来世はペンギンになりたい

好きなものを好きと言うために生きてる

アイドルであるということ

 それがどんなにつらくて大変なことか、アイドルでない私にはわからない。想像のしようもない。あまりに自分の考えうる範囲とはかけ離れていて、つらさや大変さを想像することに意味すらないような気がする。

 「アイドル」と一括りに言っても、その中には色々なスタンスの人がいる。男性・女性や事務所の違いでも差があるだろう。
 私が今までにコンサートに行くほど深入りしたアイドルでアイドルを辞めた(卒業した)のはアンジュルム*1の福田さんしかいない。卒業公演というものにも初めて行った。福田さんは友達が推しているので情報も沢山得ていたし、正直アンジュルムは全員好きではあるけれど、それにしてもびっくりするほど泣いた。今まで見てきた福田さんの姿を思い出しながら、福田さんがアイドルでいるのは今日限りなのだと思うとたまらなくしんどかった。歌って踊って、可愛くて強くて恰好いい、アイドルの福田花音が大好きだったから。アイドルではない福田さんも変わらず好きだけれど、私がアイドルの福田花音に向けていた気持ちは行き場を失う。

 卒業に際して、福田さん自身が作詞した「わたし」というソロ曲では、「明日から肩書きが変わる私」が描かれていた。

たとえわたしに何の肩書きも
才能さえないとしても、
わたしのこと見つけ出して、
好きになると言えるかな?

まっさらなわたしだとしても、
好きになると言って欲しい。
明日からは肩書きが
ちょっと変わってしまうわたしだからね。

わたし - 福田花音(アンジュルム) - 歌詞 : 歌ネット

 福田さんは卒業公演が終わったらアイドルではなくなる。アンジュルムの、アイドルの福田花音ではなくなる。その瞬間を私は見届けてしまった。

 私はきっと、アイドルではない福田さんを見つけ出すことができないだろう。彼女がアイドルだったから、私は彼女を見つけることができたのだ。アイドルではなくなった彼女も勿論大好きだけれど、最初からアイドルではなかったら、多分出会うことすらできなかった。だから、「明日からは肩書きがちょっと変わってしまう」ことが悲しくて寂しくて仕方がなかった。

 福田さんはきっとファンに「まっさらなわたし」を見せることはなかった。きっとこれからもそうだと思う。というより、社会の中で何かしらの役割を持って誰かと関わって生きていくにはそうするしかないのだと思う。誰もが「まっさらなわたし」にいろんな色を塗って社会の中に溶け込んでいる。学校にいたら「○○高校の○年○組出席番号○番のわたし」だし、会社にいたら「××株式会社××部××課××係のわたし」だ。「まっさらなわたし」に色を塗って、その学校なり会社なりといった環境に溶け込む。
 アイドルはその「まっさらなわたし」といろんな色を塗った「わたし」の乖離が大きいのかもしれない。「まっさらなわたし」には言いたいことがあってもアイドルという色を塗った「わたし」では言えなかったりもするだろう。やりたいことも思うようにできないということもあるだろう。アイドルであるというだけで執拗に追い回されたり、いわれのない中傷をうけたりもするだろう。あくまですべて想像の範囲内でしかないけれど、もっとひどくてつらいことだってあると思う。
 たくさんのものを天秤にかけて、それでもアイドルであることのほうを選んでいる。アイドルであることよりも他のものを選びたい人もいる。それを選ぶ人もいる。どんなアイドルも、アイドルであることは絶対ではない。それを、昨年末から思い知らされ続けている。

 2016年5月30日、初めて「推しの卒業」を経験することになる。アンジュルムの田村さんだ。まだ全然実感がない。でも確実にその日は来る。
 昨年、CDのリリースイベントで握手をしたとき、田村さんを好きな気持ちが溢れすぎて必死に「めいめい大好き!」と叫んだ私に「ありがとう!」と笑顔を向けてぎゅっと手を握ってくれた。あの日のことが忘れられない。嬉しくて帰り道ちょっと泣いた。あんなに嬉しい気持ちをくれるあの子がアイドルではなくなることが、まだ信じられない。アイドルではなくても、ミュージカル女優を目指すそうなのできっと芸能活動は続けるのだろうと思うけれど、それでもアイドルのめいめいはもういなくなってしまうのだと思うと、たまらなく寂しい。残された時間、アイドルのめいめいを精一杯好きでいたいと思う。
 
