この世にたったふたりのふたり

 あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。当ブログでは私の主観を通して見る私の好きなものを今年も書き綴っていこうと思います。
 というわけで新年早々シンメの話をします。

 

 

 突然だが私はシンメが好きだ。
 シンメトリーという言葉から生まれた単語で、主にジャニーズ界隈で使用される「シンメ」という言葉。はてなキーワードの説明文を見てみると、ダンスの位置が左右対称である程度の意味しか説明されていないが、多くのジャニオタにとって「シンメ」はそれ以上の意味を持つ。それも、言語化するのが非常に困難な意味を。「担当」という言葉に費やす情熱を上手く言語化できないのと同じで、「シンメ」という言葉も表面的な意味以上の意味をもっている。
 
 あくまで個人のシンメ観に基づき、どう思っているかを言葉にしておこうと思う。
 
 本人たちの意思に関わらず決定されるのがシンメだ。こいつがいいと思っていようが、誰だこいつと思っていようが、選択肢なんかない。運命も偶然もない。あるのは上の人の思惑だけで、それもあるんだかないんだかよくわからない。何を基準に決められたのかわかるシンメもあればわからないシンメもある。そういう漠然と混沌の中からシンメは生まれる。
 最初は互いに自分の人生の「その他大勢」だったかもしれない相手が、いつしか唯一無二になる。どれだけ世界が広がって関わる人が増えていっても、互いの特別さは揺るがない。私の好きなシンメはそういった関係性だ。

 

 

・シンメの入り口

 私がシンメの魅力に気付いたのは関ジャニ∞のヨコヒナである*1
 横山さんが構成を考えていたエイトレンジャー(映画じゃなくてコンサート内で披露されるコントのほう)は、概ねナスレンジャー(村上さん)がキーマンとなっていた。村上さんもそれに応えるだけの力を持っていたし、横山さんは誰よりも村上さんを活かすことができる人だと思う。
 私は基本的には「ドッキリ」というものがあまり好きではない(人が恥をかかされ笑われる様子を見るのが嫌)なので、PUZZLEのDVD特典として収められている「Babunマン」を初めて見るときはすごく緊張した。次々と仕掛ける横山さん。次々と騙されていく村上さん。こんなに素直に騙されて、ネタばらしされたときにひどく傷ついてしまうのではないかと怖かった。
 しかし、ネタばらしをされたときの村上さんの第一声は「俺いまめっちゃおもろいやん!」だった。やばい、この人すごい、と思った。しかし、村上さんがこれだけ面白くなったのも、村上さんに嫌な思いをさせないのも、仕掛けたのが横山さんだからだ。長年一緒にやってきて信頼関係を作り上げ、村上さんを知り尽くしている彼だからこそできることで、他の人には絶対にできない。仕掛ける側が横山さんで、騙される側が村上さんでなければできない。その圧倒的シンメ力に私は完敗したのだった。別になんの勝負もしてないけど。
 村上さんも村上さんで、横山さんのちょっとだらしない部分をしっかりサポートする。ファンが見ることのできる部分では、トークの場面などで発揮されることが多いように思う。最近ではなかなか目にする機会がなくなってしまったが、かつてのレコメンやヒルナンデスなどでよく見られた。
 どちらが前に出てどちらが一歩下がるか、その配分が抜群に上手い二人。その配分を、頭で考えているというより体に染みついた技であるように見えるところが、二人の唯一無二感を更に印象付ける。二人の唯一無二を見せつけられたとき、心が動かされる。これが「尊い」という感情なのかもしれないと思った。これが私のシンメの目覚めである。

 

 

・ジャニーズ以外におけるシンメ的な存在

 ヨコヒナを通してシンメの魅力に気付いた私は、以前からこのシンメに似たものを知っているということにも気付いた。
 ポルノグラフィティのお二人である。ボーカル、ギター、ベースで構成されていたスリーピースバンドは、デビュー5周年を迎える前にベースを欠くこととなった。いつのまにか、二人の期間が三人の期間に並び、追い越し、今では倍以上となった。
 高校時代、ギターの新藤さんがバンドを組みたくてメンバーを探したのがきっかけとなって結成されたという意味では自分たちの意思で組まれたバンドだが、その頃には二人になるとは思っていなかっただろう。デビュー前にドラムがいなくなり、デビューから5年してベースがいなくなった。二人になる予定はなかったのに二人になった。そういう意味で、成り立ちはシンメと似ていなくもない。
 三人から二人になるとき、解散も考えたのだという。どちらかの家で話すのも店で話すのも気まずくて、二人の家から真ん中くらいにある公園で話しあったというエピソードが、2013年になって語られた*2。二人になったのが2005年のことで、随分あとになってこのエピソードを知った私はとても怖くなった。二人が今の"二人"でなかった可能性が十分にありえたことを、今更になって知らされたことがとても怖かった。

