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来世はペンギンになりたい

好きなものを好きと言うために生きてる

きっと何者にもなれなかった加藤成亮の生存戦略 ―『ピンクとグレー』考察―

 ずっと書きたいと思っていた『ピンクとグレー』感想文をようやくある程度納得のいくところまで書けました。映画になる前にいっぱい『ピンクとグレー』について考えて、そのうえで映画に臨みたいです。もう10月に入ってしまったので、1月9日なんてあっというまですね。

 小説として大好きな小説の映画化であり、大好きなアイドルが原作を書いた小説の映画化であり、二重の意味で楽しみです。

 映画化までにたくさん『ピンクとグレー』について考えておこうと思って、今回は『ピンクとグレー』についての話です。

 『ピンクとグレー』発売当時の雑誌、過去のロングインタビュー等から発言を引用しつつ、『ピンクとグレー』を読み解いていきたいと思います。あくまで一個人の感想ですので、正解・不正解という話ではないです。

 文中ではフルネーム呼び捨てという不躾な書き方になってしまいますが、加藤さんという一人の人間がもつ、「加藤成亮」と「加藤シゲアキ」について語りたいのであえてフルネームで書いていこうと思います。もう既に加藤がゲシュタルト崩壊している……

 

※2016/02/23 追記
どうやらこのブログ記事が「ピンクとグレー」の考察とかネタバレとかで引っかかりやすいらしいので、もし映画に関する記事をお求めでしたらこちらですよっていう案内を置いておきます。

penguinkawaii.hatenablog.com

 


 

0.はじめに

 私は、加藤さんの小説では『ピンクとグレー』が一番好きだ。文章はまだ拙い部分もあって、もっとブラッシュアップすることはできるけれど、やり場のない熱と思いが詰まった、あの頃の加藤さんから溢れたどろっとした膿のような、あの小説が大好きだ。

 『ピンクとグレー』を書いていた頃の彼はまだ「加藤成亮」だったんだろう、と思う。真正面からアイドルをやりきることもできず、かといって他に居場所を見つけることもできず、何にもなれずに、もがいていた頃の。

 きっと何者にもなれなかった頃の加藤成亮生存戦略が、『ピンクとグレー』だったのだ。

 『ピンクとグレー』が出版されて以来、沢山の読者がそれを読み、沢山の解釈が生まれた。著者である加藤さんとどこか重なる部分のある登場人物たちが、加藤さんとどこか重なる部分のある物語を紡いでいく。特に、主要な人物である「ごっち」「りばちゃん」に対しては、誰がどちらに当てはまるのかをあれこれ考えた読者は少なくないだろう。

 興味本位であれ、真面目に読み解こうとした結果であれ、書かれていることについて考えることを避けて通るのは難しい。完全なるフィクションであっても、そこにモデルが(ある程度参考にした人物が)いるのではないか、作者の思っていることや考えていることが小説の中に綴られているのではないか、という気がしてしまう。

 それがどんなに野暮だったとしても、今の私がこの作品と彼に対して思ったことを残しておくために、今日の記事を書こうと思う。

 先程から繰り返している「きっと何者にもなれない」というフレーズは、アニメ「輪るピングドラム」に出てくる台詞だ。「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」「生存戦略」という言葉がアニメの中で繰り返される。アニメの内容は今は触れないが「きっと何者にもなれない」と「生存戦略」をキーワードにして語っていく。*1

 (本当はアニメの内容にも触れたい。めちゃくちゃ関係ある。「輪るピングドラム」と「銀河鉄道の夜」と『ピンクとグレー』の関連性についてめちゃくちゃ語りたい。語りたいけどものすごく長くなるから今は割愛します)

 なお、『ピンクとグレー』から文章を引用する際は文庫版に準拠してページ数を示すことにします。

 

1.ごっちとりばちゃんの正体

 『ピンクとグレー』の二人の主人公、「ごっち」「りばちゃん」が誰と誰であるか、様々に語られてきた。ネット上で感想や考察を検索するだけでも複数の意見が見受けられるので、読者の受け取り方によるのだろう。小説から判断できるより多くの情報が、加藤さんにはあるから。

 そこで、私もごっちとりばちゃんについて、二人が誰なのか考えてみることにする。

 結論から言うと、どちらも加藤成亮だったのだと思う。その根拠となるのが、2012年の別冊spoon掲載のインタビューだ。ごっちとりばちゃんについて、ども僕ですと語っている。

