいになる。文章を読んでいるだけなのに、なんだかそばの出汁の香りがするような気がしてくる。
 この嗅覚の描写が物語にどう影響しているかというと、主人公・光太の心情が表されているように感じられる。新宿の街ですれ違う他人にすら憎悪に近い気持ちを抱いていた光太にとっては、香水のにおいも悪臭に思えていた。しかし雫につれていかれた立ち食いそば屋で「いい出汁の香り」を感じた光太は、雫には悪い印象を抱いていない。光太が周囲や状況に対して抱く感情が、においの描写となって現れる。文章だからこそできる感情の表現の仕方だ。

 

 

この文章が好き4選

 もはや表現の仕方とかもさほど意識せず「この文章が好き!」を選んでみた。

 

 君が見た世界に果てはなく、これこそが楽園だ。絶望的に素晴らしいこの世界に僕は君と共にある。(『ピンクとグレー』)

 文句なしに美しい一文だと思う。「絶望的に素晴らしい」という、普通ならばくっつかなさそうな単語が組み合わさって、りばちゃんが極限まで辿り着いてしまったことを表現しているような感じがする。「果てはなく」という言葉はあるけれど、それこそが世界の果てであるような世界に、りばちゃんは辿り着いてしまった。だって「絶望的に素晴らしい」のだから。望みは絶たれた。それほどに素晴らしい世界にごっちと共にあると言い切れるりばちゃんは、もしかしたら幸せなのかもしれない。

 

 僕はしばらくそこで立ち尽くしていた。今もはっきりとあの頃の景色が浮かぶ。彼女と描いたグラフィティの数々。冷めたハーブティー。ビニールの音。彼女の声。体温。肌。染み。(『傘をもたない蟻たちは』より「染色」)

 加藤さんはあまり体言止め(名詞で文を終わらせること)を使わない印象だが、この場面では思い出が次々と頭に浮かぶ様子が名詞を羅列することで表現されている。だんだんと文字数が短くなっていくところも、どんどん頭に浮かんでくる様子が表示されている。ランダムに並んでいるわけではなくて、目で見てわかるもの(視覚)→聴いてわかるもの(聴覚)→触れてわかるもの(触覚)と並んでいて、だんだんと近くでなければ感じられないものになるように並んでいる。そういう計算されつくしたところが好き。

 

 筑前煮の人参を齧ると、鰹出汁、そして椎茸からほのかに移った香りが、ふわりと口の中に広がった。(『傘をもたない蟻たちは』より「イガヌの雨」)

 「イガヌの雨」の書き出しの一文。美味しそうな料理の描写がこのあとも続く。さすが料理好きの加藤さんというだけあって、描写された料理がとても魅力的であることが想像できる。私は味オンチなので多分筑前煮の人参を齧っても人参の味しかわからない気がするけれど、世の中にはこんなふうに料理を味わう人がいるのだ、と自分との違いに驚かされる。

 

 そのただの粉、見た目はホットケーキミックスと変わらないような粉が徳さんだという認識もまだできていない。(『Burn.-バーン-』)

 徳さんの骨をローズが幼いレイジに分けようかと尋ねた場面。砕かれた骨に対して「ホットケーキミックスと変わらないような」という比喩が出てくるところが、レイジがまだ幼い子供であることを思い出させる。大人だったらなかなか出てこなさそうな、素直な比喩。少なくとも私は初めて見た。こういう言葉が出てくる加藤さんってやっぱりすごいな、と思った。

 

おわりに

 小説は物語を楽しむという視点で読むことが多いから、なかなか細かな表現まで深く見ようとする機会が少ない。というか、物語を楽しむには細部にこだわっていては気が散ってしまうので私も滅多にしない。でも、自分がなぜこの小説を好きだと思ったかを知りたいとき、細かなところにも目を向けてみると新しい発見があるかもしれない。「自分はこのシーンを読んでなぜこういう感情を抱いたのか」のヒントが文章の表現の中にたくさんあるはずだ。加藤さんの小説をきっかけに読書の楽しさを知ったり、思い出したりした方も多いのではないかと思う。そこから更に一歩踏み込んで、構成や表現がもたらす意味などを考えてみるのもきっと楽しいのではないだろうか。
 加藤さんは本を書くたびにレベルアップしている。元々持っていたセンスという部分もあるだろうけれどそれだけではなくて、読みやすさやわかりやすさがだんだんと上がっていく。決して簡単なことではなくて努力したからこその結果だと思う。そうやってどんどん磨きあげられていく小説を読んでいるのは、とても気持ちが良い。だったらこっちも徹底的に読んでやろうじゃないか、という謎の対抗心まで生まれてくる。これからも機会があったら加藤さんの文章表現のここが好き!を語っていきたい。

 


 ちなみに加藤さんの次回作は第一部・完として最終回を迎えた週刊SPA!での連載「チュベローズで待ってる」に続きを書きくわえたもので、来春に発売予定となっております!!!

 

*1:きっと何者にもなれなかった加藤成亮の生存戦略 ―『ピンクとグレー』考察― - 来世はペンギンになりたい 、 “もう一度「再生」するための魔法”の先に ―『閃光スクランブル』考察― - 来世はペンギンになりたい

*2:基本的には現在と過去の繰り返しだが、文庫見開き2ページ分しかない第三章だけは未来の時間軸となっている。そこだけ未来なのもいいよね

*3:だからこそ余白の多い構成にした映画「ピンクとグレー」との違いが際立つのかも

*4:逆になぜこれができるのか全然わからないくらい視覚的イメージがわかない