 新藤さんと岡野さんは、二人で続けていくことを選んで今に至る。新藤さんはバンドをやりたくて高校時代にバンドを組んだのにドラムが抜けベースが抜け、ぎりぎりスリーピース「バンド」と呼べていたものがもう呼べなくなった、という話を当時のエッセイに書いている。メンバー加入や解散して新たなバンドを組むことも選択肢にはあったのかもしれない。それでも、彼らが選んだ道はバンドという形態を捨てて二人で「ポルノグラフィティ」を続けるというものだった。
 シンメ的な尊さは、"二人"であることを強いられた二人が、"二人"であることを選びとるところにある、と私は思っている。ポルノグラフィティが二人になった経緯はまさにこの尊さに当てはまる。ジャニーズのシンメのように小さい頃から時間を共有しているわけではないが*3、互いに互いを活かしあう関係を築いている。
 新藤さんがメンバー紹介で岡野さんを紹介するとき、「俺の最高の顔見知り」と表現したことがある。近くもなく遠くもない、あるいは近くて遠い、二人の関係性を示すとても優しい言葉だと思った。
 ポルノグラフィティが三人のままだったら、きっと今と同じように好きでいるだろう。しかしもし解散してそれぞれ別に音楽をやったとしたら、私はそれを好きにはならないだろう。
 実際、新藤さんが現在やっている別ユニットには興味がない*4。どちらかといえば新藤さん寄りのファンであるにもかかわらずだ。私が求めるのはポルノグラフィティの新藤さんで、それはつまり岡野さんの隣でギターを弾く新藤さんだ。私にとっては「ポルノグラフィティ」でなければ意味がない。
 しかもこの前のシングル「LiAR/真っ白な灰になるまで、燃やし尽くせ」はその構成から既にシンメみたいな構造だしね!みんな聴いてね!

 

penguinkawaii.hatenablog.com

 

 

 

・シンメ×2で構成されるNEWS

 テゴマスは「歌」を軸に結成されたシンメだ。テゴマスとしてのCDデビューからもう10年が経った。
 二人の歌声はお互いを活かしあう。テゴマスの歌声を語るときに必ず言ってしまうのだが、手越さんの声は高く響き、増田さんの声は広く響く。二人で歌えば、縦と横に声を響かせることができる。声が混ざり合いながら、しかし混ざり合いすぎることはなく、互いの声がちゃんと独立して聴こえるのに、ひとつの音楽として成り立つ。NEWSでは様々なパターンのペアでのハモりがあるが、単純に音だけ聴いたときに互いを活かしあう声の組み合わせというとテゴマスに勝るものはない。
 テゴマスを指して「戦友」と呼んでいる場面を時折見かけるが、まさに二人は歌を武器にして闘ってきたように思える。歌を軸に結成されているからこそ、歌で負けてはならない。「テゴマスの青春」コンサートにてアカペラで披露された「青いベンチ」を聴いて、二人が歌に自信を持っていること、互いの歌を信頼していることが伝わってきた。
 しかし、歌以外の要素に目を向けると、さほど共通点は見えない。キャリアの長いJrだった増田さん、事務所に入ったばかりだった手越さん。昔のエピソードを振り返ってみても、もう一方のシンメのようにべたべたした付き合いはないように見える。
 歌以外で二人に共通点があるとしたら、それは「プロのアイドル」という意識だろう。常に完璧であろうとする姿勢。自分にミスを許さない姿勢。だからこそ二人は「戦友」だ。傷は舐め合わない。傷を負ったって平気なふりをする。共に戦う仲間でありながら最大のライバルでもある。
 テゴマスの現場は青春コンしか行っていないが、そこで見たMCが二人の関係性を示しているようでとても微笑ましかった。「月の友達」に出てくるキャラクターを「うーちゃんって名前にしよう」と提案する増田さんと、「もう終わった公演では月の友達って言ってたよね?」と戸惑う手越さん。結果、よくわからないままその話題は終わる。投げっぱなしである。
 サイリウム型ペンライトについての説明も、「青春といえばサイリウム、次の日には消えてしまっているのがまた青春」という増田さん、一方で「もったいないでしょ」という手越さん。そしてその間をとって作られた、サイリウム型ペンライト。
 お互いに、いまだに未知の存在であり続けているのだろう、と思う。お互いのことはわからないしわかってほしいとも思っていない。相手の歌声を知っていればそれだけでいい。「QUARTETTO」オーラスのMCで加藤さんと小山さんがトイレに行っているあいだ、即座に歌って場を繋ぐことを決めてその場で音合わせをして歌っていたのも、二人の信頼関係を見せつけられたような感じがした。
 二人の関係性をイメージするとき、「背中合わせ」だと思う。お互いのことは見ていなくても歌声は届く。そこにいるのがわかるから、背中を預けて闘える。二人にあるのはそういった信頼関係だ。でも私知ってるよ、増田さんの「話題がファッションしかない」というところに唯一触れられるのは手越さんしかいないってことを。離れようとしても磁石みたいにくっついてしまうふたりだってことを。
 