「ごっちとりばちゃんっていう主人公ふたりは誰と誰っていうわけではなくて、たぶん僕なんですよね、ふたりとも。自分の脳みそをふたりにしたっていう感じはあります。ほかでもない自分。ステージの上から客席を見ることもあれば下からステージを見ることもあるっていうのは自分の体感してきたことなので。書くまではあまり考えていなかったんですけど、書いているとやっぱり振り返るんですよね、自分のこれまでを」(別冊spoon  2012年)

 本人がこう言ってるんならそれ以上のことはない、と納得できればいいのだが、本人の言葉を踏まえて更に考えたくなってしまう。

 ごっちもりばちゃんも、きっと加藤成亮だった。

 第一章の終わり4行は、りばちゃんがごっちについて綴った本の中の文章という体裁になっている。

 白木蓮吾――彼について、過去彼の隣にいたというだけの僕がこれを綴るのは忍びない思いももちろんある。彼のファンには僕を非難する人もいるだろう。

 それでも僕はこれを書く。永遠に外れる事のない足枷を引きずりながらも、それでも僕は生きていかなければならないのだ。(p13)

 それでも生きていかなければならない「僕」は、きっと「加藤シゲアキ」なのだと思う。『ピンクとグレー』を綴った後に残ったのが「加藤シゲアキ」であるように。

 二人の加藤成亮加藤シゲアキになる過程を、それぞれの人物考察から見ていく。

 

・りばちゃん――きっと何者にもなれなかった頃の加藤成亮

 「輪るピングドラム」を見たことはなくとも、「きっと何物にもなれないお前たちに告げる」というフレーズは聞いたことがあるかもしれない。この「きっと何物にもなれない」というフレーズを用いて、りばちゃんと加藤成亮について語りたい。

 「何者にもなれない」という言葉は、イコール「誰でもない」、つまり「アイデンティティが確立できていない」と言い換えることができる。

 『ピンクとグレー』執筆前の彼は、何者でもなかった。

 書く前とかさ、なんで俺はアイドルやってるんだろう? 向いてないのに……みたいな。そういう部分が結構あったんだけど。(+act mini 2012年 vol.19)

 アイドルという肩書を持ちながらも、上手く「アイドル」ができない自分に苦悩してもいた。ジャニーズ事務所というところにいるということは、彼が肩を並べる人々はみなアイドルで、ある意味、アイドルであることは当たり前のことともいえる。

 「個性」「自分」「オンリーワン」、そういった単語が氾濫する現代では、「平凡」「普通」「当たり前」はアイデンティティの確立にはつながらない。

 つまり、アイドルであることはあの事務所にいる限り彼のアイデンティティには成りえない。事務所の外から見れば、アイドルであることは非凡だが、彼は中にいる。みんながみんなアイドルの中にいて、山下智久にはソロ活動があり、錦戸亮には関ジャニ∞があり、手越祐也と増田貴久にはテゴマスがあり、小山慶一郎加藤成亮には何もなかった。

 しかし、小山さんは少年倶楽部のMCを務め、のちにnews every.のキャスターとなる。何者でもなかった二人は、一人になってしまった。加藤さんだけが、何にもなれないままで残された。アイドルも上手くやれないのに、アイドル以外何もない。NEWS以外に活動の場もない。このときの加藤成亮は、何者にもなれない人間だった。

 何者にもなれない状況を打破しようと、加藤さんは「事務所のえらい人」に相談する。その時の話がMyojo 2012年1月号の10000字インタビューに書かれている。「“自分の魅力って何?”」と尋ねられたという。ここでいう「魅力」とは、アイデンティティの類を指しているのだろう。そして、それに答えることができなかった加藤さん。

 その姿は、自宅で白木蓮吾の番組を見るりばちゃんと重なる。重ねてしまうことに辛さはあるが、きっとりばちゃんはこの頃の加藤成亮なのだろう、と思ってしまう。りばちゃんもまた、自分のアイデンティティを確立できずにもがいていた。否、もがき方すらわからなくなっていた。

 

・ごっち/白木蓮吾――外側から見た加藤成亮

 加藤成亮は何者にもなれない。それと同時に、人気グループに所属するアイドルという事実を背負って芸能界で生きている加藤成亮という人間も存在した。バレーボールのイメージキャラクターとしてデビューし、シングルアルバム全て1位、メンバーの脱退はあったもののNEWSというグループは華々しさを失うことなく更に飛躍し、爽やかな王道アイドルというイメージを纏い続けることとなる。6人時代にリリースした「weeeek」はデビュー曲に次ぐヒットとなった。

