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やめられないから楽しい地獄 ―映画「バクマン。」感想―

 11/1放送のSORASHIGE BOOKでメールが読まれました。加藤さんが映画「バクマン。」を見てどう思ったのか是非聞かせて欲しいなと思って、とりあえず送るだけ送ってみるか!と送ったのですが、まさか読まれるとは思わず(送ったことも忘れていた)、心臓吐くかと思いました。

 話を振った以上、私も映画「バクマン。」について語らねばなるまいという謎の使命感に駆られたので、今回は映画「バクマン。」の話です。まだ上映している作品ですので、ネタバレ部分は畳みます。


 
 端的に言って、私はあの映画を冷静には見られませんでした。
 「ものをうみだす」ことの楽しさと残酷さが描かれていたからです。
 小さい頃から続けている趣味である小説の真似事は勿論のこと、フィクションを書くということでなくこうして何かしらの文章を書いていることも、「ものをうみだす」の一端であると思っています。別に書く必要はないし書かなくても生きていけるけれど、書かないではいられない。
 キーボードを叩く指先から、文字が言葉が文章が生まれていく。それが楽しくて仕方ない。頭の中にしかなかったものが、読めるものとなって目の前に現れるのが楽しい。
 書くことは、ものをうみだすことです。ここに綴られた文章は無意味で無作為な文字の羅列ではなく、意味と意図をもって誰かに届けよと書かれた文章です。
 文章が誰かに届いて、その誰かが何かを思ったとしたら、大袈裟ではありますがそれは「心を動かした」ということになります。何も感動させたりしなくても、面白いと思ったり、面白いとさえ思わなくても、何かひとつでも引っかかるものがあれば、それは「心を動かした」ことになると私は思っています。
 私は日々、誰かがうみだした何かに心を動かされ続けて生きています。それと同じことを私もやりたい。誰かの心を動かしたい。私が心を動かされた経験から何かを書いたとして、それでまた誰かの心が動かされるなら、最高だなと思います。
 しかし私はそれを趣味の範囲にとどめることを選択しました。「ものをうみだす」ことで生計を立てるのはほんの一握りの人間だけで、自分がその一握りになれるとは思わなかったからです。
 映画「バクマン。」では、その一握りにどうにかしてなろうともがいている人や、一握りにひっかかることはできたからこの先も握られていられるように努力している人たちの姿が描かれていました。そんなの、冷静にならずにいられないじゃないですか。私が諦めたものを、真面目にやっている人たちがそこにいるんだから。
 一握りになることを諦めはしましたが、趣味の範囲にとどめながらも遊びではなく本気でやっているつもりです。時間があるからちょっと書こうということではなく、書くために時間を作るし、どういった言葉を選べばいいのか考える。本気の定義は人それぞれかと思いますが、少なくとも自分がうみだすものに対して真摯であろうという努力はしています。
 就職を機に、書くことをやめようと思ったこともありました。何にもならない趣味を続けていても仕方がないからと思ったし、就職による変化についていけなくて趣味が全く楽しくなくなったということもありました。
 実際、半年ほどやめることはできました。しかし、人生が急速につまらなくなりました。物心ついた頃からおはなしをつくって母に語っていたし、文字を覚えたらそのおはなしを書き留めていたし、作文は得意分野だったし、大学時代のレポートも好きだったし、私の人生は書くこととともにあった。書くことの楽しみは私の人生の楽しみの大部分を占めていたのだと気付きました。そうなったらもう、やめることなんてできなくなってしまう。こんなもの地獄じゃないかと思いました。やめてもやめなくてもつらい。でも、どうせつらいなら少しでも楽しいほうが良い。少しどころじゃない、とんでもなく楽しい。だったら書くしかない。書くことによる楽しさは書くことによるつらさを打ち消しはしないけれど、何物にも代えがたいものなのです。
 これが「ものをうみだす」ことの残酷さです。気力も体力も時間も削られる、金にもならない。せっかく掴んだ夢だって、持続させるのは更に難しい。それでも楽しいからやめられない。それを極限レベルで見せつけられた気がして、映画「バクマン。」を見て手の震えが止まらなかったのです。
 