 NEWSのもう一方のシンメ、コヤシゲはイメージでいうなら「向かい合わせ」。向かい合ってお互いのことをひたすらよく見て、お互いのことを誰より理解できていると言外に思わせるような、そんなふたり。
 2017年初頭、いきなりコヤシゲがシンメたる所以を見せつけてきた。「有吉・櫻井 THE夜会」で放送された二年振りの夜会にて、2011年の話が出てきた。「2人になってもNEWSやろう」という加藤さんからのメールの話をして小山さんは「(シゲは)俺の事を大事に思ってくれてる」と言っていた。
 自分が誰かから大事に思われていると実感できることってそうそうあるわけではないし、すごく幸せなことだと思う。しかもそれが、仕事上最も身近なところにいるメンバーなのだからきっと幸せなことだろうなと思う。更にはそれを言葉にして相手に伝えているのだから、なんかもうすごいな、としか言葉が出ない。加藤さんも加藤さんで「その想いは変わってない」と小山さんの言葉に被せ気味に断言する。相思相愛という言葉すら安っぽく思えてしまうくらいに、ふたりの間にはふたりにしかわからないものがあるのだろう。
 小山さんが加藤さんの言葉に嬉しそうに頷くのも、とてもいいなと思った。きっと小山さんにとって加藤さんは、欲しいときに欲しい言葉をくれる人なのだろう。そういう相手になんて、なかなか巡り会えるものではない。それが同じグループにいるということ、しかもシンメであることって一体どれほどの奇跡なんだろう、とどこかで聴いた歌詞のような感想を抱いた。
 また、NEWSが4人でやっていけるかどうかというときに、加藤さんは小山さんのサポートに徹したという話(詳しくは2015年Myojoの1万字インタビュー、2012年+act mini vol.19等)もぐっとくる……というかむしろ、どちらかというとぞっとする。「俺がどうしたいとか、いい。この4人でいられたら、それでいいって結論で、」*5と加藤さんは語っているが、もしそれで小山さんが諦めてしまったり上手くいかなかったりしたときはどうするつもりだったのだろうか。勿論小山さんのバックアップをしているのだから何もしていないわけではないけれど、基本的には小山さんのやりたいことをバックアップするのであってそこに加藤さん自身の意思が反映されているわけではない。決して軽くはない自分の行く末を他者にまるごと託すことができるなんて正気の沙汰じゃない、と私には思えてしまう。だって、何があっても自分のせいにできるんだから、他者を信じるより自分を信じたほうが楽だし。でも小山さんと加藤さんが築き上げてきた信頼関係の中では行く末を託すことが可能だったんだろうと思うと、私には絶対にわからない未知の領域なんだと白旗を降るしかない。
 コヤシゲは自分たちの関係を「親友」「ソウルメイト」と表現する。私にはそう呼べる関係の人がいないから、一体どんな気持ちで自分たちの関係に「親友」「ソウルメイト」という名前をつけるのかよくわからない。きっとそこにはふたりしか知らないことがあるんだと思う。2015年Myojoの1万字インタビューで、加藤さんは小山さんに言われて心に残っている言葉を教えてくれなかったくらいだから。
 言葉にするのが難しいけれど、このふたりは互いへの執着が強いように思える。きっとふたりで手を取り合わないと乗り越えられないものがあったのだろう。私が知るすべもないことだけれど。
 