 それだけの、輝かしいところに、加藤成亮はいた。

 勿論、どちらも、加藤成亮というひとりの人間である。ひとりの人間を、内側から見るか外側から見るかの違いだ。私のような面倒くさいファンは、内側に寄り添いがちな視点でアイドルを見る(でなければこんな文章書いてない)。しかし、なんの情報もなしにNEWSの加藤成亮を見ていたら、ただ輝かしい世界で輝かしく生きる人間のひとりとして映っただろう。

 その姿は、芸能界という輝かしい世界の中で生きる白木蓮吾の姿と重なる。

 

・ごっち/白木蓮吾を演じるりばちゃん――内と外を内包する加藤シゲアキ

 ごっちが芸能界に魅せられていたことは明らかだが、りばちゃんもまた、芸能界の魅力から離れられなかった。だから、白木蓮吾の出演番組を見たり、雑誌を読んだり、映画を見に行ったりしてしまう。

 どうしてこうしているのか分からない。ただどうにもならなかった。辞めることもできず、そんな僕を見て小出水さんは契約を続けてくれている。芸能界に突っ込んだ片足の指先が僕はなかなか抜けずにいた。その向こう側で僕の指をつまんでいるのはやはり白木蓮吾なのだろう。(p177)

 中途半端になっても、辞めるという選択肢はりばちゃんにはなかった。白木蓮吾を介して芸能界に関わり続けることを選んだ。それが辛いことだとわかっていてもやめられなかった。

 ごっちが死んだ後、ごっちについての本を書き、ごっちを演じることとなったりばちゃんは、改めてアイドルをやる決意をした「加藤シゲアキ」だ。外から見た姿と、内から見た姿をどちらも宿して、新たに生まれた人間。ごっちとりばちゃんがメタレベルで見れば加藤成亮という同一人物だとしたら、その二人が正しくひとつになった姿、といえよう。

 君がみた世界に果てはなく、これこそが楽園だ。絶望的に素晴らしいこの世界の真ん中に僕と君は共にある。(p297)

 ごっちの見ていた世界に、りばちゃんも辿り着いた。白木蓮吾がりばちゃんの指をつまんでいた向こう側に、りばちゃんもまた行ってしまった。それはりばちゃんが望んでいたことであり、ごっちの望んでいたことでもあった。二人の望みが叶った結果、「僕と君は共にある」姿が、加藤シゲアキだ。

 

2.『ピンクとグレー』に見られる二項対立

 『ピンクとグレー』には、複数の二項対立が見られる。タイトルもそのひとつだし、メインとなる人物が相反する二人であることも二項対立のひとつといえる。作品中に登場する二項対立について、いくつかピックアップして見ていく。

 

・ピンクとグレー

 『ピンクとグレー』では色の話が印象的に使われているが、その中でも最も注目すべきはこのタイトルだろう。本文の中でタイトルの意味について語られてはいない。ピンクとグレーを匂わせる言葉も、強いて言えば第十四章のタイトルに「ピンクグレープフルーツ」(=略すとピングレ)があるくらいだろう。しかし、二色であることと主要な登場人物が二人であることはリンクしているだろうという予想はつく。

 タイトルについて、当時のインタビューでこう語っている。

 昔、友だちに「俺はグレーは好きだけどピンクは嫌いなんだよ」と言ったことがあったんです。「白に黒を足すのはいいんだけど白に赤を足すのは嫌だ」と。その友だちから「白も黒も赤も好きでしょ。なんで足したら嫌なの?」と言われたことがずっと自分のなかに残っていたんです。ピンクとグレーはどちらも同じ中間色。曖昧なところも同じ。でもグレーは好きだけどピンクが嫌いなのはなぜだろう。この二つの色の違いは何だろうと思ったんです。(『ピンクとグレー』文庫 加藤シゲアキインタビュー)

 また、雑誌の中でインタビュアーが発言したものだが、「ピンクに当たる“白木蓮吾”」「グレーに当たる“りばちゃん”こと“河田大貴”」(別冊spoon 2012年)という表現がなされており、インタビューに答える加藤さんも特に否定していないことから、この解釈はある程度信じていいということだろう。

 赤も黒も白も好きなのに、ピンクは嫌いで、グレーは好き。

 おそらく、ごっちは最初からピンクだったわけではないのだと思う。ピンクなのは、白木蓮吾だ。りばちゃんがグレーになるのも、芸能界に足を突っ込んでからだろう。赤がごっちで黒がりばちゃんだったら、白は芸能界だ。作中で芸能界の象徴として描かれる白木蓮吾の名前にも「白」の字が使われている。

