来世はペンギンになりたい

好きなものを好きと言うために生きてる

『Burn.-バーン-』が読み返せない

 あけましておめでとうございます。

 今年もゆるゆると思ったことを書き連ねていくつもりですので、よろしくお願いいたします。
 
 先日のタイプライターズの放送、同日のSORASHIGE BOOKと、ここ最近は加藤さんから小説のテクニックの話を聞くことができた。映画「ピンクとグレー」の公開とドラマ「傘をもたない蟻たちは」の放送開始も間近に迫っている。また、Twitterのタイムラインでも作者と作品の関係性について話題になっていたこともあって、加藤さんの著作について考えることが多くなった。
 
 このブログでは『ピンクとグレー』『閃光スクランブル』については考察記事を書いた。次書くとしたら『Burn.-バーン-』だなと思いながら、まだ手が出せていない。
 私は未だに『Burn.-バーン-』が読み返せない。発売してから二カ月ほどして一度読み、そのままだ。
 理由はわかっている。『Burn.-バーン-』は、確かに加藤シゲアキが書いた小説でありながら、そこに加藤シゲアキを見出すことができない作品だからだ。『ピンクとグレー』『閃光スクランブル』では、この言葉に加藤さんの考えが表れているとか、この人物のこの描写が加藤さん自身を踏まえて書かれているとか、そういった読み方が容易だったし、そうしなくては読めない部分もあった(いっそ加藤さんのことを何も知らなければ読めるのかもしれない)。
 しかし、『Burn.-バーン-』を読んだときに、そこにいたのは加藤さんの分身ではないキャラクターだった。加藤さんの好きなものや加藤さんの経験といったものが随所にちりばめられているし、確かに加藤さんの書いた文章であることは間違いないのだが、そこに加藤さんの分身はもういない。小説の登場人物として、レイジがいて徳さんがいてローズがいる。
 決して面白くないわけではない。むしろ、面白いから読み返せない。加藤さんが書いた4冊の中で、もっとも小説としての楽しさが詰まっているのは『Burn.-バーン-』だと思う。装丁も美しく、是非とも加藤シゲアキというアイドルを知らない人にも手にとって欲しい。でも、私自身はまだ読み返せない。
 『ピンクとグレー』『閃光スクランブル』では、読みながら登場人物の中に加藤さんを探していた。なんの疑いもなく、そこに加藤さんがいると信じて読んでいた。実際、加藤さんに相当するような人物が見つかった。それはごっちでありりばちゃんであり、巧であり亜希子だった。でも『Burn.-バーン-』の登場人物の中には加藤さんはいなかった。だからといって、登場人物たちは薄っぺらいわけではない。小説家が作ったキャラクターとして、物語の中で生きている。

 
 一年以上前に一度読んだきりで読み返せていないので適当なことを言ってしまっているかもしれないが、これだけは間違いないと言えるのは『Burn.-バーン-』は加藤さんの書いた作品の中でもっとも小説している小説だということだ。
 『閃光スクランブル』までは、小説を小説たらしめる技法がわかりやすく見えていた。例を挙げると、巧に聴こえるMORSEの曲の歌詞がわざとらしいほどバカっぽく書かれているのに対し、亜希子が聴く同じ曲の同じフレーズはいたって真面目に書かれていたりして、両者の受け取り方の違いが描かれたりしていた。
 しかし『Burn.-バーン-』では技法がそれとはわからないように使われている。間違いなくこれは小説家が書いた小説だと思った。特に、最初と最後に同じ文章を持ってくるという点。わざとらしくなく、自然なかたちで使われている。技法を自然に取り入れるというのは高度なことだ。だからこそ私は『Burn.-バーン-』は、加藤さんの作品の中で最も小説している小説だと思った。
 