 
 私はシンメが大好きなのでシンメにばかり目が向いてしまうけれど、今のNEWSはシンメ以外でペアを組むことも多い。新曲「EMMA」は小山さん・手越さん/増田さん・加藤さんでAメロBメロの歌割が対照的になっていて、なんだか新鮮に感じた。今後はもっと多くなってくるのだろうと勝手に思っている。しかしだからといってシンメのよさが失われるわけではない。シンメ以外のよさが更に発見されるだけのことだ。

 

 なぜこんなにもシンメに惹かれるのか。私とは全く関わりの無い他者同士の人間関係を取り上げて語るなんて気持ち悪いなと思いながらもやめられないくらいに惹かれている。
 他の人がどうなのかはわからないのであくまで個人的な考えを述べると、「自分は絶対に手に入れられない関係」だからだと思う。
 友達よりも密で、ビジネスパートナーとしても成立している。最も近くにいる味方であり、最も近くにいるライバルでもある。シンメとは、非常に特殊な関係性だ。そもそもそういう関係性は、一般の世界に生きていて生まれるものではないのだろう。芸能界という特殊な場所だからこそ生まれる。
 私はそもそも中学までの知り合いとは全く連絡を取っておらず、高校からの友人が数人、大学からの友人が数人、それ以降に(主にネット経由で)知り合った人がそこそこの人数、といった交友関係の中で生きている。その中に、「親友」と呼べるほど特別な誰かはいない。信頼を置いている友人たちはいるが、それは「親友」とはまた違うと思う。ジャニオタの方々がよく言う「相方」という存在もいない。私に見えている世界は私だけのものだから他者とは共有できないものだけれど、それでも隣に誰かいたら違うのかな、と思うことはある。
 ないものねだりはよくないと思いながら、私は今日もシンメに惹かれる。

 

 

*1:丸山さんが一番好きだが、シンメとして一番好きなのはヨコヒナ

*2:ポルノグラフィティが語る“メンバーの脱退”と“分岐点”に、SMAP・中居も共感。 - エキサイトニュース

*3:とはいえ高校の同級生ではある

*4:はじめはCDこそ買っていたものの積極的に好きにはなれなかった。だからといって嫌いだとかやめてくれだとか思っているわけではない。自由に楽しくやってくれればそれでいい

*5:+act mini vol.19 インタビュー

さよなら私の亡霊

 勢いだけで書いたはいいけれど、どこかに置き場が欲しかったのでここに置いておきます。あとで消すかもしれない。

 

 

 ポルノグラフィティの歴史を紐解いていくと、Xというバンドの名前が出てくる。高校生の頃、彼らがコピーしたバンド。文化祭でやった「紅」という曲の話。友達がスモークの代わりにドライアイスをたいてくれたとか、父ちゃんの釣りベストを裏返して着ていたとか。
 そんな彼らがニコ生のYOSHIKI CHANNELに出演することになった。これは見なければいけない、と私の中から声がした。今まで一度もニコ生の有料放送は見たことがなかったし、そもそもニコ生すらほとんど見たことがなかったけれど、とりあえず864円を払えばいいということだけ把握したのでチャンネルに入会し、始まるのを待った。