 というわけで全く冷静には見られなかったのですが、加藤さんはきちんと作品としてご自身の中で飲みこんでいる感じがして、その話を聞いていたら私も少しは冷静に見られそうな気がしてきました。正直、映像のすごさとか頭から吹っ飛んでた。すごいなとは思ったけれど、それ以上に衝撃を覚えることがありすぎてそっちの記憶の方が強い。
 おそらく、あんなにセンチメンタルに感じ入ってしまったのは、物語の力も役者の素晴らしい演技も勿論のこと、映像の力も大きかったのだろうなと思います。「夢に向かう」「高みを目指す」という「ある種スポ根もの」の熱さを、スタイリッシュで恰好いい映像で表現するという、そのギャップもまたよかったのだと思います。できたらもう一度観に行って、あの映像の素晴らしさを確認しに行きたいです。
 
 以上、個人的に映画「バクマン。」を見て感じたこと、でした。
 これ以降はまた別の観点からの感想になります。ネタバレを含むので記事を畳みます。
 感想というより、映画「バクマン。」を見て感じた、NEWSや加藤さんのことが主となっています。身内用の鑑賞記録として書いたものだったのですが、せっかくなので先日のラジオの話も含め加筆修正しつつ公開しておきます。

 


 
 ※細かい台詞や状況は、記憶で書いているので異なる部分があるかもしれませんがご了承ください。

・やめられない人たち
 同時期に賞を取った漫画家たちはそれぞれジャンプに連載を掲載することとなる。しかし、アシスタントを長く続けてきた中井がようやく勝ち取った連載は打ち切りになってしまう。
 漫画を描くことに携わるのをやめて実家に帰るものの、主人公たちのピンチに呼ばれ、「ここの背景は俺が書く!」と宣言してペンを走らせる。主人公たちの原稿が完成したあとには、次回作の構想を楽しそうに語る。
 主人公たちも、ピンチを乗り越えて連載を続けるが、勢いは失速し、やがて打ち切りになる。そして高校の卒業式の日、卒業式には出ずに、教室でいくつもある次回作の構想を楽しそうにはしゃぎながら喋る。
 この人たちは、きっと描くことをやめられない。
 『ピンクとグレー』のごっちとりばちゃんが、『閃光スクランブル』の亜希子が、芸能界をやめられなかったように。加藤さんが、アイドルをやめられなかったように。
 漫画家たちは、描くことの楽しさを知ってしまっている。その楽しさは、描くことによる辛さを凌駕する。辛いことは、決してなかったことにはならないのに、楽しさにやみつきになってしまうのだ。
 『ピンクとグレー』『閃光スクランブル』の登場人物たちも、芸能界の輝かしさを知ってしまっている。輝くことの楽しさを知ってしまっている。だからそこから離れられない。どんなに辛いことがあったとしても。たとえ、死ぬしかなくなってしまっても。
 加藤さんも、こういった人々の類なのだと思う。
 ステージから見る光景の眩しさを知ってしまっているから、やめられないのだと思う。たとえどんなに辛いことがあっても、それを遥かに上回る何かがあることを、知ってしまっている。
 やめられないから、やめないでいいように全力を尽くした。グループに貢献する為に小説だって書いた。いなくなる2人を留めることはできなかったけれど、加藤さんの書いた小説が4人になったNEWSの知名度を上げたり間口を広げたりしていることは間違いない。やめられないから、やめないで済む世界を自ら作り出したのだ。

・「これは俺の漫画だ。俺以上に上手く描ける奴はいない」
 体を壊しながら、それでも原稿を仕上げようとする真城。同時期に賞を取った漫画家たちもそれを手伝う。
 そこにやってきた、主人公たちに対してライバル的な位置に置かれている新妻エイジ。同世代でありながら、漫画家としての経歴も、実力も、才能も、新妻エイジのほうが格段に上である。
 彼は真城の原稿にするするとペン入れしていく。「ここはもっとこうですね」「ほら良くなった」「僕の方が上手く描けるって言ったじゃないですか」と、淡々と喋りながら。
 真城は静かに涙を流し、「やめてください」と言う。強い意志を持った目をして、新妻エイジを見て、言う。「これは俺の漫画だ。俺以上に上手く描ける奴はいない」と。
 かつて「いちごのないショートケーキ」「“○○と愉快な仲間達”の“愉快な仲間達”」「具のないおでん」と言われた4人がいた。主役を失った物語に取り残された脇役たちだと世間は思っていた。しかし実際は違った。今のNEWSは、主役を失った物語でもなければ、脇役を主役に仕立てたスピンオフでもない。主役の去った舞台で、自らが主役となることを選んだ4人の物語だ。
 NEWSという物語を紡いでいけるのは、NEWSだけだ。そして今、NEWSは小山さん、増田さん、加藤さん、手越さんの4人。彼ら以上に、NEWSをやれる人達はいない。NEWSという物語を続けることを選んだ4人以外に、他の誰にもNEWSをやることはできない。

