外部と内部 ―「だいじなもの」感想―

 野性時代146号掲載の、『ピンクとグレー』スピンオフ作品「だいじなもの」についての感想です。未読の方もいらっしゃると思うので記事は畳んでおきます。

 勢いで書いているので後で消すかもしれません。

 

 


 

 『ピンクとグレー』の内部でありながら外部でもある物語だった。
 
 主人公はごっちやりばちゃん、サリーと幼馴染だった木本。ごっちとりばちゃんの幼少期にしか出てこなかった彼が主役となっている。しかし、彼は彼自身の人生の主役ではなかった。
 彼は自分を「白木蓮吾」「河鳥大」の脇役として位置付けていた。しかし、「白木蓮吾」の死、「河鳥大」による『ピンクとグレー』の執筆・出版、そして『ピンクとグレー』の映画化を通して、自分が脇役として出演していたはずの物語は自分の物語ではなかったことに気付く。そして、自分が主役である自分の物語に目を向ける。
 
 作中に、河鳥大が書いた本のタイトルが『ピンクとグレー』であると明記されている。加藤シゲアキが書いた『ピンクとグレー』の中にはその描写は出てこなかったように思う(頭から終わりまで覚えているわけではないので出てきてないとは言い切れないけど出てこなかったと思う)。つまり、この物語は『ピンクとグレー』の外部であり、しかし同時に加藤シゲアキが書いた『ピンクとグレー』の世界の内部でもあった。外部と内部の、丁度あいだぐらい。
 
 この「外部と内部」は原作『ピンクとグレー』のファン・加藤さんのファンと映画「ピンクとグレー」の関係にも似ているように感じられた。原作を大事に思えば思うほど、原作を大事に思っている=内部、の人間のように錯覚する。「“私の”大好きな『ピンクとグレー』」というように。
 でも本当はそんなことはない。どれだけ愛してもどれだけ大事に思っても外部なのだ。映画を作っている側から見てもそうだし、そもそも原作『ピンクとグレー』に関しても、内部だと勝手に思い込んでいるだけだった。
 それを再認識させられるような短編だった。私が内部だと思って立っている“ここ”は全然外部だった。よく見たらちゃんと線が引いてあった。どう頑張っても「そっち側」にはいけない線。
 映画に関して言えば、加藤さんは木本と同じく内部と外部のあいだくらいの位置にいるのだろう。原作者とはいえ、映画に深く関わっているわけではない。それは『ピンクとグレー』に限らず他の原作付き映画も、概ねそうだろう。
 加藤さんが「だいじなもの」で外部に寄った話を書いてくれて、なんとなく気持ちが落ち着いた感じがした。これだから加藤さんのファンやめられないなとも思った。
 好きな小説が映画になった際に「これはない」と思う映画になっていたという話は以前したが*1、それも所詮私は外部だったんだよなと今更になって思う。だからといって納得がいくかと言ったら別だが、考えが浅かったとは思う。いやそれで納得がいくかっていったらまぁいかないんだけど!(以下永遠にループ)

 
 「外部と内部」の話はファンとその対象という意味では本や映画だけではなく、アイドルとの関係にも当てはまるように思えた。
 どれだけお金と時間を使っても、株主でもあるまいし発言に強制力はない。コンサートに行ってもCDを買っても人生を捧げても、それは結局は自分が好きで勝手にやっているだけにすぎない。「“あなたのために”と思う自分」のためにやっていることだ。
 どれだけ何をしても内部にはなれない。大事なことはいつだって決まってから知る。報告はしても相談はしない。ファンは結局のところ、外部でしかないから。
 でもそれは別に特別なことではなくて、人と人が相対するときも同じだ。私の内部には私しかいないし、私以外の人間はすべて私の外部だ。誰かの内部にはなり得ない。そろそろ外部と内部について考えすぎて何が言いたいのかわからなくなってきた……。言いたいことがまとまらないままに書いているので何もまとまっていない……

 「だいじなもの」の木本のように、自分自身の物語をちゃんと見つめて、外部である自分を認識したうえで身の振り方を決めようと思った。私は外部でしかないのだから、精一杯「“あなたのために”と思う自分」のために行動していきたい。