 
 
 先日(2/9)のKちゃんNEWSを聴いていて、加藤さんと小山さんのアイドルとしてのスタンスの違いを強く感じた。読んだ本の題名をさらっと言ってしまう加藤さんと、ぼかそうとする小山さん。
 前に別の記事(わかりたい/わかられたい ―アイドルという鎧― - 来世はペンギンになりたい)で延々と語った、アイドルという「鎧」の話をしたい。

 「まっさらなわたし」にたくさん色を塗って作ったアイドルの「わたし」を、以前「アイドルという鎧」という言葉で表現した。鎧はその人の言動を制限するものでもあるから(さっき書いていた「やりたいことも思うようにできないということもあるだろう。アイドルであるというだけで執拗に追い回されたり、いわれのない中傷をうけたりもするだろう」ということ)重苦しくて邪魔なこともあるけれど、一方でアイドル本人を守るものでもある。
 あくまで個人的な意見だが、理解の齟齬は、その齟齬が大きい分だけ、理解される対象にダメージを与えるものだと思っている。
 単純化されデフォルメされた(いわゆる「キャラ付け」的な)鎧なら、誰の目から見てもわかりやすい。最大公約数的ともいえる。わかりやすければそれだけ齟齬は生まれにくい。つまり、ダメージを受けにくい。本人と鎧がどれだけ乖離していても「だってあれは鎧だからね」と言ってしまえる部分も、鎧にはある(本人と鎧の乖離があるからこそつらくなる人もいるだろうから、諸刃の剣といった感じはするけれど)。作り上げる鎧を間違えてしまって鎧が内側から本人を傷つけてしまうこともあるのかもしれないけど。でも、生身では戦えない芸能界という場所で、アイドルという役割を背負って戦うために「鎧」は必要なものだ。


 加藤さんはおそらく、ある程度は生身に近い自分を見せることに抵抗がない。というか、生身に近い「鎧」を作り上げている。ファンが思う「加藤シゲアキ」と加藤さんが見せようと思う「加藤シゲアキ」の乖離をなるべく少なくしようとしている気がする。だから誤解があれば言葉を尽くして説明する。
 SORASHIGE BOOKやシゲアキのクラウドで、加藤さんは自分の脳内をファンに見せてくれる(それゆえに脳みそ露出狂なんて呼ばれたりする)。加藤さんの作る「鎧」はとても人間に近くて、あまり単純化もデフォルメもされておらず、めんどくさくて複雑だ。だから、加藤さんが見せたいと思う「鎧」とファンが見る「鎧」に齟齬が生まれないように、加藤さんは常に自分についてのことを語る。加藤さんは極力ファンと対話をしようとしているように見える。本当は対話なんてできないのに、それに近いかたちを取ろうとする。シゲアキのクラウドの即時性やSNSっぽさの取り入れ方からも、そんな面を感じる。
 一方、小山さんは自分のことはなかなか教えてくれない。この前のラジオでも、加藤さんが先にタイトルを出さなければ「今はサスペンスを読んでる」という情報で止まっていたと思う。
 小山さんはプライベートを語らないことが上手い。自然とはぐらかす。はぐらかすというかもうなんか自然なのだ。小山さんの「鎧」はカスタムタイプで、対峙する相手によって微妙に変わる。対ファン用の「鎧」では、あまり固有名詞を使わずに物事を語る(加藤さんと比較するとよくわかる)。また、自分のことというより自分と関わる近しい人(たとえばメンバー)のことを交えて語ることが多い(メンバー愛を見ているとそんな感じがする)。
 小山さんはきっと、「鎧」と本人に差が必要な人なのだと思う。どんな本を読むのか、どんな音楽を聴くのか、どんな映画を見るのか。それらの情報は誰かと対話をする上では、対話を広げるきっかけになる。
 小山さんが固有名詞を出さないのは、ファンとは対話ができないとわかっているからではないかな、と思う。読んだ本や聴いた音楽や見た映画はその人をかたちづくる。しかし、真にその人を表すのは本や音楽や映画を受けて何を思ったか何を感じたか、という部分だ。それは対話しなければなかなか伝わらない。文面や、一方的な喋りだけでは限界がある。キャスターとして報道をする小山さんだからこそ、その限界をわかっているのかもしれない*2

