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来世はペンギンになりたい

好きなものを好きと言うために生きてる

屈折した友情の行方 ―映画「ピンクとグレー」考察未満の何か―

 ※ネタバレブログに掲載していた記事をこちらのブログに移します。ネタバレブログはまたいつかネタバレしたい記事ができたら使います。

 

(初出:1/20) 

 5回目、もう話はだいたい把握しているので、観たいところを絞ることにした。ごっちとりばちゃんの関係という一点について常に頭の中で考えながら映画を観た。
 というのも、それまで4回観た中で、ごっちがりばちゃんをどう思っていたのかがわからなかったからだ。原作では、りばちゃんとごっちは互いに執着している部分があった。だから原作は「強烈な友情」「屈折した友情」の物語だった。しかし、改変によってごっちからりばちゃんへの執着が不明確となり、りばちゃんを中心としたアイデンティティ確立の物語というかたちになっているように見えた。雑な言い方をすれば、映画ではごっちは主人公であるりばちゃんを成長させるアイテム的な役割にすぎないように思えることもあった。
 でも、監督は映画を「ごっちの側から描いた物語」だと言っていた。原作が「りばちゃんの側から描いた物語」なら、その逆だと。それを考えると、おそらく、この映画が「屈折した友情」を描いたことには変わりないのではないか。


 加藤さんが原作を書いたときには「友達の死体をきれいにする」という場面を核としていたという話は、いろいろなところで語られている。1月18日に行われた舞台挨拶で行定監督も、その場面が重要だと思った、初期のメモを見るとその場面について書いてある、と語っていた。実際に映像化する際には省かれたが、あの場面が重要であるという考えは原作者と監督で共通していた。(あの場面を映像化したら「暗い映画になるからこんなに沢山の人は観てない」(監督)「フランス映画みたいになる」(加藤さん)と語っている*1
 このシーンは、映画の中の映画「ピンクとグレー」を撮影する際に省かれたために映像としては映画の中にないだけであって、実際のごっちとりばちゃんの間にも原作と同じことが起きていたのではないかと思う。あの屈折した友情はきっと映画のごっちとりばちゃんのあいだにもあった。
 その、「屈折した友情」についての、考察未満の何か。考察というにはあまりに主観的すぎる気もするので、「何か」。

 

・ごっちはりばちゃんのことをどう思っていたか?

 きっかけとなるワードは、成瀬がりばちゃんに殴られながら言う「彼(白木蓮吾)はお前のことなんかなんとも思ってなかった」という台詞だ。果たして本当にそうだろうか、と疑問に思った。
 前半部分で、二人での演技の練習をしているときに、ごっちは「上手くいけば膨らむ役だから、ちゃんとやってよ」と言ったり、「りばちゃんみたいな人が必要なんだよ」と言ったりしている。これらの台詞のことを考えると、ごっちはりばちゃんと共に仕事をしたかったように見える。原作のごっちと同じように。
 そんな人がりばちゃんのことを「なんとも思ってなかった」わけがない、と思えて仕方がない。映画のごっちはりばちゃんに対してそんなに薄情な人ではないと思う。サリーに対しては原作よりもだいぶ薄情なように見えたが、少なくともりばちゃんに対しては違う。
 しかし、りばちゃんがごっちのことをどんどんわからなくなっていく後半の描写や、原作におけるごっちとりばちゃんの関係を示す重要なシーン(幼少期のエピソード、同窓会後のバーなど)がないこと、遺書の内容が変更されていること、最後の柳楽さん演じるごっちの台詞などから、二人の関係が少し淡泊にも見える。物語の主軸がりばちゃんにあるだけに、ごっちからりばちゃんへの気持ちが見えづらい。映画の中でもりばちゃんはごっちのことをオンリーワンだと思っていたけれど、ごっちはりばちゃんのことをオンリーワンとは思っていなかったように見えた。感想や考察をしているブログを検索して読んでみても、ごっちとりばちゃんの関係が薄く見えるのは私だけではないようだった。
 何より一番大きいのは、ごっちの死体をきれいにするシーンがないことだ。そこに時間をかけると映画自体が暗くなってしまってあのラストには辿りつけないだろうし、そういった映画が今の日本でヒットするとも思えない。*2
 りばちゃん自身が「ごっちが俺を選んだからこうなった」と言っている。なんとも思ってない奴を選ぶことはないだろう。だからやはり、成瀬の言っていた「なんとも思ってなかった」はある意味では嘘だ。でもある意味では本当だとも思う。
 きっと、白木蓮吾は、河田大貴および河鳥大のことなど少しも話題に出さなかったのだろう。成瀬が知っているのは白木蓮吾であって、鈴木真吾でもごっちでもない。白木蓮吾から見たら、りばちゃんは取るに足らない存在だったのだと思う。人気のある若手俳優と、ほぼエキストラと変わらない俳優。そこに繋がりを見出すことさえ難しいような二人。白木蓮吾は、わざわざ周囲に河鳥大の話をしなかったのだと思う。語る必要すらなかったのだろう。それなら、成瀬のように白木蓮吾の周りにいた人々が彼の死後いきなり「友人でした」と現れるりばちゃんのことを良く思わなくても頷ける。
 でも、白木蓮吾にとってりばちゃんは取るに足らない存在だったとしても、鈴木真吾やごっちと呼ばれる彼にとってはそうではなかったのだと思う。原作と同じかそれ以上に、きっとりばちゃんに対しての思いがあった。という話をする前に、りばちゃんに視点を移したい。

