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来世はペンギンになりたい

今生はジャニオタとして生きる

あなたについて書き綴ること

NEWS ジャニーズ
 もうそろそろ、このブログも一周年を迎えようとしている。とはいえあと二十日くらいあるんだけど。あんまりにも人間でいるのが嫌だったので来世に想いを馳せてつけたタイトルはそのまま私の内面を表していて、来世はペンギンになるので今生ではジャニオタを謳歌しようという気持ちで文章を綴っている。
 一週間に一回くらい更新できればいいかなと思っていたはずが、全然一回じゃなかったりしたし、加藤さんが何かしらの作品を発表するたびにあーだこーだと考えたことをまとめておけるので、ブログを始めて良かったなと思う。
 
 このブログは、アイドルを消費することで成り立っている。
 この1年ほどで気付いたのは、対象について考えて他者に拡散することは「消費」だということだ。最初は思ったことや自分のことを書き留める備忘録くらいの気持ちでいたが、それがそもそもの間違いだった。誰からも見られる場所に文章を置いているという時点で、それはもう個人的な備忘録ではない。なので、途中からは「私の好きなものを、たまたま読んだ人にも好きになってもらえるように」という気持ちに切り替えた。
 気付けば、私が想定していたより遥かに多くの方々にこのブログは見られているわけで、つまり私がブログに書くということは不特定多数の他者に向かって「私の考える加藤さん」「私の考えるNEWS」を拡散していることになる。多分、ネット環境さえ整っていれば、どこからでもこのブログを見ることができる。実際、検索する単語によっては検索結果の上位に表示されることもある。なんの制約もつけずに文章をネットの海に投げるということは、世界に広く発信していると同義である。当たり前のことだし、本来ならばブログを書き始める前から意識しなければならなかったことだが、意識するのが遅すぎた。普段からこんなことばかり考えているわけではないけれど、改めて、ブログに文章を書き綴ることについて考えてみたい。
 なお、以下に記す考えは私の個人的な感情だとか考えだとかそういうものです。
 
 ブログを見返してみたら、やたらと加藤さんについて書いてあった。しかし私が加藤さんについても、「私」が文章を書く時点で、「私の考える加藤さん」にしかならない。私の解釈で切り取った加藤さんでしかない。誰かのことを思うときに主観ほど邪魔なものはない。しかし、主観がなければ何かを思うことはできない。
 よくよく考えたら、この「私の解釈で切り取る」という行為はなかなかに悪趣味なもののような気がしてきた。相手のことを「この人はこういう人」と当てはめたり、勝手にわかったつもりになったりする。
 多分この「私の解釈で切り取る」という行為は、私の中にある概念でいうと「消費」にあたる。もしかしたら専門的な用語があったりするのかもしれないが、知らないのでここでは「消費」と呼ぶ。
 私はNEWSあるいは加藤さんというアイドルを自分の解釈で切り取っている=消費している。勝手にわかったつもりになってあーだこーだと書いている。私のブログを読んでわかるのは「私の考える加藤さん」「私の考えるNEWS」とかそういうものだ。「加藤さん」「NEWS」そのものではない。
 人を不快にする内容、侮辱したり差別したりする内容は書かないよう、評論家気取りにならぬようにと言葉を選んできたつもりだが、誰も不快にしないから良いとかそうじゃないから悪いとか、そういう問題ではない。誰かについて書くことでお金を得るからきちんとしないとダメとか、お金を取るわけではないから何をやってもいいとか、そういう問題でもない。専門家だからとかアマチュアだからとかそういうことでもない。誰かについて何かしらの内容を発信しているという事実が、私の中では「消費」なのだ。
 
 「消費」自体がよいことか悪いことかというのは、多分どちらでもない。ただ、私の個人的な感情では、時々ひどく悪趣味だと思えて仕方ない。それでも書くのをやめないられないしやめたくもない。
 彼らが作品としてあるいは商品として提示するものを、私は消費したい。生産されたものは消費されるのが一番いいと思っているし、生産された意義は消費されることにあるとも思っている。アイドルはときに「アイドルである自分」も作品だったり商品だったりする。
 だからといってなんでもかんでも消費したいわけではなくて、ひとりの人間としての彼らのことは消費したくない。私は彼らがつくりあげるものを消費したい。
 