 15年以上シンメとして同じグループのメンバーとして「親友」として共にありながら、このスタンスの違いが伝わってくるのがなんだかとても感慨深い。どちらがいいとかそういう話ではなく、どちらもいい。「鎧」に正解も不正解もないのだから、自分に合うかたちの「鎧」を纏っていてほしい。

 

 ということをだらだらと述べているが、こうして長々と書いていることも140字以内で呟くことも誰かと直接喋ることも「理解しようとする」「理解したと思ったものを拡散する」ということであり、そこには少なからず齟齬が存在する。自分にとって都合のいいところだけ切り取り、自分の中での文脈に合うまで噛み砕き、無理やり当てはめ、当初のものからは随分変容したそれを、私は「加藤さん」と呼んだりしている。
 自分のことならまだしも、他人のことを100%理解することなどできやしない。それでも、多くの人間関係は一対一で行われるから相手も自分のことを「理解しようとする」という行為をしているからお互いに理解の齟齬が生まれるだろうしおあいこかな、と思う。
 しかし、アイドルとファンは一対一にはならない。アイドルはファンを理解する必要は、正直ないと思う。ファンはアイドルに対して、一方的な理解を通して見ることしかできない。アイドルのファンであるということは、そういうことではないだろうか。
 私は理解したいタイプの人間だ。できることなら、自分の中だけの解釈で終わらせることなく、その人の見せてくれる「鎧」を理解したい。無理だとわかっているけれど、なるべく100%に近付けたい。そのために言葉を重ねて語って自分の中に落とし込んで、しかしその「自分の中に落とし込む」という作業が既に齟齬を生む原因で、しかし何も考えないのは嫌で、でも何をしたってただの「理解したふり」にしかならなくて、というところでいつも悩む。

 言葉を選ばずに言うと、悪趣味だと思う。アイドルという、その人そのものが消費される商品と化してしまう人たちを、こうやって言葉にして勝手にわかった気になったりして、勝手なかたちで愛するということは、他の人の愛し方はどうあれ、自分のしている行為に限っては悪趣味だなぁと時々思う。なのに、それしかできない。
 与えられた情報から自分に都合のよいその人像を作りだして愛す。なるべく理解の齟齬がないように、与えられる「鎧」を読み解こうとするけれど、それでもどうしたって100%の理解は成しえない。それでも「理解しようとする」という行為は意味があるだろうか、と時々考える。たまにそれが嫌になって、何もかも投げ捨ててやめてしまいたくなる。
 でも、やめられない。「一緒に夢を見よう」と言ってくれる限り、一緒に夢を見ていたい。夢の外には現実があるとわかっていて、私はアイドルと一緒に夢を見ていたい。アイドルがステージの上で笑ってくれるのなら、たぶんその笑顔は理解とかそんなものはもうどうでもいいところにあるもので、ただその笑顔を見ていられるという事実だけで、それ以上の幸せなんてないのだ。小難しいことはすべて忘れてしまって、「あなたが好き」以外が消え去ってしまう。私にとってはそれが、アイドルのファンをやっていて一番幸せな瞬間だ。その「あなたが好き」は、きっと恋とか愛とかの類ではない。名づけようのないものだ。そんな、「あなたが好き」と思える幸せを、アイドルは私にくれる。
 
 
 アイドルが今この瞬間アイドルであることに、感謝しているし、尊敬もしている。
 アイドルだった人たちが、かつてアイドルであったことにも、同じように感謝と尊敬を捧ぐ。
 
 
 アイドルであるということ。
 それがどんなにつらくて大変なことか、アイドルでない私にはわからない。
 それがどんなに楽しくて幸せなことかも、アイドルでない私にはわからない。
 アイドルであること、アイドルであったことが、どうか少しでもその人の人生において大事な宝物であることを、ただ願う。

 

 

 

 

 とかかっこつけたけど全然かっこついてないし好きな人に「あなたが好き」を伝えたくて仕方なくて今泣きそうだからアンジュルム田村さんとNEWS加藤さんにそれぞれファンレターを出そうと決心したのであった

 

*1:ハロプロのアイドル。私はハロオタというほどではないが、アンジュルムオタではある

*2:増田さんもあまり固有名詞を出さないが、増田さんは自分でプロデュースした「鎧」に固有名詞が必要ないから、ということなのかなと思う。