読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

来世はペンギンになりたい

好きなものを好きと言うために生きてる

わかりたい/わかられたい ―アイドルという鎧―

 NEWSの12歳の誕生日ですね。おめでとうございます。内容は全く関係のない話ですが、今日なにか記事を上げるなら祝いの言葉くらい添えたいぞということで。

 

 本当は『ピンクとグレー』に関するレポートをまとめたいのですが、他に考えたい話題が沢山出てきて困ります。レポートがちっとも進まない。まぁレポートといっても、学生時代、卒論すら「エッセイみたいで読みやすかったです」「推理小説みたいでした」と後輩に言われていたので、まったくもって客観性がない文章になる予感しかしていないのだけれど、それでも書きたいもんは書きたいのでそのうちまとめます。

 

 今回は「わかりたい/わかられたい」の話です。

 加藤さんの小説を読んだり発言を聞いたりしていると、「このひとは“理解する”ということにとても重きを置いているのだな」と思うことがたびたびある、という話。いつもの通り、思ったことをつらつらと書き連ねているだけです。

 


 

 この人はわかりたいしわかられたい人なんだろう、となんとなくそんな気はしていた。それをはっきり意識したのは、「にべもなく、よるべもなく」を読んだときだ。私には主人公がなぜそんなに親友のことを「わかってあげなくちゃ」と思うのかがわからなかった。今まで生きてきて、そんなに誰かのことを理解しなければと思ったことは一度もない。理解出来る範囲で理解すればいいのに、あの主人公はそれ以上の理解を自分に求めている。

 なぜこんなにも「理解」ということに重きを置いた小説を書いたのだろう、と不思議になった。ということで、「理解」というキーワードを念頭において彼の過去の著作や発言を振り返ってみることにする。

 

・『ピンクとグレー』―わかろうとしないけどわかられたい

 高校生くらいまでは、りばちゃんはごっちを完全に理解できていると思っていたようにみえる。幼少期のエピソードを見ていると、ごっちには自分が不可欠で、彼の中で自分が一番なのだと思っていたような様子が伝わってくるし、決別して以降も、そしてバーで再び話し合うときも、りばちゃんはごっちを理解していると思っているところがある。(以下、『ピンクとグレー』は文庫版から引用)

 彼の二十歳までなら恋愛だけでなく、性体験まで僕は全て知っているはずだ。(p122)

「皆僕を過大評価している」

「そんなことない。俺は誰よりも知っている。そんなことは絶対にない」(p190-191)

 というくらいなのだから、よほど自分はごっちを理解し、ごっちのことを知っているという自信があったのだろう。

 しかし、芸能の世界へ深く踏み込んでいくにつれ、ごっちはりばちゃんが理解していたような人間ではないことが明らかになってくる。今までわかっていたはずのものがわからなくなっていくから、りばちゃんは辛さを感じる。

 そもそも、実際はごっちにはりばちゃんが不可欠というわけではなかった。いないならいないで、それなりにちゃんとやっていけただろう。人間なんてそういうものだし、大人になればなるほど自立して、一人で平気になる。けれどりばちゃんの中でごっちはいつまでも自罰のために毛虫を握りつぶしてしまうような子どもで、石川との別れに号泣するような子どもだった。だんだんと成長して変わっていく彼を、受け入れようとはしなかった。

 彼といると自分が酷く見苦しい。彼に追い越されてしまったようで、僕はよからぬ思いに苛まれてしまう。とにかく一人になりたい。僕はぶちまけるように石川にそう言うと、「わかったわ」とそれ以外何も言わなかった。(p185-186)

 とあるように、芸能界で成功していく彼を、おいていかれる自分を、受け入れることができなかったのだ。

 ごっちの中でも、りばちゃんはいつまでも幼少期のままだったように思う。ごっちの中ではずっと、ごっちの隣を歩くべき人物はりばちゃんだった。りばちゃんはごっちが変わってしまったことに打ちひしがれ、ごっちはりばちゃんが変わらないことに希望を見出す。実際のところ、りばちゃんが変わっていないということはない。りばちゃんもまた、成長の過程で変化している。しかしごっちの目にはそれが映らない。

「変わったな、ごっち」

「変わらないね、りばちゃん」(p190)

 ごっちはりばちゃんを、りばちゃんはごっちを、お互いに理解しようとしない。自分の中に作り上げた「ごっち」「りばちゃん」を見続け、相手に求めることは言葉にせずとも伝わるはずだと思い込んでいた。要求は言葉にしなくては伝わらないのに、かつて分かりあえていたはずだからという理由で今も分かりあえていると思い込んでいた。だからこの二人はすれ違ってしまった。本当は、その「かつて」の時点でだって理解しあえていたかどうかもわからないのに。

