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来世はペンギンになりたい

今生はジャニオタとして生きる

愛おしきりばちゃんへ

NEWS 映画

 ※ネタバレブログに掲載していた記事をこちらのブログに移します。ネタバレブログはまたいつかネタバレしたい記事ができたら使います。

 

(初出:1/27) 

 聞かなきゃよかった、と思う。先週のタマフルの話だ。これは自ら地雷原に飛び込んでいくものだなと思いながら、それでも映画についての話を他の人ならどう語るのかが気になって聞いた。案の定吹っ飛ばされた。
 前半の「いかにも」な描写やりばちゃんのIQ下げすぎ感など、確かにそうだねと言える話は多くあった。映画好きの人の意見はこうなのか、こういった視点で見るのかと興味深く聴いていた。たとえば、私はモノクロの映画は「ローマの休日」くらいしか見たことがないので、「デジタルのモノクロ画面はのっぺりしている」という感覚がいまひとつわからなかった。きっと映画好きだったり映像に詳しかったりするからわかるところなんだろうと思って面白かった。だけどひとつだけ、どうしても同意できなかった。
 りばちゃんは頑張ってなくなんかない。
 努力を怠って、自業自得でギャーギャー喚いている、天然でバカな若者。りばちゃんはそんな人物ではなかった。
 
 前半は成瀬演じるりばちゃんなので一枚フィルターをかませた状態ではあるが、それでもりばちゃんが頑張っていたことは伝わってくる。サリーとごっちと一緒にいる場面ではわざと道化役を演じてみせるのに、いざごっちと共演するシーンになるとごっちを意識しすぎてしまって上手くできない。努力していないならごっちを意識することもないだろう。連ドラや映画を数多くこなしている白木蓮吾に追い付きたいからこそ意識してしまっていたのだと思う。
 ごっちが死んでからの1年間も、りばちゃんはずっと頑張ってきた。でなければ本なんて書けない。たとえ実在の人物を辿る物語だったとしても、それを文章に起こす作業は簡単なものではない。りばちゃんの見てきた記憶から文章へ、翻訳という作業が必要になる。ましてや、書いたのはごっちの親友であるりばちゃんだ。どう書けばごっちのことが伝わるか、言い回しを考えたりエピソードを取捨選択したり、頭を悩ませたのだろう。河鳥大の書いた『ピンクとグレー』は、努力によって生まれたものだ。
 本が発売になってからは、世間が求めるように「白木蓮吾を継ぐ男」になろうとしていたのだろう。だから必死に白木蓮吾関連の仕事をこなしてきた。白木蓮吾になれないことなんて、誰より一番りばちゃんがわかっていただろうに。映画のりばちゃんにとってごっちは最も近くにいながら最も遠い憧れの存在だから。
 世間はりばちゃんに「白木蓮吾」を求めるのに、周りは「なれるわけがない」と言う。そのくせ白木蓮吾関連の仕事しかない。世間からの圧力と、周囲の声と、板ばさみになってしまっていた、かわいそうなりばちゃん。
 
 パンフレットで、行定監督が俳優たちに「セリフをうのみにするな」と言った、という話が書かれている。つまり、映画で描かれる人達が、本当のことを言っていたり事実を反映している限らないということだ。
 小出水さんがりばちゃんに言い放つ「なんにもしてねーもん、お前」は、あれは小出水さんがりばちゃんを見ていないから出てきた台詞なんだと思った。「ごっちからもらった仕事」と言うサリーも、りばちゃんのことをちゃんと見ていなかった。ごっちから突然受け継いでしまったいろいろなものに押し潰されそうになりながらもがいているりばちゃんの姿を、誰も見ていなかった。
 りばちゃんのことを見ていたのは、グレーの視線の、ごっちだけだ。
 
 タマフルを聞いた翌日の1月24日、前の晩に眠れなくて夜が明けてから寝て、無理やり起きて映画のチケットを押さえた。その回の最後の1席だった。
 思ったよりもタマフルの内容が刺さっていた。めちゃくちゃ泣いて眠れなかったから目が痛いながらもどうにか見た。
 ふたたびりばちゃんを見ても、やはり私の気持ちは変わらなかった。りばちゃんは頑張ってなくなんかない。
 