 

・りばちゃんはごっちのことをどう思っていたか?

 りばちゃんとごっちの関係性について、相手に向ける気持ちがより原作と違うのはりばちゃんのほうだと、私は思う。

 幼少期のエピソードがなかった(単なる省略ではなく、出会った年齢が違うのでない)ことと、学生時代のごっちとりばちゃんをごっち=りばちゃん、りばちゃん=成瀬が演じていることによって、ごっちが死ぬまでのりばちゃんとの関係は曖昧になっている。
 幼馴染だったことに間違いはないが、成瀬の演じるりばちゃんは「成瀬の演じるりばちゃん」なのでりばちゃんそのものではなく、りばちゃんの演じるごっちも「りばちゃんの演じるごっち」なので、ごっちそのものではない。
 前半のりばちゃんは、どこかごっちに遠慮しているようなところがあるし、ごっちを神様のように見ているところもある。それは成瀬が演じるりばちゃんだからなのかと思っていた。しかし、後半を見ているとそうでもないことに気づく。
 後半では、白木蓮吾という憧れの存在になりたがる(でもなりたくない)りばちゃんの姿が描かれていた。実際のりばちゃんにとっても、ごっちは憧れの存在、遠い存在だった*3
 その憧れが、白木蓮吾になってから生まれたものなのか、それとも幼少のころからのことなのかはわからない。しかし、白木蓮吾になりたがる様子が原作とは違って、「憧れているから」なりたがる、というように見えた。原作のりばちゃんも映画の撮影を通してごっちになろうとするが、ごっちのことをわかっているというりばちゃんの想いを誰も止めないので一体化に至る結末となっている。一方、映画のりばちゃんは周囲から「お前は白木蓮吾にはなれない」と散々釘を刺される。そして、ごっちのことをわからないことが浮き彫りになって、決別という結末に至る。
 大きな分かれ目は、ごっちのことをわかっている(と思っている)か否かだ。映画のりばちゃんはごっちのことがわかっていなかった。
 会員制の店でりばちゃんと成瀬がごっちについて話しているときに、二人の意見が食い違う。「この店、連れてきてもらったんですよ、白木さんに」とわざとらしいほど自慢げな表情をする成瀬と、「嘘だ」と戸惑いを見せるりばちゃん。二人が白木蓮吾という同じ人間に見ていたものの違いが浮かび上がる。
 別の考察*4でも書いたが、映画のりばちゃんはごっちのことを神様のように思っていた節があるのではないかと思う。それは成瀬にも同じことが言える。

 しかし、りばちゃんがごっちに見る神様と、成瀬が白木蓮吾に見る神様は違った。「ごっち=白木蓮吾」という呼び名が同じでも、芸能界における白木蓮吾とりばちゃんの友達だった鈴木真吾は違うものだったのだろう。だから齟齬が生まれる。
 成瀬から見れば白木蓮吾は河鳥大の話も河田大貴の話もりばちゃんの話もしない、芸能界に生きる人だった。だから「彼はお前のことなんかなんとも思ってなかった」という言葉が出てくる。


