来世はペンギンになりたい

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きっと何者にもなれなかったりばちゃんの生存戦略 ―映画「ピンクとグレー」考察―

 ※ネタバレブログに掲載していた記事をこちらのブログに移します。ネタバレブログはまたいつかネタバレしたい記事ができたら使います。

 

(初出:1/13)

 映画と原作でごっちとりばちゃんの関係性、そしてラストが大きく変わっている。
 なぜ関係性を変える必要があったのか、ラストを変える必要があったのか、個人的な考えを示したい。まずはどこがどう変わっているかを追いながら、どういう意図で改変が行われたのかを考える。

 原作の引用は『ピンクとグレー』文庫版より。映画の台詞についてはうろ覚えなところもありますがご了承ください。

 

加藤成亮の不在

 原作『ピンクとグレー』は、意図的ともいえるほど、ごっちにもりばちゃんにも加藤成亮(執筆時には加藤さんはまだ「加藤シゲアキ」ではなかったから、「加藤シゲアキ」になる前の加藤さんという意味であえて漢字表記にしている)が重ねられていた。
 原作の考察(きっと何者にもなれなかった加藤成亮の生存戦略 ―『ピンクとグレー』考察― - 来世はペンギンになりたい)をしたときにはりばちゃん=加藤さんが内側から見た加藤成亮(グループの隅にいたり、仕事がなかったりした加藤さん)、ごっち=外側から見た加藤成亮(バレーボールユニットでのデビュー、正統派アイドルとしてのNEWSの一員という面)、ごっちを演じるりばちゃん=内側と外側を融合させた加藤シゲアキである、と書いた。その認識は今も変わっていない。

 映画のごっちとりばちゃんから、原作のごっちとりばちゃんに感じた加藤さん的な要素があったかといえば、全くなかった。映画のごっちとりばちゃんからは、加藤さん的な要素が一切剥がされ、別のキャラクターとして作りかえられている。
 まず、りばちゃんの引っ越し先。原作ではっきり場所が書いてあるのは大阪→横浜で*1、これは加藤さんの引っ越し歴と一致する。加藤さんのことを知る人が読めば、この「りばちゃん」という人物には加藤さんが重ねられているのではと思ってしまう要因のひとつだ。しかし、映画では大阪→埼玉だった。大阪以前は触れられていないのでわからないが、少なくとも埼玉と横浜という違いがある。
 また、原作ではごっちもりばちゃんも中学から私立(おそらく青学)に進学し、大学へも行く。これも加藤さん自身を重ねてあるように見える。映画では地元の高校に進学しており、大学には通っていない。東京に出てきたごっちとりばちゃんにサリーが「大学行ってないの?」と尋ねるシーンに不自然さを感じたが、それは二人が大学に行っていないことを説明するためだけにあの台詞があったからだろう。
 これらの変更点から、ごっちとりばちゃんの生い立ちから加藤さん的な要素がなくなっていることがわかる。

 

・エピソードの削除と「ごっち」の不在

 原作のりばちゃんとごっちの関係性を描く上で重要となるのは、幼少期のエピソードだろう。毛虫や流星群の、原作の第二章にあるエピソードは、りばちゃんがごっちをどう見ていたかを示す重要なものだ。

 だらしない口元と少し開いた目と少し癖の入った柔らかい髪の彼を見ていると、友人という言葉だけではどこか足りない気がして、僕は一人っ子だけど、彼が自分の兄のような、それでいて弟のようなものに近い気がした。もちろんそれはあくまで感覚なのだけれど、僕はそうしっかりと体感した。
 ふと、父がよく聞いていた吉田拓郎の歌詞が頭によぎる。その<たしかなことなどなにもなく、ただひたすらに君がすき>というフレーズは、あまりにもぴたりと僕の感情と一致した。それは恋とか愛とかの類ではなくて。(p44-45)