 六枚の遺書からひとつ白木蓮吾にふさわしいものを選んでくれというりばちゃんの要求はまさに一方通行だと思う。それでも、遺書を託されたことで、りばちゃんはやはり自分がごっちの一番だったのだという自身を取り戻したように見える。

 ごっちもりばちゃんも、相手のことをわかろうとしないくせに、自分のことをわかってくれと要求する。その要求のほとんどを言語化しないで行動だけ起こすから、上手くかみ合わなくなってしまったのだ。

 対話を怠った二人はすれ違ったままで終わりを迎える。ごっちが死んでしまった以上、相互の理解はもう得られない。たとえりばちゃんの中にごっちを蘇らせたとして、それはりばちゃんの解釈を通して再構築されたごっちだ。どれだけ精巧に再構築しても、りばちゃんからごっちへの一方通行の理解でしかない。

 

・「にべもなく、よるべもなく」―わかれないけどわかりたい

 『傘をもたない蟻たちは』書き下ろし短編「にべもなく、よるべもなく」。主人公・純は理解しようとする。男の先輩への恋心を打ち明けた幼馴染・ケイスケに対して、

「僕がケイスケを理解してやる。」(p212)

と決意する。理解する為にいろいろな行動を起こすが、結局のところどれも上手くいかない。理解できないことに苦しみ、理解できない己を罰そうと海へ入る。

「理解なんかしなくていいんだよ。僕は純ちゃんと違うんだ。でもそれでいいんだよ。違くたって僕は純ちゃんの友達だし、僕は純ちゃんが好きなんだよ。理解なんて、僕らの間にはなんの意味もないんだ」(p245-246)

とケイスケに許され、助けられなければ、彼は死んでいたかもしれない。

 「にべもなく、よるべもなく」を読んでまず、そんなに理解しようとしなくたっていいのではないか、と思った。わからないものはわからない。それでいいんじゃないのか、と思った。先程引用したケイスケのような考え方を持っているべきなのは、ケイスケではなく純のほうだったのではないか。

 僕が理解してやらなきゃ、というのはただのエゴでしかない。読んでいて、純の抱える悩みは傲慢だとさえ思った。もしかしたらケイスケには純の他にも理解者がいたかもしれない。けれどきっと、他に理解者がいたら嫌なのだろう。彼はケイスケの一番でなければ駄目だったのだ。作中作である「妄想ライン」が終わってすぐに、物語は純の一人称で始まるが、はじめてケイスケが登場する場面では「親友のケイスケ」(p198)と書かれていることからも、純はケイスケに対してただの友達よりも親しみを抱いていることがわかる。『ピンクとグレー』に出てくる言葉を借りるなら、「それは恋とか愛とかの類ではなくて」(p45)だ。

 「にべもなく、よるべもなく」を読んで、私は『ピンクとグレー』を連想した。それは単に主要な登場人物が少年(男性)二人であるということだけでなく、主人公が「自分は友人を完璧に理解できていた、一番だったはずだ」と思っているというところにも理由がある。りばちゃんはごっちを理解できていると思っていたし、ごっちには自分しかいないとさえ思っている節があったように見える。「にべもなく、よるべもなく」でもまた、純はケイスケのことを完璧に理解できていると思っていたし、自分が相手の一番であると思っていた。違うのは、『ピンクとグレー』ではごっちもまたりばちゃんに対して同じことを思っていたところがあるように見えるのに対し、「にべもなく、よるべもなく」ではケイスケがそこまでの感情を純に抱いていたかどうかが不透明であるという部分だ。

 『ピンクとグレー』ではすれ違ったままでもお互い生きていく道があった。少なくとも、すれ違いを感じてから数年間は。それに、ごっちが生きていけなくなった理由は、りばちゃんとの理解の不足ではない。(世間との、あるいは己の理解する己と白木蓮吾との理解の相違はあるのかもしれないが。)

