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来世はペンギンになりたい

好きなものを好きと言うために生きてる

映画「ピンクとグレー」考察 その1

 ※ネタバレブログに掲載していた記事をこちらのブログに移します。ネタバレブログはまたいつかネタバレしたい記事ができたら使います。

 

 (初出:1/11)

 映画を観ていて疑問に思った点を自分なりに考えて答えを見つける試み。

・色と視点

 前半のカラー部分は劇中劇(映画中映画?)となっている。りばちゃんは白木蓮吾を演じ、成瀬という人物がりばちゃんを演じている。
 りばちゃんが演じる白木蓮吾が首を吊った演技をした後、「カット」の声がかかる。そこから、映像はモノクロになる。ここから先は現実の世界の出来事が描かれる。
 モノクロの世界の中で、現実の白木蓮吾だけがカラーになっている。ほかの何もかもから浮いたように、グレーのスーツにピンクのネクタイをして、全てを悟っているような顔をした白木蓮吾がそこにいる。
 白木蓮吾のマンションで、りばちゃんと白木蓮吾が向かい合う。心の奥を吐露するりばちゃん。二人が抱き合ったとき、モノクロの世界がカラーになる。
 この色の変化は何を表しているのか。それは、「視点」ではないか。行定監督はこの物語をごっちの側に寄り添って描いたという。つまり、後半のモノクロで描かれる映像は白木蓮吾に見えている世界、ということになる。りばちゃんが縄を首から外した後、縄の手前から向こうを映している。このシーンは、首を吊った白木蓮吾が世界を見下ろしているようにも見える。
 となると、カラーに見えるのはその逆、りばちゃんの見ている世界だ。
 ここで注目すべきは、白木蓮吾の見ている世界(モノクロで描かれている部分)はりばちゃんも含む全てであるのに対して、りばちゃんの見ている世界(カラーで描かれている世界)は白木蓮吾のみ、という点である。白木蓮吾の死後も、りばちゃんには白木蓮吾しか見えていなかった。だから白木蓮吾のみがカラーになっている。
 二人が互いに心の内を吐露し、「勝手に一人で死にやがって!(※うろ覚え)」「ごめん」のやりとりをして抱き合ったときに、映像が全てカラーになる。ここで、白木蓮吾の視点は物語から退場する。
 なぜ映像がすべてカラーになったのか。きっと、二人が抱き合った場面で二人が決別したからだろう。分かり合うことを放棄して、二人は一人と一人であることを選択した。白木蓮吾は物語から退場し、あとはりばちゃんが生きていく世界だ。

 

・前半の陳腐さの意味

 河鳥大・成瀬凌らが出演する作中作としての「ピンクとグレー」の部分では、いささか陳腐さが目立つ。
 たとえば、りばちゃんがチョコを貰った相手(通称・ダダ星人)の描写。そこにいないはずなのに現れて逃げる二人が描かれている。二人の様子はコミカルで面白いが、(作中作ではないほうの)映画「ピンクとグレー」にはあまり合うとは思えないシーンだった。
 また、サリーが引っ越していくシーンでは、あの場面の「さよなら」という響きと走るトラックを追いかける二人という図は、あまりに古典的というかテンプレすぎて見ていると興ざめしてしまう感じがする。
 土手を自転車で走るシーンも、ごっちの部屋のシーンも、あまりにも安っぽく見える。「大人が描いた青春」というスタンスで撮られているような印象を受けた。
 そんな“いかにも作り物の映画”というふうに見える前半部分だったが、それが後半部分に活きてくる。
 「どうでした?映画」と成瀬が話しかけてきて、周りの人達は微妙な反応を示す。あれは、成瀬自身があの映画をきれいごとだと思っているからだろうし、周りの人達もそう思わない部分がないとはいえない、というような態度だった。実際のサリーもそう思ったのだろう。
 白木蓮吾を美化したきれいごとの映画のように思わせるためには、そのように撮らなければならない。そのために62分もかけてあの作中作「ピンクとグレー」がある。
 原作ではりばちゃんの書いた小説の映画化に際して