 これらの言葉は幼少期のエピソードに登場する。りばちゃんがごっちをどう思っていたのかが示されている言葉だ。また、毛虫の話も流星群の話も、りばちゃんのほうが少しお兄さんに見えるような、ごっちは守るべき対象だとりばちゃんが思っているような関係が、描かれている。
 映画ではそれらのエピソードは描かれない。引っ越してきたのは小5=10~11歳、年齢的には第二章 9~11歳 イチゴオレの終わり頃と重なるか重ならないかくらいの時期だ。あまり覚えていないので次回以降注目してみるつもりだが、ごっちやりばちゃんの着ていた服は冬のもののように見えたから、流星群のエピソードが11月19日(p40)とあるので、もしかしたらその後に引っ越してきたことになるのかもしれない。
 幼少期のエピソードがないのは、尺の都合ではなく、映画の結末のためにはあってはならない部分だからだ。
 これらのエピソードでは、りばちゃんがごっちを「守るべき対象」として見ているように描かれている。しかし、映画のりばちゃんは、ごっちのカリスマ性に惹かれているような人物として描かれている(前半の成瀬りばちゃんは特にその性質が強いように見える)。映画のごっちは、りばちゃんにとっては神様的な存在だったのかもしれない。
 原作では、りばちゃんだけはごっちを神聖視しなかった。「同じところからスタートしたし今も同じところにいるはずなのにあいつだけ売れてしまった」「僕はあいつのことを誰より知っているはずなのにどんどん知らない人になっていく」と思っているから複雑な気持ちに陥る。でも映画のりばちゃんはそうではない。映画のりばちゃんはごっちを明らかに自分より上に置いている。終盤のりばちゃんが「なんもわからへんかったわ、お前のこと」と言うときの、ソファに座っている白木蓮吾と床で泣き崩れるりばちゃんという対比も、それを示しているように見えた。
 また、映画には、原作で重要な会話が交わされる同窓会後のバーのシーンがない。幼少期のエピソードと合わせて、このバーのシーンは原作では重要な場面だ。
 なぜ重要なのかというと、原作のあのラストには不可欠なシーンだからだ。バーで、もはや白木蓮吾でしかなくなったごっちが自分の弱さを吐露する。

「皆僕を過大評価している」
「そんなことない。俺は誰よりも知っている。そんなことは絶対にない」(p190-191)

 これらの会話を通して、白木蓮吾になる上で自分の中の「ごっち」を殺してしまった白木蓮吾はりばちゃんの中に「ごっち」を見る。自分の中にはもういない昔の自分が、りばちゃんの中にいることを知る。
 映画には、そもそも「ごっち」がいない。幼少期のエピソードが描かれず、りばちゃんはごっちを自分より上の人間として見ているから、りばちゃんの中にも「ごっち」がいない。だから、白木蓮吾が自分の中にはもういない「ごっち」を見出すバーのシーンがなくなっている。なくなっているというか、幼少期のエピソードをなくして「ごっち」を描かないのなら、あのバーでの会話はあってはならない。
 「ごっち」を描かないで表現された映画のごっちは、ごっちというよりは白木蓮吾と言ったほうがその性質を表しやすいのかもしれない。終盤で登場する、柳楽さん演じる白木蓮吾は圧倒的なカリスマ性を持っていた。達観し、全てを知っているような目。原作のごっちのイメージは、前半のりばちゃんが演じるごっちのほうが近いように思う。
 原作のごっちはもあのあの同窓会の日にりばちゃんと会ったから死ぬことを決めたようだったが、映画のごっちはりばちゃんに会わなくても死んでいただろう。ごっちの遺書には原作も映画も「りばちゃんのせいじゃない」と書いてあるが、映画に関しては言葉通りの意味として受け取れる。あの同窓会で誰に会わなくても死んだし、同窓会に行かなくても死んでいたかもしれない。

 