 しかし、「にべもなく、よるべもなく」の純にはその余裕がなかった。「にべもなく、よるべもなく」の舞台は島という閉鎖的な空間であり、純とケイスケは中学生だったからだ。『ピンクとグレー』の二人は都会に暮らしていたし、すれ違いを感じ始めたのは大学生になってからだった。大学生ともなれば、互いに依存しないと生きていけないという姿勢を、(表向きには)取らずにいられる年齢だろう。だが、閉鎖的な空間で暮らしている上に思春期の只中にある純には、そんな余裕はなかった。私が住んでいるのは『ピンクとグレー』的な都会なので、閉鎖的な空間の生活は想像するしかないのだが、それでも、母方の祖母の暮らす田舎へ行ったときに聞かされる母やその周辺の話は、人と人との距離がとても狭いと感じる。きっと、純の通う中学校の規模も都会よりは小さい。そういった環境の中で、純は、親友と呼べる相手のことがわからなくなってしまった。一番ではなくなってしまった。

 工藤先輩への恋心が発覚した時にもあったのだけれど、心の奥の奥の奥の奥に、どうせなら僕を好きになってほしかった、という思いがなくはないのだ。実際に好きになられたら困るし、僕は女の子が好きだけど、でもケイスケの恋愛対象が男ならば僕はその中にいたいと思う。でもそれってなんなんだろう。僕の方がケイスケを知っている、という独占欲からくるもの? それってマジ気持ち悪い。(p219)

 という純の思いが描かれているが、それもまた純がケイスケにとって特別な存在でいたかったことの表れだろう。「それは恋とか愛とかの類ではない」のだが、「恋とか愛とかの類ではない」何かを名づける言葉が純の中にはない。ないのなら、恋や愛の類に置き換えるしかない、ということのように読み取れる。

 純はケイスケの一番でいたかった。でも理解できなくなったことで一番でいられなくなった。もう一度、一番になるために、彼は理解しようとした。けれどももう二人の道は違っていて、いくら理解しようと思っても溝が深まるばかりだった。

 本当に彼がすべきだったのは、理解ではなく受け入れることだったのだと思う。ケイスケが示したような、「理解なんかしなくていいんだよ。僕は純ちゃんと違うんだ。でもそれでいいんだよ。」(p245)という姿勢でいたらきっと関係は壊れずに済んだ。しかしそういう姿勢でいるには、純は幼すぎた。思春期のやり場のない気持ちの発露が「僕がケイスケを理解してやる。」だったのだろう。

 実際のところ、ケイスケは純の理解を必要としていなくて、純が勝手に空回っているだけだった。水泳の練習をしているケイスケの背中を見ながら、「どうして僕が置いてけぼりになっているんだろう。」(p234)と純は思う。純の中では、工藤先輩と別の男の先輩のキスを見てしまって泣いているケイスケを見た日から時間が止まっている。しかし、本当は時間は止まったりしない。純が止まっている間に、ケイスケは大人になっていく。

 純は、わからなければならない、と思いこむ。なぜなら幼馴染は親友だから。一番だから。わからないなら、もう友達でいられない。だから、わからなくちゃいけない。でもわからない、の繰り返しから抜け出せない。大人になる親友に置いていかれながら、ぐるぐるとめぐり続けていた。この面倒くささがまさに思春期といえよう。

 『傘をもたない蟻たちは』公式サイトで公開されている加藤さんと朝井リョウさんとの対談の中で、加藤さんは

その短編は幼馴染みが同性愛者だと知って戸惑う少年が主人公ですが、書きたかったのは「理解したいけれど理解できない」という気持ちでした。中高生の頃って、急激に変化する友達についていけなかったり、逆に自分が先に変わってしまうことがありますよね。そのぐらついた部分を表現したかったんです。

と語っている。

 たぶんその「理解したいけれど理解できない」は、ある程度までは時間が解決してくれるものだったのだろう。理解できないものを受け入れることができるくらいに成長したり、理解できるようになったり、解決の仕方は様々だろうと思うが、それでも解決してくれる部分はきっとあった。無論、何もかもが解決するわけではないけれど。

 けれど、中学生の彼らは将来なんて考える余裕がないくらいに「今」を生きていて、今この瞬間に「理解したいけれど理解できない」という状況に陥っていることが問題だった。今解決できないなら意味がないのだ。純の抱える思いのやりきれなさは、今解決しなければならないのに今は解決できない、というところにもあるだろう。

 「にべもなく、よるべもなく」に出てくる「理解」についての考えがそのまま今の加藤さんに当てはまるとは思っていない。けれど、もしかしたら彼が思春期だった頃はこういった思いがあったのかもしれないな、とは考えてしまう。

 

・アイドルという鎧

 『ピンクとグレー』「にべもなく、よるべもなく」の2作を「理解」という観点から見てみた。そのうえで、加藤さんは理解したいし、されたい人だと思う。彼の中で、理解する/されるということは優しさや安心と繋がっているのではないだろうか。だから、理解しようと努めるし、理解されようという努力もする。

 spoon. 2012年2月号のインタビューで、赤裸々に話す姿勢について、加藤さんは次のように答えている。

――まず、ああいうぶっちゃけ発言が今回の小説執筆にも繋がっている気がするんですけど、なんでああいう赤裸々というか、一歩踏み込んだ発言をするようになったんですか?