・ごっちはりばちゃんのことをどう思っていたか?その2

 ごっちはりばちゃんのことをなんとも思っていなくはなかった。なんらかの執着を持っていた。りばちゃんはごっちのことを神様のように思っている節があった。これらの点を踏まえて、最後のシーンを考えてみたい。
 いろいろな人が書いた感想ブログを見ていると、主に原作既読者・原作ファンは「分かり合えないけどそれでいい」という結論に違和感を覚える人も結構いたように見えた。私も最初は「それじゃ元も子もないじゃないか」と思った。そんな簡単な言葉で許容できる話ではなかったはずだ、と。白木蓮吾はりばちゃんの「永遠に外れる事のない足枷」*5だったんじゃなかったのか、と。
 しかし、監督が「僕がこの映画を作るうえでどっちに感情を置いていたかっていうと〈ごっち〉なんですよ。」*6と言っていたのを思い出した。映画「ピンクとグレー」はあくまで主人公はりばちゃんだけれど、原作にはないごっちの思いが描かれている。

 私は、映画のごっちはりばちゃんの神様であることを選んだのだと思う。
 全てを悟ったような、何かを超越してしまったような笑みを浮かべてソファに座っているごっち。一方、床に這いつくばるりばちゃん。神様と救いを求める者の図のようにも見える。
 りばちゃんに「なんで死んだん?辛かったん?」と尋ねられても、「いいや、全然」と笑うごっち。死は「決めてたことだから」と言い切る。姉と同じ日に死にたかったのだと。だから、「俺が死んだ理由なんてわかるわけないよ」と言う。
 ごっちがなぜ自殺したのか、映画でも原作でも明らかにされない。でも、原作を見てみるとバーでの会話でごっちの心の揺らぎが見える。映画ではそれがないから、余計になぜ死んだのかわからない。
 きっと、どうしようもなく死にたい何かがあったのだと思う。生きようという思いを凌駕する死にたさがそこにあったのだと思う。もしかしたらあの日りばちゃんに会わなければ死のうと思わなかったかもしれないし、同窓会の翌日が1月24日ではなかったら死ななかったかもしれない。
 なぜ白木蓮吾があの同窓会に行ったのか。きっと、自分の死を看取ってくれる相手を探しに行ったのだと思う。もしかして、見つからなかったら死ななかったかもしれない。無理やり誰かを選んだかもしれない。映画でも原作でも、ごっちはりばちゃんに会った。自分の死んだ後のことを任せられる相手に。
 原作のりばちゃんは自分がごっちの死を看取る役割を与えられたことを、どこか当然のように思っていたように見える。けれど、映画のりばちゃんは「あいつが俺を選んだ」と言う。映画のりばちゃんにとって、ごっちは重荷すぎた。乗り越えられるほどの関係性を築けなかった。幼少期のエピソードがないことで「自分がごっちを守らなきゃ」という思いがないし、バーでの会話がないことでごっちの心が揺れていることも知らないので、当然といえば当然ともいえる。りばちゃんの中では、ごっちはなんの前触れもなく突然死んでしまったようなものだ。
 最後に現れるごっちを、りばちゃんが作りだしたごっちというよりもごっちの意思によってりばちゃんの前に現れてごっちの意思によって喋ったり行動したりしているごっちだ、という解釈を示したい(そういう考え方もできるよ、くらいの意味合いで)。
 りばちゃんの中でごっちは神様だった。でも、りばちゃんは成瀬が言うような自分の知らないごっちの姿に戸惑う。戸惑って、どんどん駄目になっていく。
 ごっちは自分の呪縛からりばちゃんを解き放つために、死んでもなおりばちゃんの神様であろうとした。白木蓮吾として死んだ彼は、りばちゃんの前でも白木蓮吾を演じた。俺のことなんてわからなくていいよと諭した。りばちゃんの「永遠に外れる事のない足枷」になることを、ごっち自身が拒んだのだ。
 「勝手に死にやがって」と泣きながら叫ぶりばちゃんを抱きしめて、絞り出すように言った「ごめん」。あの一言だけは、白木蓮吾ではなく鈴木真吾としての言葉だったのだと思う。自分の死に巻き込んでしまったこと、白木蓮吾の呪縛でがんじがらめにしてしまったこと、それによって苦しい思いをさせてしまったこと、それまでに二人に起こったいろいろなことを含めての「ごめん」なのではないかと思った。
 それまでの余裕そうな態度とは声の感じが違う。りばちゃんのことなんてなんとも思わない白木蓮吾なら、もっとスマートなやり方でりばちゃんを抱きしめただろう。あの「ごめん」は、愛とか恋とかの類ではないけれど、強烈な友情をもって接する相手に向けた言葉だった。原作ではりばちゃんがごっちに抱く感情を、映画ではごっちがりばちゃんに抱いていた。