・わかる/わからない

 また、関連があるのかはわからないが、ラストのごっちとりばちゃんは『傘をもたない蟻たちは』収録の「にべもなく、よるべもなく」の純とケイスケに似ているように見えた。「わかる/わからない」についての話をしている部分でそう思った。(ちなみに、原作『ピンクとグレー』と「にべもなく、よるべもなく」のわかる/わからないの話は以前記事を書きました。わかりたい/わかられたい ―アイドルという鎧― - 来世はペンギンになりたい)

 原作『ピンクとグレー』のごっちもりばちゃんも、お互いについてわかっているようなそぶりを見せる。特にりばちゃんはごっちについて「わかっていたはずなのにわからなくなっていく」ことに戸惑いを見せるような様子もうかがえる。原作の二人のすれ違いは、互いがそれぞれわかったつもりでいて対話を怠ったために起こった。相手のことをわかりたいと思いながら、自分が知っている相手についてわかったつもりになっているだけで、今目の前にいる相手のことを理解しようとしなかった。
 「にべもなく、よるべもなく」では、純がケイスケに対して「僕が理解してやらなきゃ」という思いを抱いている。ケイスケが純に「わからなくてもいい。僕達のあいだに理解なんて意味がないんだ」と言ったことで、純は理解の呪縛から解き放たれる。
 映画「ピンクとグレー」のごっちとりばちゃんは、どちらかというと原作『ピンクとグレー』よりも「にべもなく、よるべもなく」に近い。映画のりばちゃんは成瀬たちと接しながら自分の知らないごっちがいたことに気づいていき、最終的にごっちから「わからなくていい」と言われてごっちの呪縛から解放される。
 原作のラストのごっちとりばちゃんの関係は、りばちゃんによる独りよがりの理解だ。相手のことを理解したというよりは、自分の中の相手のことを理解している。でもりばちゃんはそれで幸せだから、ある意味本人はハッピーエンドというような、メリーバッドエンドと呼ばれる結末だった。
 映画の結末がハッピーエンドであるかどうかはわからない。ハッピーとかそういう概念でくくれる終わり方ではないように思えた。ごっちの呪縛から逃れることがりばちゃんにとって幸せなのかどうか、それは受け取る側にゆだねられているのだろう。


・ラストの違い

 「ごっち」の不在を考えると、映画が原作とは異なるラストに辿りついていることにも説明がつく。原作のりばちゃんは自分の中にあった「ごっち」に、鈴木真吾や白木蓮吾を肉付けして、自分の中にごっちを蘇らせる=ごっちとりばちゃんが一体化する=「絶望的に素晴らしいこの世界に、僕は君と共にある」。
 私は、原作のテンションが最も高い場面、クライマックスの部分は、 

 君がみた世界に果てはなく、これこそが楽園だ。絶望的に素晴らしいこの世界の真ん中に、僕は君と共にある。(p297)

 だと思っている。『ピンクとグレー』はここに辿りつくために書かれたのではないかと思うほど、この文章は重要だと思う。
 しかし、映画ではそこに触れない。映画のごっちとりばちゃんは「共にある」ことができなかった。否定的な意味で「できない」のではなく、そこに辿りつけるように作られていない。
 映画のりばちゃんの中には「ごっち」がいないので(そもそも映画の中にいないので)、自分の中に「ごっち」を蘇らせることはできない。だから、白木蓮吾を演じても納得しきれず、白木蓮吾に関する仕事をすることにも嫌気がさしてくる。映画のりばちゃんは、ごっちの呪縛に囚われているだけだ。白木蓮吾という強すぎる光に照らされているだけで、その光はりばちゃん自身のものではない。
 原作のりばちゃんは何度も「僕はごっちのことを理解している」ということを繰り返す。でも、映画のりばちゃんは一度も言わない。むしろ「わからなかった」と言ってしまう。わからないから、わかった気にすらなれないから、映画のごっちとりばちゃんは決別する。
 原作を読んだとき、私はごっちとりばちゃんとごっちを演じるりばちゃんをそれぞれ分けて内側から見た加藤成亮、外側から見た加藤成亮、小説を書く行為を通して内と外を合わせもった加藤シゲアキであると思って読んだ。ごっちとりばちゃんが一体化しなかった以上、ごっちを演じるりばちゃんは「加藤シゲアキ」的な要素をもたない。映画の中には、「加藤成亮」も「加藤シゲアキ」もいない。
 また、原作のりばちゃんとごっちはそれぞれ加藤さんを反映した人物で、同一人物のようなものでもある。映画ではりばちゃんとごっちから「加藤成亮」の部分をなくしたために、同一人物でもなくなった。元々ひとつだったものが再びひとつに戻るような構図だった原作とは違い、元々ひとつとひとつだったので最終的に別れる道を選ぶことになったのかもしれない。

