来世はペンギンになりたい

好きなものを好きと言うために生きてる

グレート・ネイチャー覚書

 周囲の人と話していると面白い気付きが得られることが多く、この話題もあの話題ももっと考えてみたいな、と思っている今日この頃です。そのためには映画見たり本読んだりしなくてはいけなくて、本当に学生時代にレポート書いてたときのようなことをしているなぁと思ってなんだかしみじみします。しみじみしつつめちゃくちゃ楽しいです。多分学生時代より真面目にやってる。

 
 今書いておかないと忘れてしまうので、今回は舞台「グレート・ネイチャー」感想です。まだ公演中ということもあるので、記事を畳んでおきます。
 考察というよりは覚書です。自分が感じたことを整理して忘れないようにしておくためのものです。
 
 


 
 
 本当は、この舞台について何か書く気はなかった。難しすぎてよくわからなかったから。一回目に見たときに、理解することを諦めようと思った。考えるな、感じろ!の精神で見ようと思った。映像化もなく、脚本が出版されて読めるわけでもなく、メモを取れるわけでもなく、内容を完璧に頭にたたき込めるほどの回数を見られるわけでもないのに、この舞台を理解しようとするのはなかなか難しいぞ、と思ったからだ。
 二回目、チケットを当ててくださった先輩が強運の持ち主だったおかげで前方の列で鑑賞することができた。そのときに、ラストのほうで篠崎がマックスに(客席に)語りかける台詞の部分で、篠崎を演じる小山さんが目を潤ませながら語っていることに気付いた。小山さんがこんなにも何かを訴えかけているというのに理解を放棄するのは失礼だし、彼がこんな表情をするほどのものがここにあるのならそれを理解したい、と思った。小山さんではなく篠崎の目が潤んでいたと捉えるにしても、それだけ想いを込めた言葉が面白いものではないわけがないので考えないのは勿体ない、という気持ちになった。
 というわけで、こうして思ったことをまとめておくことにする。
 舞台の内容を完全に覚えているわけではないし、私の記憶の中で再構成してしまっている部分も多くあると思うので、違うなと思う部分があったらこっそり教えてくれたりしてくださると嬉しいです。
 
・「ここ」=SON/舞台上
 とてもメタ発言が多かった。真田の「これが演劇だとでも言うんですか?」という台詞に始まり、バミリのくだりでは加藤シゲアキの名前を匂わせたり、「SON」の意味を変えていくくだりでは「そらジローオブ日テレevery.」があったり、真田と長谷川が客席におりて観客=森の動物として多少絡む場面があったり、何か書けと言われた篠崎が黒板に「every.」と書いたり、「伝説の楽屋の備品」があったり。今ぱっと思い出せるだけでそれだけ挙げられる。今挙げたものはすべてこの舞台の筋書きとして組み込まれているものでもある。
 そんな中で、終盤で篠崎が「ここには何もない」というようなことを言う。SONには校舎も教科書もないというような意味もあると思うのだが、その台詞における「ここ」は舞台上を指しているようにも思えた。
 確かに舞台上には何もない。何もないところを、小道具や役者の演技で何かがあるように見せるので、見ている側も何かがあるように認識するのだが、でもまぁ、メタレベルで言ったらやっぱり何もないのだ。しかし全く何もないわけではない。「ここは空き地か?違うだろ。俺たちがいる」というような台詞が篠崎にあったが、この台詞にも、SONに篠崎やマックス達がいるという意味と舞台上には役者がいるという意味が重ねられていたように思えた。
 「思いつきと思いつきが重なり合う現場」という台詞もあったが、「思いつきと思いつき」=アドリブ、「現場」=舞台というような解釈ができる。
 多分、この作品は役柄と同じくらい役者が重要というか、役者が役を演じているということが重要というか、役を演じるということ自体が「自然」ではないので、この「自然」ということを描くために役者が役を演じているということをメタ的に浮き彫りにする必要があったのかなぁと思ったりもした。
 

・生と死と意味
 「教えてくれよ篠崎、なぜ真田は死ななければならないんだ?」とマックスは篠崎に問う。
 長い時間をかけて篠崎が出した答えは、「死ぬことで意味が生まれるから」というものだった。真田が死んだことで、周囲の物に意味が生まれる。
 また、真田が血を吐いているときに「意味が流れだしてどんどん無意味な存在になっていくよ~」というようなことを言っていた。
 この二つの台詞から、生きているあいだは「意味」を内包していて、死ぬことによってその「意味」が周囲に拡散する、というようなことだろうか、と考えた。死が周囲に影響し、無意味だったものが意味を持つことはありうる話だ。
 「散りゆく桜の花びらのひとつひとつは、春に咲いて散る桜の遺言です」というような台詞もあった。桜は散る=儚いものというイメージを背負っているからそこに命を重ねているようにも思えるし、舞台上に降り注ぐ花びらは意味を外側へ拡散するイメージを象徴しているのかなとも思った。
 シェイクスピアに「この世は舞台、人はみな役者」というような言葉があるが、パンフレットで脚本の松村さんも同じようなことを言っている。生きること=演じることだとすると、死ぬことは「自然」に還ることになるのかもしれない。
 