 正直なところ、YOSHIKIさんについては「X(X JAPAN)というすごいバンドのすごい人」という認識で、「すごい人」というのはわかっていたしテレビで演奏を見てすごいなと思ったけれど、リアルタイムで楽曲を聞いていたわけではないので深くは知らなかった。「ポルノの、特に新藤さんの憧れのバンドの人」という認識だった。
 始まってすぐ席を外さなければならなくて、戻ってきたのは12時50分くらいだったと思う(前半の話もとてもよかったと聞いたので早くタイムシフトが見たい)。慌ててPCの前に駆け寄ると、ちょうどセッションが始まる直前だった。
 岡野さんも新藤さんも、緊張しているのがすぐにわかった。途中から見始めたけれどリハなしであることもすぐにわかった。YOSHIKIさんがピアノの前に座り、何かを弾き始める。何度も何度も、私の人生の半分以上聴き続けたメロディだった。サウダージ
 岡野さんが歌い出して、新藤さんもギターを弾き始める。聴き慣れた曲が新たな色合いを帯びている。しかしだんだん合わせるのが難しくなり、岡野さんの歌が途切れる。困った岡野さんが新藤さんを見ると、ギターの音がメロディを先導して岡野さんの歌声とYOSHIKIさんのピアノを繋ぎ止めた。曲が終わり、YOSHIKIさんがサウダージを好きだと言ってくれた。私の憧れの人の憧れの人が、私の憧れの人を認めている。すごい瞬間を目にしている、ということだけはわかった。歴史が刻まれた瞬間を目撃してしまった、と思った。
 そしてもう一曲、今度は「ENDLESS RAIN」。岡野さんは歌い出しから歌が上手くて、歌が上手い以外の言葉が出てこないくらい歌が上手かった。原曲はテレビで聴いたことがある程度だったけれど、ニコ生のコメントを見る限りキーを下げてあったようだった。そのせいか、YOSHIKIさんは少し弾きづらい部分もあったのかもしれないけれど、とても楽しそうな顔で演奏しているように見えた。新藤さんが弾いたギターソロはとても優しい響きだった。どこか誇らしげにギターを弾く新藤さんの姿。コメントを見ると、「完コピだ」という言葉がいくつも見えた。かつてギター少年だった頃の新藤さんの姿が、一度も見たことがないはずなのに見えた気がした。憧れと共に、憧れを演奏しているから、あんなにも誇らしげだったのだ。ギターが始まる前のところから完コピしてたんです、と話す新藤さんはとても楽しそうだった。
 セッションが終わり、YOSHIKIさんはポルノの二人にツアーがあるのかどうか尋ねた。あったら行きたいということも言っていた。新藤さんは「昔の自分と邂逅できた、誇らしい気持ちだった」というような内容を話していた。私の見たものは間違いじゃなかったんだ、と思った。記念撮影のときは、二人ともまるで少年のような、とてもいい表情をしていた。


 ポルノが出ている第一部が終わった。なんだかとても、晴れやかな気持ちだった。
 なぜこんなにも晴れやかなのだろうと思ったけれど、それは多分私の中にいた亡霊が成仏したからだと思う。
 私もかつて音楽ですごくなりたいと思ったことがあったし、文章を書くことですごくなりたいと思ったこともあった。すべて、ポルノグラフィティという私の憧れに届きたかったからだ。ポルノグラフィティと共に音楽を奏でられたらと思っていたし、新藤さんの書く文章に憧れていた。中学生の頃の私は、手が届く気がしていた。手が届くといっても、追いつくという意味ではない。憧れと対峙することができるとか、認めてもらえるとか、そういう意味だ。いつかあの憧れに手が届いて、認めてもらえる日が来るに違いないと思っていた。高校生の頃、進路を決めるときまでは思っていた気がする。いつからか、憧れは届かないから憧れなのだと思うようになった。私にはそれだけの実力が備わっていなかったし、それ以上はどう努力すればいいのかわからなかった。
 でも、私の憧れの人は、憧れの人に出会い、ちゃんと届いた。音楽が届いて「この曲が好き」と言われたり、「ツアーに行きたい」と言われたりしていた。とても楽しそうな顔で演奏をしていた。私はそれが嬉しくてたまらなかった。
 私の憧れの人が憧れの人に届いたことで、憧れに届きたかった私の亡霊は静かに成仏していった。だって私は自分でその道を断ったのだ。これ以上は努力してもどうにもならないだろうと諦めた。多分やろうと思えばいくらでも努力する方法はあった。だけど私はそれを選ばなかった。その決断をしたのは間違いなく私だ。そうやって、私は憧れに届きたい私を殺した。
 間違った選択だったとは思っていない。後悔もしていない。だけど、行く宛てのない気持ちは亡霊となって残ってしまっていた。私もあんなふうに音楽をやりたかったし、あんなふうに言葉を紡ぎたかったし、できると思っていた。そうだったね、そんなふうに思っていた日々もあったね。
 この生放送を見なくちゃいけないといった声は、私の亡霊のものだったのかもしれない。憧れの人が憧れの人に届くのを見届けて、とても優しくてあたたかな気持ちで満たされて、私の中を彷徨っていた亡霊は今夜消えた。だからこんなにも晴れやかな気持ちで夜中の3時を迎えているのだ。だからこうやって時折目元を拭いながらこの文章をしたためているのだ。

