読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

来世はペンギンになりたい

今生はジャニオタとして生きる

見えない君を観に行く

NEWS ジャニーズ 映画

 先日は映画「ピンクとグレー」プレゼン会というものを開催した。得るものがとても多い会だった。その中で気付いたことと、あの会で話したことから更に考えたことをまとめてみる。あの会で言ってたことともうブレてる部分ある。しょうがない、思考はいきものだから。

 プレゼン会後、ようやく「ピンクとグレー」を観に行った。通算8回目。多いのか少ないのかわからないけれど、同じ映画を映画館でこんなに見たのは初めてだ。3回目までは毎回泣いていた。4回目から泣かなくなった。8回目でまた泣いた。ごっちを見ているのが辛くて。
 
 私は映画「ピンクとグレー」を、ごっちの側に立って見ているらしい。
 これはプレゼン会で話している中で気付いたことだ。他の参加者がりばちゃんの側からの目線で語っているのに対し、私はごっちの側に立ってしまっているので、時折会話が食い違う部分があったように感じた。ほんの少しだけ何かがずれているような感覚が何度かあった。気にせず続けられる程度の違和感だったけれど。
 私にとっては、映画は「ごっちによるりばちゃんの物語」だった。原作は「りばちゃんによるりばちゃんの物語」。ごっちのことだけでいえば、原作より映画のほうがわかりやすい。
 しかし私の考えは「グレーパート=ごっちの見る世界」という、ある種思い込みのような解釈を前提としなければ成り立たない。最初に観に行ったときにこう見えてしまったので、もう今更違う目線でみることは難しい。なので、それを前提として話を進める。
 グレーの世界がごっちの見ている世界だという考えは、
  ①何箇所かある不自然なアングル(特に最初の縄越しにりばちゃんと成瀬を見るあたり)
  ②監督が「りばちゃんを残してきちゃった、どうしよう」という視点をもっていた、ごっちの側に立っていたという発言
  ③モノクロ=白黒=死者という連想(ちょっと安易すぎるかも)
 この三点をよりどころとしている。三つめちょっと弱いけど。
 「そんなわけないだろ!」という方はそれでいいと思う。押し付けるつもりはなくて、私にはそう見えているというだけの話だから。
 
 さて、グレーパートがごっちの見ている世界だとして。
 物語の約半分を占めるグレーの世界の主が、あれだけりばちゃんを見つめている視線の主が、りばちゃんを愛していないわけがないと思う。ここでいう愛は恋愛の愛ではなくて、もっと広く曖昧なものだ。執着と言ってもいい。ごっちがりばちゃんに執着していないわけがない。
 ただしここでいうごっちと白木蓮吾は別のものとして考えている。白木蓮吾は世間がごっちという器につくりあげた虚像の名前だ。ごっちはりばちゃんの親友で血の通った人間。
 成瀬は「彼(白木蓮吾)はお前のことなんかなんとも思ってなかった」と言う。きっと本当のことだと思う。しかしそれは私の説とは矛盾しない。白木蓮吾はごっちではないからだ。白木蓮吾はりばちゃん(河田大貴、あるいは河鳥大)については特に言及してこなかったのだろう。一緒に住んでいたことがあったということにも触れなかったかもしれない。単に「友達」という言葉でくくられていたかもしれない。とにかく、りばちゃんは白木蓮吾には必要のない人間だった。原作の冒頭で高校の文化祭の写真がテレビに映し出されたときにりばちゃんの部分がカットされているように、映画の白木蓮吾にもりばちゃんは必要なかった。
 しかし映画のごっちにはりばちゃんが必要だった。見えない姿でそこにいて、りばちゃんをずっと追っているくらいには。
 なぜだろうと考えたときに、映画と原作のごっちの違いに気付く。私は、映画のごっちが最後に言う「ごめん」は白木蓮吾ではなくりばちゃんの友達だったごっちから出た言葉だと思っている。つまり、白木蓮吾の中にはごっちがいるのだ。一方、原作の白木蓮吾の中にはごっちがいない。代わりに、りばちゃんの中にごっちを見出す。
 私は、映画のごっちのほうが原作のごっちよりわかりやすいと思う。それは多分、白木蓮吾の中にごっちがいるからだ。ごっちという器につくりあげられたスター白木蓮吾の中には、まだごっちがいる。でも、原作のごっちの中にはもういない。もし原作でも白木蓮吾の中にごっちがいたら、多分死んではいないだろう。
 映画の白木蓮吾はその中にごっちを保ったまま死ぬ。だからりばちゃんに弱みや揺らぎは決して見せないし、なぜ死んだのかも明らかにしない。りばちゃんに代わってあげたかったのかもしれない。りばちゃんが芸能界で地位を確立することができるなら死んでもよかったのかもしれない。あるいは本当にお姉さんと同じ日に、同じように死にたかっただけなのかもしれない。確かなことはわからない。
 
 わからないけれど、どれが自分にとって一番納得がいくかといえば、「りばちゃんに代わってあげたかったから」だ。芸能界なんて興味ないとサリーに告げたりばちゃんは、社長に会うときには普段よりきちっとした格好を意識していたし名刺も進んで受け取ろうとしていた。ごっちのバーターでは意味がないと自分で道を切り開きたいと思っていた。そういうりばちゃんを、ごっちは芸能界に必要な人だと思った。
 「やれることはなるべくすべてやる」という理由で芸能界に足を踏み入れて売れていった、どこか冷めているごっちからすれば、りばちゃんの熱意は芸能界に必要なものに見えたのかもしれない。だから、自分が今まで築いてきたものをりばちゃんに譲り渡そうとした。ごっちが作り上げた白木蓮吾の世界に行くための切符があのデュポンのライターだった。
 ごっちのライターを手にしたりばちゃんは芸能界に飲み込まれていく。映画のりばちゃんには熱意はあったけれど実力がなかった。少なくとも、いきなり白木蓮吾を継げるほどの実力はなかった。もっと小さな仕事から少しずつステップアップするのならまた違ったのかもしれない。
 りばちゃんの破滅はきっと、ごっちの意図するところではなかった。ごっちはりばちゃんの熱意があれば芸能界で生きていけると思ったのかもしれない。今のりばちゃんに足りない部分は周りが支えてくれると思ったのかもしれない。でも、誰もりばちゃんを支えてはくれなかったし、そんな世界で白木蓮吾はりばちゃんの重い枷となっていった。
 