 白木蓮吾――彼について、過去彼の隣にいたというだけの僕がこれを綴るのは忍びない思いももちろんある。彼のファンには僕を非難する人もいるだろう。
 それでも僕はこれを書く。永遠に外れる事のない足枷を引きずりながらも、それでも僕は生きていかなければならないのだ。(p13)

 映画の中に出てくる、りばちゃんが書いた『ピンクとグレー』には、この部分はないのかもしれないと思った。映画のごっちは、りばちゃんの「永遠に外れる事のない足枷」ではなかった。


・りばちゃんのその後

 原作では、りばちゃんを芸能界に縛り付けているのはごっちだった。加藤さんがタイプライターズ第一回で言っていたのと似た言葉が原作の中にも出てくる。

 芸能界に突っ込んだ片足の指先が僕はなかなか抜けずにいた。その向こう側で僕の指をつまんでいるのはやはり白木蓮吾なのだろう。(p177)

 りばちゃんにとっては白木蓮吾が芸能界とりばちゃんを繋ぎ止めるものだった。だから、原作では生と死が交錯するようなラストになっているのだろう。ごっちが向こう側でりばちゃんの指をつまんでいるから、りばちゃんもまたごっちと同じ道を辿るしかない。
 映画では、りばちゃんはごっちと決別する。りばちゃんを芸能界に縛り付けていた存在に別れを告げる。私は、あのデュポンのライターを投げ捨てたりばちゃんは、いずれ芸能界を辞めてしまうと思う。サリーか別の誰かかはわからないけど、相手を見つけて幸せに穏やかに暮らす道を選ぶのだと思う。
 この点も、りばちゃんから加藤さん的な要素をなくした結果だろう。加藤さんにはきっと多分おそらく「足の小指をつまんでいるような誰か(あるいは何か)」がいる。いてほしい。だから、映画のりばちゃんは加藤さんの分身ではない。