 

 さよなら、私の亡霊。
 なんだか今年はいろんなものとさよならをした気がする。ちょっとずついろんなことを過去にしていく。振り返ってみたら、こんな私でももうそこそこの年数を生きてきたらしく、相応にいろんな出来事があった。少しは大人になれただろうか。どうだろうな。まだわからない。
 そろそろ寝なくちゃ。

 

 いてもたってもいられずiTunesで「ENDLESS RAIN」を購入した。新藤さんが誇らしげに弾いていたギターソロを思い出して、つい口元が綻んで、またちょっとだけ涙が出た。

 

 

加藤シゲアキ作品における文章表現の面白さ #にゅすほめ #しげほめ

 レポートみたいなタイトルになってしまったけれど、#にゅすほめ の参加記事です。

www.adventar.org

 

 

 小説家・加藤シゲアキを推したい!!!!!
 勿論アイドル・加藤シゲアキが第一だけれど、そのアイドル・加藤シゲアキが小説家・加藤シゲアキの顔を持っていると思うと更に好きになる。加藤さんが居場所を守るために身につけた「小説家」という武器を、もっともっと世にしらしめたい。
 つまらなかったりすごいと思えなかったりしたら語ることはできないけれど、面白いしすごいから語るしかない。私が大学生だったら加藤さんの文章表現に就いていくらでもレポートが出せたのに、と悔しくなるくらいだ。どうしても加藤さんの小説についてそこそこ詳細なレポートを書きたい!ていうか読みたいのにない!ないから書くしかない!!!
 もっと素直にしげほめしようかとも思ったけれど、今の私には加藤さんのことはちっともわからないから難しい。でも加藤さんの書いた小説のことなら、少しはわかる。
 そこで、今年のにゅすほめは、加藤さんの小説の文章表現について「ここが好き」「ここがやばい」を語ろうと思う。物語の考察は別の機会にしているので*1、今回は文章表現を中心に書いていきたい。

 ※大学で文学をかじったとはいえ専門的な知識はほぼゼロだし解釈はあくまで個人的なものなので、ひとつの可能性を示すにすぎないものと思っていただければ幸いです。

 

 

 既に出版されている『ピンクとグレー』『閃光スクランブル』『Burn.-バーン-』『傘をもたない蟻たちは』のネタバレには配慮しておりません。「チュベローズで待ってる」については、物語の展開に関わらないような部分(ラジオで言及されたことのある部分)について触れています。

 

 

各作品における文章表現のここがすごい

 長編3作品について、ここがすごい!と思う文章表現をピックアップする。それぞれ「加速」「省略」「回帰」と名付けているけれど、専門用語というわけではなくて私が勝手にそう思っているだけなのであしからず。

 