「ここ2~3年はありましたね。なんか、わかってほしかったんじゃないですかね」

――わかってほしかった?

「うん、自分のことを誰かにわかってほしかった。ON・OFFがある人っているじゃないですか。自分を演じるような人。僕はそういうことがあんまりできないんですよね。だから自分の思っていることと違う方向に進んでいくと言いたくなったりするんじゃないですかね。(後略)」(spoon. 2012年2月号 p28)

 「2~3年」とあるが、今もその気持ちは変わっていないように思える。

 加藤さんの言葉を見ていると、時々「そこまで言わなくていいよ」「そんなに言って大丈夫?」ということも出てくるが、それはここで答えているように、「わかられたい」気持ちの発露なんだろう、と思うことにしている。

 加藤さんは時々、テレビやラジオでの発言に対するファンからの反応について、本当はこういう意図で言っていた、という説明をすることがある。こういったことについても、自分の発言の意図が歪んで伝わっているのなら正しく伝えたい=わかってもらいたい、という気持ちからなのだろうか、と勝手に推測している。

 理解したいし理解されたい加藤さんは、ファンとも「対話」しようとする。それが理解し合うために必要なものだと思っているから。

 本来、アイドルの発言に対してファンが反応するということは「対話」にはならないはずなのだ。一対多のやりとりを、対話とは言わない。なのに、加藤さんは対話をしようとする。ひとつひとつの意見に真摯に答えを返そうとする。

 きっと加藤さんは嘘がつけない人だろう、と彼の言葉の端々から感じる。アイドル・加藤シゲアキと人間・加藤成亮は多分限りなく近い。先程のインタビューから言葉を借りるなら、「ON・OFFがある人」を上手くやることができない。少なくとも、NEWSのメンバーでは最も。

 アイドルとして自分をプロデュースすることは、端的に言ったら「嘘をつくこと」になる。それが悪いことだとは、私は思わない。むしろ、アイドルのひとつのあり方として正しいと思う。以前、「タイプライターズ 物書きの世界」の中で朝井さんが言っていた、「応援してるんだけどいい生活はしてほしくない」というような「両立出来ない欲望みたいなものをとにかく叶えなきゃいけない存在」というのをまさに体現しようとすれば、アイドルとして自分をプロデュースすることになるだろう。

 アイドルは、「アイドル」という鎧を着て我々の前に姿を現す。それはとても重たい鎧かもしれないが、彼らを守るものでもある。プロデュースされた鎧は人間の姿をデフォルメしたものとも言えて、キャラクター設定が明確で、わかりやすい。その鎧を着込むことは、先程も述べたがアイドルのあり方として正しいものだと思う。相手も自分も傷つけないために。アイドル本人も、そのファンも、わかりやすい鎧の部分を共通認識としてもっていれば、理解の齟齬は起こりにくい。

 だが加藤さんはそれを自分に対しては良しとしていないように見える。『ピンクとグレー』で白木蓮吾が「白木蓮吾はここではなく、鑑賞者の中にある。」(p190)と語っている。きっと加藤さんは、鑑賞者の中にある加藤シゲアキと自分の思い描く加藤シゲアキの齟齬をなるべくなくしたいのだろうと思う。しかし、加藤さんの思い描く加藤シゲアキは、鎧を着ていない姿に限りなく近い。単純化されていなくて、複雑な姿。

 もし、鑑賞者の中にある加藤シゲアキ像と自分の思い描く加藤シゲアキ像がずれていたら、誤解のないようにと鑑賞者と対話しようとする。けれど、齟齬のないようにと言葉を尽くして説明しても「加藤シゲアキ」という像は非常に複雑で、なかなか理解が難しい。デフォルメされていてわかりやすい鎧よりも、無防備な人間に近い姿だから。

 鎧を着込んでしまえばいいんだよ、と思う。でないといつか、鎧ではなくて枷になってしまって、苦しむことにならないかな、と心配になる。余計なお世話かもしれないけれど。

 それでも鎧を着ることなく、理解されたいと思っているのなら、私は加藤さんのことを理解したいと思う。理解したいから、こうやってあれこれ書いているのだろう。