 二人は最初は赤と黒で、加藤さんから見て「好きな色」だったのではないだろうか。それが、芸能界という白と混ざり合うことで、一方はピンクになり、一方はグレーとなった。

 「クラスにいたあのアルビノのメダカはね、嫌いな色が映る自分の姿を見られたくなかったのよ。だから色素を捨てたの。でもね、私たちにメダカは見えていたでしょ。色素を捨てても透明にはならない。だから、メダカは全ての色を吸収することにしたの」(p118)

「私は私の色を受け入れるしかないのよ。そしてその色をしっかりと見せるの。これが私の色なのよって」(p120)

 作中で石川が言っていた、色についての話だ。きっと、ごっちもりばちゃんも自分の色が嫌いだった。

 ごっちは、白木蓮吾という自分の色を受け入れることができなかったから、全ての色を吸収しようとした。透明なメダカになろうとした。

 りばちゃんは、自身の色である(=嫌いな色である)グレーと、ごっちの色であるピンクを混ぜ合わせようとした。そうすることで、りばちゃんは自分の中にごっちを再構築しようとする。しかし、ごっちはごっちの色であるピンクを嫌っていたのなら、りばちゃんの中のごっちがピンクを拒むことになるので、二色を混ぜ合わせるのは難しい。

 僕に内在する二色は混ざらずに分離したままそれぞれを汚し合い、それら自身を擁護する。それでも僕は強制的に混ぜることでしか、次の新たな記憶を留保する方法を持っていない。(p274)

 

 “ピンクとグレー”って自分の中で嫌いな色と好きな色だったはずなんだけど、色としての相性もすごくいいし、ピンクもいいかもしれないって思いはじめて。(spoon 2012年2月号)

 「ピンクもいいかもしれない」と思ったのが『ピンクとグレー』を書きあげたあとに思ったことなのか、書く前か、あるいは書いている最中だったのかはわからない。しかし、りばちゃんの中では強制的でなければ混ざり合わなかった二色は、きっと加藤さんの中ではうまく混ざり合うことができたのだろう。

 そうして、加藤さんの中で混ざり合ったピンクとグレーの二色は、「加藤シゲアキ」となった。

 

・オニアンコウのオス/メス

 本作では女性の存在は極めて記号的だが、ファレノプシスの歌詞でも出てくるように、男女という二項対立は重要なキーワードとなっている。そのひとつが、オニアンコウのオスとメスについての話だ。オニアンコウのオスは生殖機能のみを残し、メスの体の一部となる。

 ごっちは、そしてりばちゃんは、オニアンコウのオスだったのか、メスだったのか。

 ごっちはおそらくオスだろう。生殖機能のみ残してメスの一部となるオスと、背中のチャックを下ろしたら「ごっち」はいなくなっていて、外側の「白木蓮吾」しか残っていない姿が重なる。となると、オニアンコウでいう生殖機能は、ごっちでいう「白木蓮吾」になる。

 ならば、ごっち(オス)に対応するメスは誰か。「白木蓮吾」という姿で求愛する相手となると、メスは「芸能界」ではないかと思う。ごっちは、「白木蓮吾」という生殖機能を以て芸能界というメスに求愛した結果、「白木蓮吾」以外を失ってしまった。

 りばちゃんは元々は、そもそもオニアンコウではなかったのかもしれない。やはりりばちゃんは、「何者にもなれなかった」のかもしれない。だから全てを捨ててメスの一部になるオスにはなれず芸能界で大成することができなかったし、オスを体内に取り込むような巨大なメスでもなかった。

 白木と呼ばれることにも抵抗がなくなっていた。それは錯覚ではない。白木と僕は絶対に別の人間だ。ただ、白木という人格を徐々に吸収しているという感覚は多少なりともあるかもしれない。(p267)

 ごっちの死後、己の中にごっちを再構築していく過程で、りばちゃんはオニアンコウのオスになる。「白木蓮吾」の人格を吸収することで、己が「白木蓮吾」になることで、りばちゃんはオニアンコウのオスになっていった。ごっちは死んでなおりばちゃんの体を借りて芸能界に求愛し、りばちゃんはごっちの力を借りてごっちと共に芸能界に求愛している。

 芸能界の魅力に抗えない姿が、たとえ生殖機能(白木蓮吾としての姿、河鳥大としての姿)しか残らなくても、その強大な力に飲み込まれたいとすら思っているような、そんなようにも見える。