・主題歌「新宝島
 恥ずかしながら、サカナクションをちゃんと聞いたのはこれが初めてだった。どこか懐かしい印象のあるサウンドと、覚えやすいメロディと、抽象的ながら核心を突くようにストレートな歌詞が映画にマッチしていて、映画を見た帰り道に即購入した。
 歌詞は、漫画を描くことだけでなく「ものをうみだす」こと全体に通じることのように思える。歌詞中の「君」を漫画だとすると、真城たちをはじめとした漫画家たちから漫画への思いを歌っているように見えるし、何も「君」は漫画だけとは限らない。すべての「ものをうみだす」人たちの、自分たちがうみだそうとしている「もの」へ対するラブソングのようにも取れる。
 『閃光スクランブル』を読み返しながら、基本的には中村一義さんの「セブンスター」「キャノンボール」を聴いていたのだが、何かの拍子でこの「新宝島」が流れてきたことがあった。なんとなくイメージと合っていたのでそのまま聴きながら読んだ。きっと、巧の写真への姿勢だとか亜希子のアイドルへの姿勢というものが、この歌詞に重なったからだろう。特に、巧との相性がいい気がした。

・11/1放送 SORASHIGE BOOKを聴いて
 「漫画のことを描いた漫画って間違いない」と、そう言っている人がアイドルでありながら小説の中でアイドルや芸能界を描いているのがなかなかにメタ的発言なのでは?と思った。さすがメタアキさんである。
 「ほんとに日本の映画ってまだ全然面白いんだな」というようなことを言っていたが、確かにそう思わせる映画だった。もしこの映画をノベライズするのであれば伊坂幸太郎さんが書いてくださったら最高だなと思ったのだが、熱さとスタイリッシュさのバランス配分が非常に伊坂さんの文章と合うと思ったからだ。それに、多分『重力ピエロ』の帯のせいもある。かつて伊坂さんの『重力ピエロ』に、担当編集の方が「なんだ、小説まだまだいけるじゃん」という帯を書いていたのだが、それと同じようなことを思った。
 エンドクレジットは、加藤さんも言っていたようにとても面白かった。なかなかに手間かかりそうなのに、そこまで手を抜かないのか、と驚いた。
 「線へのこだわり」という話では映画の本編中にも作画の細かい部分(砂ぼこりの向こうが透けて見える技法を楽しそうに語るシーン等)について言及されていて、自分は全く絵を描かない人間なのでそこにそんなこだわりが、と驚いた。なかなか気付きにくい部分ではあるけれど、そういったこだわりが沢山積み重なって漫画というものが生まれているんだなと思った。できることならそういうところに気が付ける読み手になりたい。
 「漫画家って本当にクレイジーだと思う、職業として」と加藤さんは言っていたが、ただの会社員である私から見たら加藤さんもアイドル兼小説家というなかなかクレイジーな職業だ。六万五千人を相手にコンサートをしたり、小説を書いたり、更に言ったら(どれだけ忙しいのか予想はつかないけれど)その合間にすごい数の映画を観たりマグロ釣りに行ったりもしていて、正直すさまじいな、と思う。
 でもその、「漫画家ってクレイジーな職業」といえる、「やっぱり俺たちのサカナクションだぜ」といえる“普通の人”っぽさが、加藤さんの魅力のひとつなのだろう。
 
・まとめ
 物語厨な私は映画「バクマン。」にもNEWSという物語を重ねて見てしまったけれど、当事者はやっぱそうでもないよね!と思った。それが良いとか悪いとかいう問題ではなく。
 様々なメディアから発信された「NEWS」が私の元に届いた瞬間、それはもう私の主観をもって解釈された「NEWS」に他ならないんだなと実感した。極論を言うと100%の客観性なんてどこにも存在しないのでそれはどうしようもないことだと思っている。私は一生、私の主観によって解釈されたものしか見ることはできないし、そこには正解とか不正解も特にないと思っているので、この姿勢を改めるつもりも特にない。私が私の目を通して見て私の頭で考えたことを書かなければ意味がないと思うし。
 というようなことを思った、映画「バクマン。」&SORASHIGE BOOKでした。