 映画のりばちゃんとごっちを分けたのは「人望」だと思う。あるいは「人から愛される才能」と言い換えてもいい。「努力を見てもらう才能」「助けてと声を上げたら助けてくれる人がいるかどうか」でもいい。そういったものがりばちゃんにはなく、ごっちにはあった。
 実際、りばちゃんは何度も「助けて」と言っていたように思える。「白木蓮吾の仕事したくないです」も「どうせつまんない映画ですよ」も「本当のごっちってどんなだった?」もお酒に逃げるのも吸えない煙草を吸おうとするのも、「助けて」と言っていたのと同じだと思う。
 直接「助けて」と言えないのは、りばちゃんのちっぽけなプライドが邪魔していたからかもしれない。確かに、その点ではりばちゃんはだめなやつだし、「俺だって努力してるわ」と呟いてしまったのはりばちゃんの失態だ。言っていいか悪いかだったら言ってはいけなかった。それでも言わずにいられない状況だったのだろう。
 
 誰だってそれなりに人生を頑張ってる
 時々はその"それなり"さえも誉めてほしい
 
 ポルノグラフィティの「幸せについて本気出して考えてみた」という曲の歌詞だ。私が人生で一番好きな曲の、一番好きな部分。この曲のここに共感してしまうから、私は映画のりばちゃんのことも愛おしいと思ってしまうのかもしれない。
 きっと、りばちゃんの"それなり"が時々でいいから誉められていたらあんなことにはならなかっただろう。
 実を結ばない努力は「ない」のと同義だと思う。でも、実を結ぼうと努力しているのなら、実を結ぶために「頑張れ」って言ってやるくらいはいいんじゃないの、とも思う。
 
 りばちゃんに全てを託して死んでしまったごっちだけが、りばちゃんのSOSに気付いていた。
 私はあのグレーになってからの場面はごっちの視点だと思っている。撮影が終わって、まだ吊られたままのロープの輪を通してりばちゃんと成瀬を見つめる。りばちゃんの斜め後ろの席から映画の試写を見ている。サリーの家を出て成瀬に会いに行った撮影所でも、柵を挟んでりばちゃんと成瀬を見つめている。私にはこれらの視点が不自然に見えた。誰かの目を通して見ているような感覚だった。その「誰か」がごっちだったのだろうと思う。
 りばちゃんをずっと見てきたごっちには、りばちゃんのSOSがわかった。でも死んでいるから手を出しようがない。だから、夢の中とでもいうような、ごっちとりばちゃんが対峙するシーンにつながる。
 世間から「白木蓮吾」を望まれ、周囲から「白木蓮吾にはなれない」と言われるりばちゃんに、「なれるわけないよ」と言うごっち。でもそれは突き放す言葉ではなく、「なれなくていいんだよ」「俺とりばちゃんは違う人間だから」という意味だ。りばちゃんを肯定する言葉だ。
 りばちゃんの「助けて」に応えてくれたのはごっちだけだった。この二人の絆を、ただの友情で済ませて良いものか。親友じゃないなんて言うけどあれだって嘘だ。きっと本当は、ただの友情とか親友とか、そんな言葉では言い表せない関係だ。「強烈な友情」「屈折した友情」は、やはりここにあると思った。
 
 愛おしきりばちゃん。
 ごっちはそれを言葉にしなかった。遺書にも書かなかった。
 最後まで白木蓮吾であるために、言葉にするわけにはいかなかった。白木蓮吾はきっと、河鳥大=河田大貴=りばちゃんと幼馴染だったことも、高校のときバンドで「ファレノプシス」を歌ったことも、かつて一緒に住んでいたことも、一緒に芸能界への一歩を踏み入れたことも、誰にも言わなかったのではないだろうか。成瀬が言うように、白木蓮吾はりばちゃんを「なんとも思っていなかった」。でも、ごっちにとっては愛おしきりばちゃんだった。ごっちが最後に言った「ごめん」は、白木蓮吾ではなくごっちから、愛おしきりばちゃんに向けた言葉だった。
 
 原作と映画は比べるものではないけれど、もし比べるとしたらそれは原作の方が好きだ。加藤さんが必死に書いたあの小説が大好きだ。まだ粗削りだけれど、最後の狂気的なシーンが美しいあの小説が大好きだ。「愛とか恋とかの類ではない」何かでつながっていたごっちとりばちゃんが大好きだ。
 でも、映画も好きだ。映画のごっちとりばちゃんも好きだ。こんなのもう二度と見たくないと言えたらきっとそっちのほうが楽だった。果たしてそこまで原作から離れる必要があったのかだとか、あのシーンは必要だったのかと未だにいろいろと考えてしまう。
 でも、この映画が原作をないがしろにして生まれたものではないと確信している。その証拠に、映画と原作を合わせて読んでその差異から見えるものがとても面白い。映画は映画として成り立っているし、原作も原作として成り立っているけれど、合わさることで更に多角的な視点を得られてどちらの理解も深まる。もっと知りたくて何度も見てしまうし、つまりはこの映画が好きだ。
 
 わかりあえるなんてないし、とごっちが言っていた。それでいい、と私は思う。