・改変したことの意味

 そもそも、ごっちとりばちゃんが青学に通わなかったことによって、この映画の舞台が「渋谷」である意味もなくなっている。映画の舞台は、別に東京の都心であればどこでもいい。原作が渋谷だったから映画も渋谷にした、くらいの意味しかない(それも重要だと思うけど、映画の話の筋だけを考えたら渋谷である必要はない)。
 映画「ピンクとグレー」は、原作『ピンクとグレー』から徹底的に加藤さん的な部分をそぎ落としている。そのためには、ラストも変更する必要があった。
 そこまでして、加藤さん的な要素をなくす必要があったのか。あるならばそれはなぜか。
 ひとつは、物語をわかりやすくするためだ。登場人物に加藤さんを重ねすぎると、加藤さんを知らない人が物語を受け取りにくい部分が生まれるかもしれない。私は加藤さんのファンだから、原作は加藤さんを重ねずには読めなかった。
 二つ目は、映画「ピンクとグレー」を駄作にしないためだ。
 加藤さんを『ピンクとグレー』に重ねないとしよう(正直私には無理だけど、仮定の話)。あの小説が正当に小説として評価されるならどこが見所かといえば、「どうしようもない、やり場を見つけられないどろどろとした情熱や焦燥」みたいなものが溢れているところだと思う。何かしなきゃいけないのに何もできない、でも何かしなきゃいけない。加藤さんが『ピンクとグレー』を書いていたときに思っていたであろうことが、文章の端々から読みとれる。
 その情熱はあのときの加藤さんしか持ちえないもので、あのときの加藤さんしか表現することができないものだった。そういう刹那性が、あの情熱を更に熱いものにしている。似たような状況に陥った経験のある人なら共感できるものでありながら、それぞれ経験した状況が個々に違うから、普遍的ではあるが細部は異なるので汎用性はない。
 刹那的であり、汎用性がないからこそ、加藤さんが書いた『ピンクとグレー』は唯一無二だ。
 きっと、今の加藤さんにはもう『ピンクとグレー』は書けない。マイナスな意味ではなく、プラスの意味でもなく、事実として書けない。あの頃とは状況が違うから。それなのに、他人が『ピンクとグレー』を再現することなんてもっと不可能だ。できるわけがない。それこそ、映画の中でりばちゃんが作中作(前半部分)を「だいたい現実と同じ」と答えているが出来がいいとは思っていないように、原作をそのまま再現して駄作が生まれる可能性だって十分にある。というか、原作をそのまま再現したらきっと駄目な映画が生まれていただろう。だから、あえて加藤さんを重ねない人物として、りばちゃんとごっちを描いたのだと思う。
 三つ目に、加藤さんと加藤さんを愛する人へのため、と言うのもあるのかもしれない。加藤さんを重ねたままのりばちゃんとごっちを描いて、もしそれが受け入れられなかったら、それこそ加藤さんを否定することになってしまうと考える人がいてもおかしくない。
 「原作が好きだから原作と全く違う映画が受け入れられなかった」人もいるだろうし、「原作が好きなのに原作と全く違う映画を受け入れられてしまった」人もいると思う。私は後者だった。だから、最初に見たときはすごく戸惑った。原作とはかけ離れているのに、私はこの映画を面白いと思ってしまった。それは原作を、ひいては原作を書いた加藤さんを否定する行為なのではないかと思って不安になった。どうしていいかわからなくて、なんの涙だかわからないけどひたすら泣いていた。一回目は朝一番の回を見て、二回目を見るまでに5時間ほど間があったが、そのあいだは映画「ピンクとグレー」の感想は出てこなかった。感想から目をそむけるために必死で考察していた。私は特に、りばちゃんがごっちと決別してしまったことが不安で仕方なかった。ごっちはりばちゃんの「足の小指をつまんでいるような」存在だったのに。それがなくなったら芸能界を辞めてしまうかもしれない。加藤さんを重ねた、加藤さんを反映したりばちゃんが。それが怖くて仕方なかった。
 二回目を見終わって、一緒に観に行った友人(冷静な目が欲しかったので、NEWS担でもないし出演者のファンでもない友人に映画を観てもらった)と話して、やっと落ち着いた。
 それからまた考えて、あの改変は加藤さんを映画というコンテンツにしないためのものでもあるような気がした。加藤さん的な部分を全てと言っていいほど削ぎ落として新たなキャラ付けを行ったことで、映画のりばちゃんにもごっちにも加藤さんの影はない。りばちゃんもごっちも加藤さんの分身ではなく、いち登場人物以上の意味を持たないようにした。映画を受け入れられても受け入れられなくても、原作への愛・原作者への愛を疑問視したり不安に思わなくてもいいように、こういう作りにしたのかもしれない。映画のりばちゃんにもごっちにも加藤さんはいないから、加藤さんと重ねて見なくていい。そう思ったらなんだか安心した。原作と全く違うこの映画に、私はそうやって折り合いをつけた。*2