 小説、ソロ曲など、加藤さんは沢山の作品を見せてくれる。加藤さんが「作品」として提示したものなら、余さず消費したい。私の中に取り込んで、咀嚼し、嚥下し、考えたことを書き記したい。考えることで、彼の作品が自分の体に馴染んでいくような感じがする。もしまた別の場面で何かを見たとき、「これは加藤さんの作品と共通する部分がある」だとか、そういうことを考えられるほどに体に馴染ませたい。ただ、それでも、私にできるのはわかった気になることだけで、本当にわかることなんて何もないのだろう。わかったつもりになって、わからなくなって、わかる努力をして、またわかったつもりになる。延々と消費し続ける。悪趣味であるという自覚を持ちながら、私は加藤さんの作品を消費する。

 加藤さんの作品は、つくった自分だけが満足すればいいという次元にはない。外に向いている。勿論、加藤さん自身が楽しんでつくることが第一義なのかもしれないけれど、「加藤シゲアキ」として発表される作品が他者に向けてつくられていることは確かだと思う。それなら私は加藤さんの作品を受け取った者のひとりとして、作品を消費したいと思う。
 時にそれは彼自身の傷を更に抉って生まれた作品かもしれない。誰かの傷を抉って生まれた作品かもしれない。どちらでもないのかもしれない。少なくとも、作品を生み出すことに労力が必要なのは確かだろう。だったらその労力に見合うだけの情熱と誠意をもって作品と向き合いたい。ときには私の傷を抉るものもあるけれど、勝手に傷つきながらそれでもちゃんと向き合いたい。
 
 アイドルは時として「アイドル」すら消費の対象になる。たとえば、加藤さんの発言を拾っては加藤さんはきっとこういう考え方をする人だとか言うことも、私は消費だと思う。ロングインタビューを読んだって、一万字やそこらでその人のことがわかるはずもない。それでも何かを見出そうとしてしまう。きっと加藤さんはこういう人なのだ、と私の解釈で加藤さんを切り取る。私の中にある「加藤シゲアキ」の型に当てはめる。当てはめたときになるべく切り取る部分が出ないようにと努力しているけれど、どこまでいったって100%の意味で理解することなどない。それでもどうにかわかりたくて、言葉を紡ぐ。
 アイドルを見るとき、彼にアイドルという「鎧」を着ていてほしいと思うのは、自分が消費しているものがその鎧であってほしいからだ。ちゃんと鎧に守られていて欲しい。生身の人間を切り取っているなんて思いたくないというわがままだ。
 
 時々、はっと我に返ることがある。
 こんな悪趣味なことをしてなんになるのだろう。私の解釈で切り取って、勝手に型に当てはめてわかったつもりになって、あまつさえそれを他人が見られる場所に置いておく。私の中に取り込んで、咀嚼し、嚥下し、考えたことを書き記すという行為は、私がやりたくてやっていることは、彼らに対して失礼な行為なのではないか。まるで私のものさしで測って食べやすい大きさに切り刻んで私の好きなように味付けをして美味しそうでしょと提示しているようなもので、とてもグロテスクな行為をしているのではないかと怖くなることもある。申し訳ない気持ちにもなる。どこか後ろめたさもある。
 でも、これ以外に自分に合う愛し方が見つからない。彼らのつくりあげるものが誰かに見られることを前提としてつくられたものなら、出来る限り見て「私にはこう見えました」と書き記したい。「愛してる」という言葉では伝わらない愛を書き記したい。だから私は、彼らに敬意を表し、誠心誠意、全身全霊の力で、彼らのつくりだすものを消費する。

 このブログは、アイドルを消費することで成り立っている。これからも消費していく。「好き」の二文字では収まらない「好き」を言葉にして、何千何万と文字を綴る。