 そのとき私は、まるで知らない人が書いた小説のようで怖くなったのだと思う。沢山インタビューを読みふけって、加藤さんについて少しでもわかった部分がある気でいた。でも、私がわかったと思っていたはずの人はそこにはいなくて、自分が部外者であることを痛感させられたように思えてしまった。
 今思えば、その感想は正しい。部外者というと表現がきつくなるが間違っているわけではない。以前「だいじなもの」の感想*1で述べたように、「外部」であるということだ。

 「加藤シゲアキ」というアイドルを、私は外部から消費するファンでしかないのに、ファンという存在は対象を好きになればなるほど対象と同じ側に立っているように錯覚してしまう。実際のところ、ファンは永遠に外部でしかない。おそらく、『Burn.-バーン-』を初めて読んだときの私は、外部であることを突きつけられたのだと思う。初めて読んだときは、そのショックに耐えきれなかった。
 アイドルとしての加藤さんを知っているファンだからこそ、加藤さんの書いた小説をアイドルが書いた小説という色眼鏡で見ざるをえない。「アイドルが書いたんでしょ?」という舐めた見方だけが色眼鏡ではないのだとそのとき気付かされた。アイドルが書いたという先入観は、加藤さんのファンだからという理由で常につきまとう。私は加藤さんの書いた小説を、アイドル・加藤シゲアキを抜きにして読むことはできない。そのことにもショックを受けたのだと思う。
 