 原作の構成の変更や演出による協調、必要であれば事実に基づく新しいエピソードを加えることにもためらいはなかったが、絶対に事実に忠実であるよう僕はしつこくスタッフたちに言った。僕は僕と彼に起きたありのままを表現するべきだった。(p241)

とあるが、映画の中ではもしかしたら違ったのかもしれない。少なくとも、

 僕が掲げた条件のひとつには順撮り、なおかつ出来るだけ一連で撮影してくれというのがあった。(p252)

という条件は映画にはないようだった。白木蓮吾が首を吊っているところを撮影して白木蓮吾役の河鳥大がクランクアップしたということは、一番最初に出てきた白木蓮吾の死体を下ろすシーンはそれより前に撮られたことになるので、順番に撮られたわけではないということがわかる。
 そのため、映画の中の「ピンクとグレー」は、りばちゃんの書いた本に基づいていない可能性も大いにあるし、原作では映画撮影前にごっちの実家を訪れてビデオの映像を入手しているが映画では映画撮影後になっていた。そういった点からも、事実を再現しきれない映画、白木蓮吾を美化した映画になってしまっているということがあるのかもしれない。
 原作の中に出てくる映画と、映画の中に出てくる映画(ややこしい…)は全くの別物であると考えていいのではないだろうか。少なくとも、それぞれが果たすべき役割が異なっている。原作の中の映画はごっちとりばちゃんが一体化するためにあり、映画の中の映画はごっちとりばちゃんの乖離を示すためにある。

(追記)
 もし映画の中の映画が忠実に本を再現した内容だったとしたら、それであんなに安っぽいものになってしまったことになる。成瀬の台詞からも、りばちゃんの台詞からも、サリーの台詞からも、あの映画を心からいいものだと思っているようには読み取れない。
 原作を忠実に再現して映画化して酷くなるよりは改変したほうがいいと思いますよという、監督や脚本家からのメッセージなのかもしれない。

 

・成瀬のりばちゃんへの態度の理由

 成瀬はやたらとりばちゃんに食ってかかる。しかし、理由もなく他人にあんなふうに当たる人がいるだろうか、という疑問が生まれる。映画の中では、成瀬がりばちゃんにやけに嫌味に絡んでくる理由が説明されていない。
 これは考察というよりは推測でしかないのだが、成瀬は白木蓮吾のファンだったのではないかと思う。
 原作の白木蓮吾は女性からの人気が絶大であるという描写がなされていたが(それこそアイドルみたいな扱い)、柳楽優弥さんが演じる映画の白木蓮吾は男性人気も高そうに見えた。というのも、映画の中で出てきた大きな看板「RENGO SHIRAKI メモリアルフォトブック 存在」の写真を見て、尾崎豊を思い出したからだ。多分、尾崎豊の楽曲に「存在」というタイトルの曲があったから思い出した、という部分もあるけれど。(と思ったらパンフレットで行定監督の考えるカリスマ像がリバー・フェニックス尾崎豊だったと書かれていた。もしかしたらフォトブックのタイトルもそれを意識したのかもしれない)
 映画の白木蓮吾が男性からの支持も厚いと考えると、成瀬が白木蓮吾のファンというか白木蓮吾に憧れていても不思議ではない。ましてや同じ業界にいて、「この店、白木さんに教えてもらったんですよ」と語るくらいには親しかったのだろう。
 そんな白木蓮吾を、それまで俳優としての活躍も特になかったであろうりばちゃんが演じる。そして自分はりばちゃんを演じる。彼の中にも複雑な思いはあったに違いない。成瀬の知る白木蓮吾は、映画の中の映画で描かれていた人物とは違ったのかもしれない。白木蓮吾に憧れていたからこそ、映画の中の映画を「白木蓮吾を美化した」と言い、りばちゃんにあんなにも食ってかかって、挑発して殴らせたりしたのだろう。

 