 原作では、りばちゃんがごっちに抱く「屈折した友情」はごっちと一体化する方向へ向かった。ごっちのことを理解してごっちになりきってごっちと共にあることが、りばちゃんがごっちに示す愛(恋愛の類ではない愛)だった。一方、映画では、ごっちがりばちゃんに抱く「屈折した友情」はりばちゃんを解き放つ方向へ向かった。りばちゃんのことを縛らず、りばちゃんと別れることが、ごっちがりばちゃんに示す愛だった。
 監督が映画をごっち視点の物語だと言ったのは、そういうことだったのではないかと思った。かたちは多少変わってはいるけれど、「屈折した友情」を描いていることには変わりないのではないか。「愛とか恋とかの類ではなくて」という、『ピンクとグレー』の重要なテーマは、本質のところでは変わってないのではないかと思う。
 
 
 監督は「小説家が何を書こうとしているかというテーマをしっかり押さえることができれば、映画ではある意味逸脱するというか、ある程度やらせて頂いてもいいんじゃないかと勝手ながら考えています。」*7と語る。その「テーマ」とは、『ピンクとグレー』においてはなんだったのか。

 原作『ピンクとグレー』を読んだ人なら、あの「愛でも恋でもない」「屈折した友情」を、映画だろうがなんだろうが、別の媒体へと翻訳するときに無視することはできないということがわかると思う。監督にもきっとわかっていたはずだ。
 でも、多くの人が見ることのできる(大衆に向けた)映画に仕立てるには、死体をきれいにするシーンを撮ることができない。そこを撮らないとなるとりばちゃんとごっちの関係性はどうしたって原作と変わってくる。りばちゃんがごっちに向けていた「屈折した友情」を描くことができなくなる。だから、映画ではごっちからりばちゃんへの思いが、それとはわからないように、りばちゃんを主人公とした物語の中で描かれているのではないかと思った。
 最初に映画を見たときに、愛でも恋でもないあの友情はどこへ行ってしまったのかと戸惑った。ごっちとりばちゃんのあいだにあるのは薄っぺらな友情ではなかった。濃すぎる友情は霧のように相手の姿を見えなくして、それゆえにすれ違いが生まれてしまうのだと思っていた。
 原作の二人の関係性が頭の中にあったから、ごっちのことをあんなにわかりたかったりばちゃんが、ごっちのことがわからないという事実を何度も繰り返しつきつけられ、ごっち本人からも「わからなくていい」と言われてしまうのが、あまりにかわいそうで泣いた。
 でも今見たら、きっとごっちがかわいそうで泣くだろう。考察にも至らない、個人的な感情と主観で。あの「ごめん」に込められたものを思って。別れを突きつける人の気持ちを思って。
 ダ・ヴィンチ2月号の加藤さんと行定監督の対談の中で、監督はこう語っている。

 この映画を作りながら思っていたのは、映画監督は、言葉を持たされていない人間が何を言わんとしてるのかってことを、書き起こす仕事なのかもしれない。

 りばちゃんの側に立って書かれた原作に対して、ごっちの側に立って作られた映画。
 勿論、それは監督による原作の解釈であって、二次創作と呼ぶべきものだ。しかし、原作と真摯に向き合って、商業的な映画として成立させながらも原作の派生としての物語としても大切に作られている。
 私が鈍いせいでなかなか気づけなかったが、映画でも原作で大事な部分だった、愛とか恋とかの類ではない関係がちゃんと描かれている。

 そんなふうに考えたら、この映画は原作の物語の根幹をちゃんと活かしながら作られたものなのだ、とより一層好きになれた。

*1:舞台挨拶を見てきたんですが、言葉はうろ覚えです。そんなようなことを言っていました

*2:そういった理由から描かれなかったのだとしても、りばちゃんが自殺したごっちの第一発見者である以上、実際にはごっちの死体をきれいにする作業が行われていたのかもしれない。映画の中の映画「ピンクとグレー」ではそこまで描くことができなかっただけで。原作を前提としている解釈にはなってしまうけれど。

*3:久保帯人さんの漫画「BLEACH」に「憧れは理解から最も遠い感情だよ」という台詞があるが、まさにその通りな気がする

*4:きっと何者にもなれなかったりばちゃんの生存戦略 ―映画「ピンクとグレー」考察― - 来世はネタバレ専用のペンギンになりたい

*5:文庫『ピンクとグレー』p13

*6:ダ・ヴィンチ2016年2月号

*7:映画『ピンクとグレー』 — 豪華クリエーターが集結! 行定 勲×加藤シゲアキ×ひうらさとる 大ヒット記念トークイベント開催!