 その割に『傘をもたない蟻たちは』は購入した当日に読み終えた。
 短編集であり、「にべもなく、よるべもなく」以外は一度別の場所で既に読むことができる状態だったが、単行本発売前に手元にあったのは「染色」、「アンドレス」第一話、「恋愛小説」、「イガヌの雨」。『Burn.-バーン-』以降、加藤さんの著作を読むのが怖かったので、あまり積極的に情報を得ないようにしていた(その割に「インターセプト」と「アンドレス」の続き以外揃ってた)。実際、「アンドレス」のほうはやっぱり知らない人が書いたように思えてしまって読むのをやめた。「イガヌの雨」も、途中で挫折してしまった。
 だから『傘をもたない蟻たちは』を買ったはいいけれど、傘を持って立ち尽くす表紙の青年の如く、本の前に立ち尽くすしかなかった。しかし、意を決して開いてみると、最初に収録されているのが「染色」だった。
 「染色」は掲載されている雑誌を買ったときもすんなり読むことができた。なぜかと問われたら理由は「私の超好みの小説だったから」と答えるしかない。
 フィクションに出てくる、どうしようもない人が好きだ。「染色」の主人公、市村はどうしようもない。美優の才能に自分まで染まってしまって、でもそれが本来の自分ではないことはわかっていて、いつかグラフィティアートが消されるように美優に染められたかりそめの才能が消えることをわかっている。でも、美優といた日々や美優から受けた影響がまるごと消えるわけではない。この人間くささが、どうしようもなくて好きだ。
 「染色」を読み終わって、「これ加藤さん好きそう!」と思った。作者の名前が加藤シゲアキと書いてあるにもかかわらず。私はアイドル・加藤シゲアキを抜きに加藤さんの著作を読むことができないと恐れていたけれど、「染色」を読んだときには加藤さんの影を追わずに読めた。というか加藤さんが書いたことすら頭から抜け落ちるほど、作品として「染色」が好きだった。書いた人が誰かなんてどうでもよかった。
 「アンドレス」の場合は、第一話が掲載されている雑誌に加藤さんのインタビューも合わせて載っていたから、加藤さんが書いたことを意識せざるをえなかった。そのため、「これは加藤さんが書いた」という先入観があったのだと思う。加藤さんが書いたはずなのに知らない人が書いたようで、続きが読めなかった。「イガヌの雨」も同じだ。短編と同じ雑誌にインタビューが掲載されていた。「恋愛小説(仮)」が掲載されていたダ・ヴィンチには加藤さんのインタビューはなく、作品だけが掲載されていた。「染色」も作品のみの掲載だった。
 今まさに現在進行形でこの事実に気付いたのだが、私がすんなり読めたのはそこに加藤シゲアキを示すものが「加藤シゲアキ」という作者名の表記くらいしかない作品で、私が読めなかったのは「加藤シゲアキ」が書いたことをしっかりと示すインタビューが掲載されている作品だった。うそだろ!こわい!わかりやすすぎる!インタビューなかったら読めるのかよ!
 多分、インタビューを読むと、加藤さんに対するイメージが小説家<アイドルになってしまうのだと思う。加藤さんの写真が掲載されていたら余計にそうだし、文章だけであってもアイドルが強くなってしまう。おそらく、アイドルである加藤さんのインタビューを読む機会の方が圧倒的に多いから、その気持ちで読んでしまうのだろう。
 『Burn.-バーン-』のときも、どんな話か気になってあれこれ調べていたから、加藤さんが書いたということを意識せざるを得なかったのではないかと思う。それでいて、小説の中に加藤さんを見出すことができなかったし自分が外部であることを突きつけられてしまったから、読み返せなくなってしまっているのかもしれない。
 『傘をもたない蟻たちは』を手にして、最初の話が「染色」で、加藤さんが書いたことを意識せずに読めた上に好きな作品だったから、少し逸る気分を抑えるくらいの勢いで読み始めた。再び読んでみて、やはり好きな話だった。二番目に収録されていたのは題名を英語に変えた「Undress」だった。少し身構えたがそのままページをめくった。面白さもありながら「その女絶対怪しいぞ!」と主人公に伝えたいけど伝えられないもどかしさもあるような、読書のドキドキ感を味わえた。それから残りの4作も読み進めた。「にべもなく、よるべもなく」の「理解」についての考え方にはどこか加藤さんの片鱗を見出したが、かつての作品ほど加藤さんの影を感じることはなかった。登場人物の中に作者の思っていることが表れたのかもしれないな、と思う程度だった。アイドル・加藤シゲアキの顔はちらつかなかった。
 と思ったら『傘をもたない蟻たちは』の帯には加藤さんの写真がない。『ピンクとグレー』『閃光スクランブル』『Burn.-バーン-』の帯には加藤さんの写真がある。本を開いたら著者近影はあるけれど(逆に渋谷サーガの単行本にはない)、それは小説家・加藤シゲアキの顔だと受け入れることができる。むしろ、本を開いたところにある著者近影を見て「小説家らしくなった!」と思った記憶がある。いや……まじかよわかりやすすぎるだろ……そりゃあ加藤さんの顔がちらつかないわけだ……。だって本屋で見かけたときにまず加藤さんの顔を見るわけじゃないんだもんな……。
 『傘をもたない蟻たちは』がすんなり読めたのには、きっと帯に写真が掲載されていないというところも私の中では大きかったのだと思う。インタビューが掲載されていなかった短編と同様に、加藤さんが書いたことを意識せずに読むことができた。
 
 『傘をもたない蟻たちは』を読み終えて、加藤さんの著作に対して抱いていた不安や恐怖は消えた。これからもこの小説家の作品を読んでいきたいと素直に思えた。
 小説家・加藤シゲアキとアイドル・加藤シゲアキが分離したというわけではないが、同じ「加藤成亮」という元素から成る同素体のような感じで、私の中で同じだけど違うし違うけど同じ存在として理解された。化学はあんまりわからないからたとえが妥当かどうかはわからないけれど。
 
 自分が外部であるということ。アイドル・加藤シゲアキを意識して小説を読まざるをえなかったこと。『Burn.-バーン-』を読み返せない理由は思ったよりもわかりやすかった。思考を整理するために文章化することは大切なのだと思い知らされた気分だ。新年早々、『Burn.-バーン-』初読以来ずっと謎に思っていたことが解けてよかった。
 読み返せなかった理由が明らかになった今、もう一度ページをめくってみる時が来たのかもしれない。ていうか今すぐ読みたい!