 

○磁石

 石川からすれば今までくっついていた二つの磁石が突然同極を向けて反発してしまった程度に思えたのだろう。反対向きに戻せば元通りになると。しかし実際は違う。僕らの磁石の間に協力で分厚い磁石が挟まったのだ。僕らはそれに引きつけられているが、阻まれてもいる。離れることも向きを変えることもできず、僕らはそこにいるしかないのだ。一枚向こうにいる彼をもう二度と確かめることはできない。(p186)

 りばちゃんは、自分とごっちの関係を磁石にたとえて語る。

 その二つの磁石のあいだにあるものが何か明言されてはいないが、おそらく芸能界なのだろう。

 磁石の話だけではない。先程からいくつか対立項を並べたが、二つのあいだにあるものは概ね「芸能界」に当てはまるように読み取れる。二人を繋ぎ止め、そして二人を阻むもの。二人を変容させてしまうもの。

 芸能界へと深く足を踏み入れてしまってからの二人は、芸能界というものを介さなければ一緒にはいられなかったし、芸能界というものがそこにあるからこそ向き合うことができなくなった。向き合っているようでいて、二人のあいだには芸能界という大きな何かがあって、互いの姿を目視することも難しくなってしまっていた。

 同窓会の後、バーで二人が話すシーンがあるが、あの場面では二人がお互いの姿をきちんと目視することができている。それはつまり、二人のあいだにあった芸能界という大きな壁の存在が薄くなるということになる。しかし同時に、二人を繋ぎ止めていたものの存在が薄くなるということでもある。実際、ごっちは物語の中で芸能界を象徴する存在である「白木蓮吾」であることをやめようとしていた(=自殺する)。

 りばちゃんはその後芸能界で脚光を浴びることとなる。ごっちと共にあるには、芸能界というものが必要不可欠だからだ。芸能界を介さない状態にはもう戻れない。『ピンクとグレー』は時間軸をあえてバラバラにして書かれているが、それが余計に時間が不可逆であることを強調している。

 

・ごっちとりばちゃん

 きっとふたりは分かり合いたかったのだと思う。しかしそれ以上に、分かり合っていると思っていたのだと思う。そういう傲慢さから、対話を怠っていたように感じる。だからこそ距離が開いていった。たとえ、互いを大切な存在だと思い合っていたとしても。

 りばちゃんは作中で、何度も(かつての)ごっちについて一番わかっていた・知っていたのは自分だという姿勢を見せる。

 かつてのごっちについて愛おしげに語りながら、現在の白木蓮吾について薄暗い感情を隠せない。それは、ごっちだけが売れてしまったことへの嫉妬というよりも、ごっちという人がどんどんわからなくなって白木蓮吾になっていく恐怖のように読み取れる。

「皆僕を過大評価している」

「そんなことない。俺は誰よりも知っている。そんなことは絶対にない」(p190-191)

 バーで二人で語り合う場面にも、りばちゃんは誰よりもごっちについて知っているという自負が描かれている。

 加藤さんの作品では「にべもなく、よるべもなく」も中学生の少年二人を主軸に話が展開していく。「にべもなく、よるべもなく」の主人公・純は大人へと変わっていく友人・ケイスケが同性愛者であることを理解できない(受け入れられない)自分を責めるが、その「理解できない」という思いをケイスケに吐露することでケイスケから

「理解なんかしなくていいんだよ。僕は純ちゃんと違うんだ。でもそれでいいんだよ。違くたって僕は純ちゃんの友達だし、僕は純ちゃんが好きなんだよ。理解なんて、僕らの間にはなんの意味もないんだ」(『傘をもたない蟻たちは』p245-246)

という許しを得る。りばちゃんは、白木蓮吾になっていくごっちを理解できないと吐露できるほど子どもでもなく、理解できなくてもそれでいいと思えるほど大人でもなかった。

 分かりあえていたという過去と、分からなくなっている現在の葛藤。りばちゃんもごっちもそのあいだで揺れていた。 

 もうひとつある遺書の中には六枚の遺書が書かれた紙が入っている。その中から僕の遺書を選んでほしい。僕のほとんどを見てきたりばちゃんなら、出来ると思うんだ。僕を作れるのはもう君しかいない。(p201)

 遺書を選ぶ=白木蓮吾の最期を演出する役目を、ごっちはりばちゃんに任せた。それは、「僕を一番わかっているのは君だ」という姿勢とほぼ同義のように思える。「ごっちを一番わかっているのはりばちゃん」ということは、りばちゃんの望むものでもあった。りばちゃんは誰より、ごっちのことをわかっていたかった。