 良かれと思ってやったことが、親友の身に破滅をもたらしてしまったのだとすれば。あのグレーの世界の中で、ごっちは絶望しただろう。酒に溺れ、周りに翻弄され、暗い所へと流されていくりばちゃんを見ているしかないごっち。ごっちに囚われてしまっているりばちゃんと同じくらい、グレーの世界の見えないごっちもかわいそうだ。
 原作の白木蓮吾はりばちゃんの中にごっちを見出すけれど、それは「りばちゃんの中のごっち」でしかない。だから原作のごっちについては、人物像がよくわからない。でもりばちゃんと本当に親しい友人だったのだと思う。原作のごっちとりばちゃんは対等な関係だったし、むしろりばちゃんがごっちのヒーローだった。幼少期や高校の頃のエピソードによって、その時代のごっち像はわかる。どこか守りたくなるような存在だった。でも大人になってからのごっちについてはわからない。多分もうそこにごっちはいなくて、白木蓮吾しかいなかったから。
 映画のごっちも原作のごっちと同様、りばちゃんと対等でありたかったのだと思う。原作のりばちゃんはそれを許したが、映画のりばちゃんは許さなかった。映画のりばちゃんにとってごっちは憧れで、「共にある」ことはできない関係だった。
 「共にある」ことをりばちゃんが許さないのならと、ごっちはりばちゃんを解放することにした。これ以上りばちゃんを苦しめないために、ごっちはりばちゃんが憧れる白木蓮吾としてりばちゃんの前に現れる。あのマンションの部屋の中でりばちゃんに語りかけるごっちは、りばちゃんの理想のごっちを演じる白木蓮吾だ。だからりばちゃんに都合のいいことばかり言う。あれはりばちゃんが理想のごっちを演じているからだ。
 映画のごっちは、きっとりばちゃんと共演したかった。でもきっとりばちゃんはそうではなかったのだろう。できるものならしたかったのかもしれないけれど、どうしても意識してしまう。だって憧れだから。そばにいることができないくらい強い憧れだから。ごっちを演じても、常に不安がつきまとう。理解できなかった人を演じることは難しい。りばちゃんは自分の中にごっちを描くことができなかった。
 私は、本当のごっちは前半のりばちゃん演じるごっちのように最初からカリスマ性があったわけではないと思う。あれは、りばちゃんが見てきたごっちだ。りばちゃんが「こうあってほしい」と思うごっち。だからファレノプシスを歌うときは歌手みたいにかっこいいし、スカウトされたときも一発でモデルみたいなポーズができる。
 ごっちはりばちゃんに、芸能界で花開いて欲しかったのに。そのために死んだかもしれないのに、りばちゃんはごっちに「一人で勝手に死にやがって」と言う。でもごっちはそれを受け入れる。わかりあえなくていいと自分に言い聞かせる。親友じゃなくていいし、わかりあえなくていい。それでいい、それがいい。伝わらない思いを押し殺して、それでも溢れる感情をのせて、白木蓮吾の鎧が剥がれたごっちはりばちゃんに「ごめん」と告げる。
 
 映画には「ごっち」が不在であると、プレゼン会で述べた。原作にいた幼少期のごっち、そしてバーでの会話でわかるごっちの弱い部分が、映画にはない。そういう意味で「ごっち」が不在であると書いた。りばちゃんの中に「ごっち」がいないというような意味合いでとってもらえればと思う。
 原作はりばちゃんの中にごっちがいて、白木蓮吾の中にはいない。
 映画はりばちゃんの中にごっちはいなくて、白木蓮吾の中にいる。
 エピソードの取捨選択や改変が行われたことによって、二人の関係はこのように変化した。
 原作のりばちゃんはどんどんごっちに近付いていく。ごっちはそれをどう思っていただろうか。自らの死後のことを託すくらいなのだから、きっと嫌ではなかったと思う。だからこそ、映画のごっちが悲しい。姉のところにも辿りつけず、りばちゃんと共にあることもできなかった、かわいそうなひと。重すぎる孤独を背負って、彼はりばちゃんの物語から退場する。
 
 まばゆい世界に行ける切符を、りばちゃんは歩道橋の上から投げ捨てる。ごっちの看板に向かって投げるのは、ごっちに返しているからだ。だから私は、りばちゃんはもう芸能界は辞めてしまうんだと思う。切符を返してしまったから、それ以上この道は進めない。でも、りばちゃんがそれを望んだ。鮮やかに色づいた世界は美しくて残酷だ。
 
 たとえ世界が色づいても、ごっちの看板はモノクロだった。
 
 りばちゃんの未来を示唆しているのか「GO」という文字だけ赤い。りばちゃんはごっちの手の届かないところに、きっと行ってしまうのだ。
 愛おしきごっちへ。画面に映らなくてもそこにいる君を見るために、私はこの映画を観る。

 


 
 「綴さんって魂とかそういうの好きですよね」って言われたことがあるけどまさしくそういうのが好きな人の解釈だなと思いました。