・煙草

 この映画には喫煙シーンが多い。原作でも喫煙シーンは重要だが、原作では喫煙よりもライターのほうが重要な意味を持つ。白木蓮吾はデュポンのライター、りばちゃんはラブホのライターを使っていて、それらは香凛とサリーの対比と同様に、芸能界と一般人の世界の対比として扱われていた。
 映画では、煙草を吸う登場人物が白木蓮吾とりばちゃんだけではなくなって、煙草は芸能界の象徴として扱われているように見えた。
 成瀬、三神、白木蓮吾、りばちゃんが演じる白木蓮吾は煙草を吸える。しかし、りばちゃん本人は煙草を吸おうとしては噎せている。(実際のりばちゃんは同窓会の後に白木蓮吾と再会して、デュポンのライターで成瀬演じるりばちゃんのように煙草を吸えたのかどうかが気になるところ。もしかして、成瀬りばちゃんのようには吸えなかったんじゃないかとも思う。りばちゃんが煙草を吸えるのは、白木蓮吾という皮を被っているときだけなのかもしれない)
 煙草を吸えるか吸えないかが、芸能界で生きていける人かどうかを分けているように見えた。

 

・脚本の破綻?

 グレーのパートで、りばちゃんは自宅(おそらくサリーの家を出て自分で借りた高そうなマンション)で唯のダンスのビデオを見た後、白木蓮吾の住んでいた部屋へ行く。特に説明もなくドアの鍵が開いているし、首を吊った縄もある。
 この描写がとても不自然だった。勿論、映画の中の映画で成瀬演じるりばちゃんがやっていたのと同じ構図を再現したかったのだろうということはわかる。エレベーターで27階に上がり、廊下を歩き、マンションのドアを開け、中に入ってドアが閉まるところ、曲がり角のインテリアと、同じように撮られていた。しかし、成瀬りばちゃんは部屋の鍵を開けるがりばちゃんはドアをそのまま開ける。
 そもそも、あの部屋が実際の白木蓮吾の部屋で撮影にも使われたとして、映画はとっくに撮影が終わって公開もされていて(大ヒットと白木蓮吾の母が言っている)、鍵がかかっていないわけがないし首を吊った縄がそのまま残っているわけもない。
 あのシーンは辻褄が合わない。しっかりと練られた脚本に見えたので、そんな辻褄の合わなさがいきなり露見するのは不自然に思える。何か意味があるはずだ。
 結論から言うと、私はあのシーンはりばちゃんの夢だと思った。りばちゃんは夢の中で、白木蓮吾が死んだときの自分の状況を再現し、自分も白木蓮吾と同じように死んでしまおうとした。でも「りばちゃんは生きていたい人」だから縄は切れる。そして白木蓮吾が現れる。

 

・「ピンクとグレー」と「銀河鉄道の夜

 りばちゃんが白木蓮吾と再会するシーンが夢だと思ったのは、あのシーンが「銀河鉄道の夜」でジョバンニとカムパネルラが銀河鉄道の中で一緒にいる様子と重なって見えたからだ。銀河鉄道に乗っている場面も、ジョバンニの夢として扱われている。
 「元々仲の良かった男の子二人が疎遠になり再び心を通わせたと思ったら片方が死ぬ」という構図だけ抜き出すと、原作の時点でも「ピンクとグレー」と「銀河鉄道の夜」は似た構図を持っていると言える。*1
 また、映画化されたことでこの二作の共通点が増えた。「銀河鉄道の夜」も、原作は小説であり、アニメではあるが映画化されている。共通点というのは映画化されたという点ではない。「銀河鉄道の夜」の原作は(解釈にもよるが)私は一体化する物語だと思っていて、映画は明らかな別れを描いている。この点が、「ピンクとグレー」とよく似ている。
 というのも私が卒論で「銀河鉄道の夜」を扱ったときに「ピンクとグレー」との関連性にも触れて書いたので、もしあのときこの映画が公開されていたらもっといろんなことが書けたのにな、というどうしようもない悔しさをここに表明しておきたいだけです。白木蓮吾とりばちゃんの別れのシーンと、銀河鉄道の中で「行かないでカムパネルラ」と繰り返すジョバンニと遠く離れていくカムパネルラの姿が重なって見えてしまったというだけの話です。

*1:この構図を使った物語は他にもたくさんあると思うけど