 りばちゃんは、たとえ白木蓮吾のことはわからなくても、ごっちのことならわかっている自信があったように思える。だからこそ、りばちゃんはごっちが考えるであろう「白木蓮吾の最期」を演出したのだ。

 ふたりは最後まで一方通行だった。りばちゃんの台詞の端々から、「ごっちについて一番わかっているのは自分だ」という様子が見て取れる。だから、どんどん白木蓮吾になっていくごっちがわからなくなった。ごっちも、白木蓮吾になるにつれて、ごっちを見失った。二人が共有している、「ごっち」というわかりあえる地点がどこにもなくなってしまっていた。

 りばちゃんは自分の中に再構築したごっちと共に芸能界に存在することとなる。しかしそれも、りばちゃんのフィルターを通して再構築されたごっちであって、ごっちそのものではない。最後の、共演を果たせたとりばちゃんが思っているシーンすら、りばちゃんの思いは一方通行なのだ。

 二人の思いは常に一方通行だった。相手の為に良かれと思って取った行動が、相手を傷つけていた。二人には決定的に対話が足りなかったのだと思う。互いの自意識がそして過去の自分達が邪魔をして、わかり合うために話すことを怠った。

 

3.白木蓮吾について

・白木蓮吾と「物語」

 加藤さんがフィクションとしての「物語」と今まで生きてきた背景という意味での「物語」を武器にしている、という話は以前書いた。『ピンクとグレー』の中にも、いくつもの「物語」が内包されている。

 もはやごっちではなくなっていた白木蓮吾は、かつてごっちの親友だった男にすべてを委ねて死ぬ。やるかやらないかという二項対立しか知らないで生きてきた男は、死ぬか死なないかという瀬戸際に立ち、死ぬことを選んだ。死ぬことでしか、白木蓮吾という物語を完成させられなかった。完成された物語は世間に広く流布することとなる。河鳥大という媒体を介して。河鳥大という、新たな物語を伴って。

 アイドルに限らず、芸能界に生きる人々はある種の「物語」なのだと思う。ただ、アイドルがその「物語」という要素が強いというだけで。白木蓮吾は若手俳優というジャンルに分類されているようだが、若い女性から絶大な人気を誇っている白木蓮吾のありかたは、非常にアイドル的であると言える。(あるいは、「若手俳優」と呼ばれる方々の中にもアイドル的な方々がいて、そこの垣根は曖昧なのかもしれない。)

 作中でごっちとりばちゃんの二人が芸名を使っていることも、「物語」と関わりがあるように思える。芸名であることで、鈴木真吾、河田大貴という個人ではなく、別の存在として、白木蓮吾と河鳥大という物語が芸能界に息づいているということがわかりやすいようになっている。

 白木蓮吾はアイドルのもつ「物語」の側面を強調されているとはいえ、そこに「物語」があるということは的外れなわけではないだろう。物語の渦中にいる人――アイドルである加藤さんが書いているのだから。

 「タイプライターズ 物書きの世界」第一回の中で、朝井リョウさんとピースの又吉直樹さん、そして加藤さんがアイドルについて言葉を交わしている場面がある。そこで、朝井さんはアイドルを「地球外生命体」と表現している。

 何しても怒る人もいるじゃないですか。アイドルが何しても怒る人もいるし、アイドルが何してもギューンとなる人もいるし、かと思ったら、今社会学者の方々がアイドルを論じていたりだとか、アイドルに関する社会学の本とかもすごい出てたりするし、研究対象にもなってたりだとかするってことは、色んな現代人の何かを反映してる怪物みたいなもののような気がしたんですよね。可愛くなきゃいけない、若くなきゃいけない、でも恋愛しちゃいけないとか。自撮りで映ったサンダルがすごい高かったら、それはそれで駄目とか。応援してるんだけど良い生活はして欲しくないとか。

 

 そういう両立できない欲望みたいなものを、とにかく叶えなきゃいけない存在として、すごい地球外生命体感がやっぱりあったんですよね。本来成り立たない欲望を、アイドルだけは成り立たせてる。

 

 私ははじめ、「応援してるんだけど良い生活はして欲しくない」の意味がわからなかった。「良い生活」とはそのアイドルの幸せに繋がっているものではないのか。応援している対象が幸せならそれでいいのではないか。