・改変しないほうがよかった点

 基本的には、映画が施した改変については好意的に受け止めている。しかし唯一「それだけは違う」と言いたいところがあった。ごっちと姉の関係だ。
 映画では、ごっちと姉は恋愛感情で結ばれていたように描写されていた。明確に描かれていたと言い切れるわけではないが、そう受け取る人が多いような描き方をされていた。そこだけは、映画「ピンクとグレー」にそぐわない点だった。
 原作での姉が「やらないなんてない」と言ったのは、自分がダンスの世界でできることを全てやりきってしまって、あとはもう華々しく散ることしかやれることがなかったからだと思う。やりたいことではなくやれることをやる、という言葉はそういう意味のように読めた。しかし、映画では姉の背景が全く説明されないため、「やらないなんてない」の言葉が活きない。
 原作のごっちの自殺の理由も、姉と同じく、芸能界で自分ができることを全てやりきってしまって、あとはもう死を物語化することくらいしかできないと考えたからだと思っていた。映画では愛する姉の後を追っただけのように見えてしまう点が非常に勿体ない。
 もし、わかりやすくしようとしてごっちと姉の関係を「恋愛」というものでくくろうとしたのなら(りばちゃんのIQを下げたためにりばちゃんにごっちの死の理由がわかるようにするにはそうするしかなかったのかもしれないが)、それは間違いだったと思う。『ピンクとグレー』は、そういった言葉でくくれないものを描いている作品で、そこが魅力のひとつになっている。
 原作では、りばちゃんがごっちに抱いていた想いは、ごっちが姉に抱いていたものとも近かったのだと思う。映画は「それは愛とか恋とかの類ではなくて」「確かなことなど何もなくただひたすらに君が好き」といった言葉を使わなかったので、りばちゃんとごっちの関係を変えた結果、ごっちと姉の関係を描くことができなかったともいえる。
 ここまでいろいろ書いておきながら自分の納得がいくように(ということは強調しておきたい)ごっちと姉の関係を解釈すると、あの恋愛的描写は表面上のものであの二人もまた神様と信者のような関係だった、というところに至る。
 りばちゃんとごっち、ごっちと姉の関係はそれぞれほぼ同じようなものだと思っている。映画ではりばちゃんはごっちを自分よりはるか上の存在として見ているように受け取れる。だったら、りばちゃんとごっちが神様とそれを信じる者といった関係で描かれているなら、ごっちと姉もそうなのではないかと思う。ごっちが姉を追って自殺したのも、愛する人の後を追ったのではなく、ごっちにとっての神様的な存在であった姉と同じ死をなぞりたかったから、と考えられる。それでも同じ景色は見られなかったというのだから、ごっちは原作以上にかわいそうな描かれ方をしているのかもしれない。


・スピンオフ「だいじなもの」

 映画を見た後に「だいじなもの」のことを考えると、話の筋は映画「ピンクとグレー」に近い形をとっているように思える。
 「だいじなもの」では映画に登場しなかった木本が主人公となっているが、「ごっちとの関わりを武器にして生きてみるものの、作中作である小説と映画『ピンクとグレー』を通して、ごっちに囚われた生き方は自分の人生ではないと気付き、自分の人生に目を向ける」という内容は、映画「ピンクとグレー」とほぼ一致するのではないかと思う。勿論、詳細な部分にまで目を向ければ別物だが、話の骨組みを抽出したらほぼ一致するのではないだろうか。
 加藤さんがどういった意図であの話を書いたのか知りようがないが、もしあの短い文章で映画を再現しようとしたんだとしたらすごいとしか言いようがない*3