・ラストシーン
 なぜマッドマックスだったのかはいまひとつわからないが(あれマッドマックス見てない人だいぶ分からない気がするけどそれでよかったのだろうか)、それ以上にあのラストシーンは「新世紀エヴァンゲリオン」のアニメ版最終回を思い出させた。生徒らしきマッドマックスっぽい人たちが出てきたとき、「そして、すべての生徒達(チルドレン)におめでとう」なのかと思った。
 気付きを得た主人公が周囲の人間に祝福される、という図はあの「おめでとう」のシーンと同じ構図になっている。役割をあてはめるなら、シンジが篠崎、ミサトが長谷川、ゲンドウが真田、綾波がマックスだろうか。
 ……だからといって何、というところまでは特に思いつかないけれど。
 
・小山さんについて
 この舞台を通して一番強く思ったことは、「小山慶一郎はここにいる」ということだ。
 正直なところ、小山さんについては、NEWSで一番掴みどころがない・わからない人だと思っている。(わからないと好き/嫌いみたいな感情は全く別。人生で唯一のファンレターを書いたくらい好き)
 アイドルとしてのスタンスは割と加藤さんと近くて、自己プロデュースされた「アイドル」という鎧を着込んでいるわけでもないように見える。しかし、加藤さんほど「人間」の部分が剥き出しではない。「アイドル」という鎧を着込んでいるわけでもなくて、「人間」が剥き出しなわけでもなくて、一体そこにいるのは誰だ?と時折思ってしまう。
 ラジオ番組「KちゃんNEWS」を例にして考えてみると、手越さんがゲストのときは対手越さん用小山さん、加藤さんがゲストのときは対加藤さん用小山さん、増田さんがゲストのときは対増田さん用小山さんがいるように感じる。それぞれがまったくの別人というわけではないけれど、違う顔を見せているように思える。園使い分けは相手の良さを引き出すために必要なことだし、小山さんはその引き出し方が上手い。
 きっと、小山さんはたくさんの顔を持っているのだと思う。というか、対する相手によって己を柔軟に変化させることができる人なのだと思う。裏表とか二面性とかいうほど極端なものではない。誰もが自然にやっている使い分けの延長線上にある。
 人間は誰しもTPOによって自分を使い分けている。親に対する自分と友人に対する自分は同じだけれど違う。小山さんはそういった「自分」を、たくさん持っているのだと思う。対人用の小山さんが対する相手の数だけいるような気がする。自己プロデュースした「アイドル」という印象を受けないのは、アイドルであるときの小山さんは常に「ファン」に対するときの小山さん=対ファン用小山さんであって、対人用の小山さんのうちのひとつ、といった感じがするからなのかもしれない。加藤さんほどの剥き出し感がないのも頷ける。
 この舞台で、小山さんは「篠崎」という人物を演じる役割を背負っていた。(今考えてみたら、篠崎も対真田・対長谷川と対マックスでは違う顔を持っていた。)
 最後のほうで、桜をバックにしてマックスに向かって(客席に向かって)語りかけるシーンで、あのときの小山さんは剥き出しの小山慶一郎に近いものが透けて見えていたのかもしれないなと感じた。というのは、あのときの彼は誰とも対面していなかったからだ。「なぁマックス」と語りかけてはいたが、彼の視線の先にマックスはいない。客席のほうを向いてはいたが、メタレベルでいえばそこには客席があるけれど演じている篠崎という人物の前には多分何もない。小山さんの視線も、客席というよりはもっと遠くを見ていた。あのときの小山さんは誰とも対面していなかった。対面していないなら、対人用であることはできない。
 アイドルでもなく、キャスターでもなく、役者として小山さんは舞台上にいるわけだが、小山さんが演じた「篠崎」は非常に薄いフィルターのように思えた。アドリブのように見える演技であったり、「every.」「そらジロー」等のメタ発言であったりと、篠崎を演じる小山さんがそこにいることがはっきりと透けて見えている。「自然」であることを目指したために、「篠崎」は意図的に小山さんなのか篠崎なのかわからないようなキャラクターになっているのだろう。
 篠崎は舞台の上で常に誰かに翻弄されていたが、桜を背負って語りかけるシーンでは誰とも対峙していない。対人用の小山慶一郎ではなく、そのままの(=「自然」な)人間としての小山慶一郎が、汗をかいて声を嗄らしているという「生」を伴って、篠崎という薄いフィルターの向こうに少しだけ見えた気がした。
 先程も「この世は舞台、人はみな役者」という言葉を示した。いろいろな顔を使い分け、対する人に合わせて柔軟に変わることのできる(=演じている)小山さんから、「人はみな役者」における「役者」の部分が剥がれる。この「グレート・ネイチャー」は、小山さんがやることによって面白さが深まる作品なのだなと思った。
 
 この作品の映像化や脚本の出版がないのが本当に悔しい。もっと読みこんで、もっと繰り返し見たら、もっとわかることがあるような気がするのに。たとえば「教育」ということについては普段自分がさほど考えていないこともあって舞台を見てもわからない部分があった。
 今年に入ってから、とある役者さんが気になったこともあって今までの人生にないくらい劇場に足を運んで舞台を見るようになったのだが、その中でも印象深い作品のひとつとなった。
 
 あと小山さんのスタイルの良さに度肝抜かれました。カーテンコールでのお辞儀のときの腰の位置の高さのせいで覚えたことも考えたこともだいぶ吹っ飛んだので、支離滅裂でも許して下さい。