 よくよく噛み砕いてみて、「このアイドルは、きっとファンにとって身近な存在という物語をもって売り出されているのだ」と思った。ゴージャスな生活をしている(という設定の)アイドルだったとしたら、いくら良い生活をしようが問題ない。むしろ、安物の健康サンダルを履いたり愛用の品々が安物だったりする姿なんて、ファンは見たくないと思っても不思議ではない。つまりそれが、白木蓮吾だろう。

 「自撮りで映ったサンダルがすごい高かったら、それはそれで駄目」というのは、そのすごく高いサンダルがそのアイドルがもつ「物語」にそぐわないからだ。パブリックイメージと呼んでもいい。朝井さんの言うそのアイドルは「すごく高いサンダルなんて履かない」というイメージの物語を背負っていたのだろう。白木蓮吾がデュポンのライターを持ち、ラブホテルのライターを持つことができないように。

 白木蓮吾はまさしく、「両立できない欲望みたいなものを、とにかく叶えなきゃいけない存在」だった。白木蓮吾のファンは彼の幸せを願いながら、自分たちのイメージする白木蓮吾であることを望む。本文中に名言はされていないが、白木蓮吾は常にそういう視線に晒されていたのだろう。でなければ、白木蓮吾であるために石川沙理ではなく香凛を選び、ラブホテルのライターではなくデュポンのライターを選んだりしない。そうやって白木蓮吾を作り上げるうちに、「ごっち」という存在は死んでしまった。

 同窓会でりばちゃんと会い、バーで飲みながら話し、りばちゃんの中にはまだ「ごっち」がいることを確信する。だからこそ、白木蓮吾は死ぬことを選んだ。「ごっち」を知る彼だからこそ、白木蓮吾の物語を終わらせることができると思ったのだ。

 

 ごっちからりばちゃんに宛てた遺書は、りばちゃんの今後の行動を示唆するものであり、りばちゃんの身に起こることを予言しているかのようだった。人気若手俳優だった白木蓮吾の死に関わった人物が有名にならないわけがないことくらい、白木蓮吾はわかっていた。

 白木蓮吾は死の直前に、りばちゃんに「君は有名になるべきだ」と繰り返す。実際、白木蓮吾の死に関わったりばちゃんは売れ始めることになる。

 りばちゃんこそ売れるべきだと、白木蓮吾が売れ始めた頃に無邪気にそう思うのはわかる。この世界に共に在りたいと思うのはわかる。しかし、死ぬ間際になってりばちゃんを有名にしたいと思うということは、白木蓮吾の中にいたごっちを殺し、そして白木蓮吾をも殺した世界に、りばちゃんを引き込むのと同義といえよう。

 まるで呪いのようだ。ごっちの姉・鈴木唯から続く、「やらないなんてない」という呪い。美しくも危険な世界に魅せられてしまう呪い。「物語」を完成させずにはいられない呪い。鈴木唯、そして白木蓮吾から呪いを受け継いだりばちゃんは、絶望的に素晴らしいこの世界の真ん中に、鈴木真吾=白木蓮吾=ごっちと共にある。 

 

・白木蓮吾と加藤さん

 白木蓮吾は、加藤さんの対極として描かれているように思える。理解することもされることも諦めてしまっているかのようで、理解したいしされたい加藤さんの真逆のようだ。

 ごっちは「白木蓮吾」という鎧を作り上げる。芸能界のスターダムを駆けあがる彼にとって、最初は正しく「鎧」だったのだろう。

「君らが売れてからじゃ遅いんだぞ。病院で名前を呼ばれる度にきまずい思いをするのは嫌だろう。明日までに考えてこい。無理なら俺が勝手に決めるからな。いいな」(p138)

 二人が最初に所属した事務所の社長・小出水は芸名をつける理由についてそう言った。例として挙げられているのは日常の些細なことだが、芸名――「白木蓮吾」は確かに彼を守るためのものだったのだと思う。しかしいつのまにか、鎧だけが独り歩きしてしまい、ついには中身が食いつくされてしまった。「白木蓮吾」というイメージやブランドはどんどん肥大し、たとえごっちが本当の自分を理解してほしいと思ったとしてももう遅かった。「白木蓮吾」は、ごっちを殺してしまった。

 加藤さんはポポロ2013年7月号のロングインタビューの中で、

 当時の俺は、ドラマではイケメン役が多いのに、NEWSのなかではちょっとダサいいじられキャラ。あまりにもギャップがありすぎて、その差をどう区別していいのかがまったくわからなくなって人知れず悩んでいたから。