・きっと何者にもなれなかったりばちゃんの生存戦略

penguinkawaii.hatenablog.com

 以前書いた、原作『ピンクとグレー』の考察記事のタイトルは「きっと何者にもなれなかった加藤成亮生存戦略」だった。まさかこれが映画にもしっくりくる表現を使っているとは思わなくて驚いた。
 「きっと何者にもなれないお前達に告げる」「生存戦略、しましょうか」というのはアニメ「輪るピングドラム」に出てくる台詞だ。詳しくはアニメをご覧になっていただきたいところだが、ここでは「何者にもなれない」=アイデンティティが確立できていないというような意味合いで取ってもらいたい。
 映画の中で、りばちゃんはごっちになりたがりながら、ごっち以外の何者かであることを求めていた。
 世間はりばちゃんにごっちを求める。雑誌の見出しには「白木蓮吾を継ぐ男」と書かれ、入ってくる仕事は白木蓮吾関連のものしかない。しかし、周りからはごっちになりたがることを否定される。三神には「白木蓮吾になりたいの?他人になるなんて無理じゃない?」と言われ、小出水には「お前と蓮吾は全然違うよ」と言われ、成瀬には「お前が白木蓮吾を演じるのは間違いだった」と言われる。また、作中作の作中作として出てくる白木蓮吾が出演するドラマ「ハピネス」では「俺は何者だ」「俺は俺だ、俺以外の何者でもない」というような台詞が使われている。主題歌「Right Now」にも、「君は誰? 彼は誰? あの娘は誰? 君は誰?」という歌詞*4がある。

 りばちゃんはごっちになろうとしていた。しかし同時にごっちにはなれないことをどこかでわかっていた。だからごっち以外の何者かであろうとするが、それが何者なのかりばちゃん自身わからない。りばちゃんはごっちにもなれないし、ごっち以外の何者にもなれない存在だった。
 世間は彼に白木蓮吾を求める。だが周囲には「お前は白木蓮吾にはなれない」と否定される。最終的にごっちからも「りばちゃんは生きていたい人、俺は違う。それだけのことだ」とごっちとりばちゃんの違いを提示される。ごっち本人の否定によって、りばちゃんは自分がごっちになれないことをようやく認める。
 ごっちは、りばちゃんに「生きていたい人」という定義を与える。その言葉が、何者でもなかったりばちゃんを「りばちゃん」にした。しかしそれはごっちとりばちゃんを分かつ言葉でもあった。
 何者にもなれなかったりばちゃんは、ごっちの与えた定義によって「りばちゃん」になり、もうごっちの影に追いすがる必要がなくなる。だからデュポンのライターを投げ捨てる。
 まさしく、この映画は「きっと何者にもなれなかったりばちゃんの生存戦略」だった。りばちゃんがごっちに別れを告げて自分のアイデンティティを確立し、生きることを選択するための物語だった。
 原作はりばちゃん=「何者にもなれなかった加藤成亮」がごっち=「外から見た加藤成亮」を内包したりばちゃん=「内と外を合わせもつ加藤シゲアキ」という存在になってこれから先を生きていく(=生存戦略)ための物語だった。
 真逆ともいえるような結末を用意しながら、ごっちを取り込むか決別するかという真逆の選択をしながら、原作『ピンクとグレー』の物語の外側にある物語を巧みに取り込んだ作りになっているともいえるのではないかと思った*5
 エピソードの取捨選択の仕方を見ても、この映画が原作を読みこんで丁寧に作られたものであることは間違いないだろう。原作『ピンクとグレー』に敬意を表して、原作『ピンクとグレー』を愛して作られた作品であることを、私は疑わない。

*1:9歳までに4回引っ越しをしたとあるからもっとあるだろうけど場所が書いてあるのは二か所

*2:この映画には、加藤成亮加藤シゲアキもいない。なのに本人がカメオ出演しているのでほんともうメタアキだな!

*3:まぁ深読みのしすぎかもしれないけど

*4:Right Now - ASIAN KUNG-FU GENERATION - 歌詞 : 歌ネット

*5:無論、この解釈に関しては、言いすぎな部分があることは自覚している