 と語っている。彼がドラマで演じてきた役は、周囲が加藤さんのイメージとして作り上げたものかもしれない。少なくとも周囲にはかっこいい役が似合う人であるように見えていたから、そういう役が多かったのだろう。しかし、加藤さんが纏うべき鎧の像はブレていた。もしそこで、「演技ではかっこいい役をするけど、MCではいじられる存在」という鎧を纏ってしまえば楽になったのかもしれない。それがいきすぎて、求められることに応えすぎてしまったのが、「白木蓮吾」だ。

 加藤さんは求められるがままに鎧を纏うことをよしとしなかった(あるいは、できなかった)。そういった悩みを経て、ほとんど鎧とはわからない、そのままの加藤さんに限りなく近い鎧をまとう今があるのかもしれない。

 加藤成亮という、己の姿に悩むアイドルが見つけた鎧が「加藤シゲアキ」だったのではないかな、と思う。そのままの加藤さんに「限りなく近い」鎧。同一ではなくて、ほんの少しだけ違う。その違いは、名前が漢字かカタカナかというような非常に些細な違いで、しかし決定的な違いだ。加藤さんが今アイドルを続けていられるのは、この「加藤シゲアキ」という鎧を纏うことができたからだったりするのだろうか、と思うことがある。「俺にとっては超大事な通過儀礼」(+act mini)と言うだけあって、名前をカタカナ表記にすることは加藤さんにとってはどうしても必要なことだった。

 加藤さんがときどき自分の発言について意図の説明をしたりするとき、もっと鎧を纏ってしまえばいいのにと不安になる。けれど、彼は間違いなく「加藤シゲアキ」という鎧を纏っている。本人とほとんど変わらない鎧だが、彼にとって自由に動けるだけ軽くて、最低限は彼を守ってくれる役割をきちんと果たしている鎧なのかもしれない。そう思うから、不安に思うことがあっても、きっとこの人は大丈夫だろうと思い直すことができる。

 ごっちも、そういうちょうどよい鎧を見つけることができたら、死ぬことにはならなかったのかもしれない。

 

 

4.まとめ

 小説に関しては、正直、うまくいかなかったら死ぬんじゃないかなってくらいがんばった。(Myojo 2015年7月号)

 加藤さんは、『ピンクとグレー』を「死ぬ気で書いた」と語る。この先もアイドルとして生きていくために、死ぬ気で書いたのだろう。文字通り「生存戦略」だ。生きるために、死ぬ気になる。だからこの『ピンクとグレー』には、痛いほど熱が溢れている。

「でもね、俺……(『ピンクとグレー』を)書いて、変わった。性格が」(+act mini)

 混ざり合っていた陰と陽がわかれたのだと、加藤さんは言う。おそらく、感情の整理ができたとかそういう意味だと私は捉えている。

「これ(小説)はこれで、やっぱり続けていきたいことだし、続けたいと思うし。一個、ここ(小説)が出来たことで、(陰と陽が)バッとわかれたっていうか。自分の中で、“やっと居場所が出来た”みたいなのが……あるのかな」(+act mini)

 小説を書きあげて、それが出版されて、彼は「居場所を見つけた」と言う。『ピンクとグレー』はまさしく、何者にもなれなかった加藤成亮が、アイデンティティを確立して何者かになる=居場所を見つける手段だった。

 

 芸能界という、魅力と呪いに満ちた世界から離れることができない二人。りばちゃん――何者にもなれなかった頃の加藤成亮が、白木蓮吾――外側から見た加藤成亮を内包し、白木蓮吾を演じるりばちゃん――芸能界に生きる加藤シゲアキという存在になるための、生存戦略。それが、『ピンクとグレー』だったのだろう。

 


 

 

 書きたいことをひたすら書いてみました。

 本当は、「輪るピングドラム」や「輪るピングドラム」の元ネタともいえる「銀河鉄道の夜」について『ピンクとグレー』との比較をしてみたかったのですが、それをやるとあまりに長くなるのでまた別の機会に書くことにします。

 映画になったらまた新たに思うことがあるのだろうとわくわくしています。期待も不安もあるけれど、見ないなんてないので。長々とまとまりのない文章でしたが、ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。

 

<参考文献>
Myojo(2012年1月号)
spoon(2012年2月号)
別冊spoon(2012年)
+act mini(2012年 vol.19)
ポポロ(2013年7月号)
Myojo(2015年7月号)

 

 

 

*1:加藤さんにはぜひ「輪るピングドラム」を見ていただきたい