『ピンクとグレー』における加速

 『ピンクとグレー』はだんだんと加速していく物語だ。読んだ人ならどういうことかわかるのではないかと思う。『ピンクとグレー』は章ごとに現在と過去をいったりきたりするような構成で書かれている。第一章の24歳の時点が物語の軸(現在)となり、第二章では9~11歳(過去)へ飛ぶ*2
 そのため、前半部分はストーリーの進みが遅く感じられる。第一章の時間軸が物語における現在であるため、そこから過去に飛べばページが進んでも物語の中の時間は進まないのだから、話がなかなか進展しないように見えるのは当然のことだ。
 しかし第十章、りばちゃんが同窓会へ行ってごっちと再開するところからは時間軸が物語そのものの時間軸と合致する。そこからの加速がすごい。前半部分の停滞はこの加速を更に強くするためにあったのだと、そこも込みの演出としてこの構成にしたのではないかと思う。時系列を追って物語を書いてもこの加速は生まれない。だんだん速くはなるかもしれないが、ここまでの加速にはならない。現在と過去を繰り返して前半の進行をわざと停滞させたことで、加速し、転げ落ち、それでも止まれない、更に加速していく、そんな制御不可能な疾走感が生まれるのだ。
 停滞していたりばちゃんの物語は、ごっちと再会したことによって動きだし、加速する。ラストをより狂気的に、より美しくするために、27歳と139日目に向かって加速していく。りばちゃんがごっちを演じることで自分の中にごっちを再生していき、自分がりばちゃんなのかごっちなのかわからなくなり、首を吊るシーンを撮影しながら幻惑の世界に陥っていく狂気的なラスト。ごっちが自分で自分を止められなくなっていく様子や、誰も触れない世界にごっちとりばちゃんがいる感じが、この狂ったような加速によって更に強調されている。

ピンクとグレー (角川文庫)

ピンクとグレー (角川文庫)

 

 

 


閃光スクランブル』における省略

 省略、といっても言葉を略しているという意味ではない。文章そのものが省略されていて、そこがとても良い。
 該当箇所は巧と亜希子の逃避行のところ。1カ月にも及ぶ逃避行は最初の長瀞のあたりしか描かれていない。

 あの蛍と星の瞬きから一ヶ月間、マスコミと事務所関係者に追われながらもなんとか巧と亜希子は逃避行を続けた。秩父から上信越自動車道を北へと抜け、新潟から金沢、そして長野、名古屋を抜け、東名高速道路で今二人は東京へ向かっている。

 という短い描写でまとめられている。
 しかしそのあとの巧と亜希子の様子や渋谷で写真を撮るに至ることを考えると、二人にとって悪いものではなかったことがわかる。でも、具体的に何をしていたのかはわからない。巧と亜希子の逃避行は、作者の加藤さんしか知らないし、加藤さんすら知らないかもしれない。
 省略されているということは、きっとこんなことがあったんだろうなぁと想像する余白が残されているとも考えられる。どんなことを考えても正解ではないし、不正解でもない。
 この省略というテクニックは小説に限った話ではなくて映画などの映像作品でも漫画でもしばしば見かけるものだけれど、前作『ピンクとグレー』は時間軸をバラバラにしているものの作中に明確な意図を持った省略は見受けられなかった。何があったのか、主人公であるりばちゃんが知るところの物語は詳しく書かれている。『ピンクとグレー』は読まれることはある程度頭にありながらも(だからこそ加速するような構成になっていたんだと思うけれど)一番の目的は「読まれる」よりも「書きあげる」だったような印象を受ける。出版されるかどうかわからない状態で書いていたし、何より初めて書きあげた長編小説なのだからそれは当然だろう。加藤さんが加藤さんのために書いた、りばちゃんによるりばちゃんの物語が『ピンクとグレー』で、つまり余白を許さない物語だった*3。そんな『ピンクとグレー』のあと、加藤さんはどんな小説を書くのだろうと期待と不安の入り混じる気持ちでいたから、『閃光スクランブル』で読者に物語を委ねてくれたような気がして嬉しかった。当時からメールを送るタイプのシゲ部リスナーだったらめっちゃ送ってたと思う。
 また、文庫版は改稿が行われているが、その際には加筆よりも削除のほうが多く行われている。第一章を見比べてみると、主人公・巧の心内文がカットされており、巧のキャラクターを読者の想像に委ねる余白を生んでいる。

閃光スクランブル (角川文庫)
 

 

 


『Burn.-バーン-』における回帰

 『Burn.-バーン-』を読んで、今までの二作に比べて格段に構成のテクニックが上がっている、と感じた。元々持っている物語を作る発想力や言葉のセンス、書きあげるスタミナに加えて、構成のテクニックが身についている。現在と過去を行き来しながら物語が進行するという構成は『ピンクとグレー』と似ているが、『ピンクとグレー』の場合は読者が知らないことをりばちゃんは知っているということがありえたが、『Burn.-バーン-』は「失った記憶を取り戻すためにレイジが物語を執筆する」というスタイルで進んでいくため、読者の知らないことはレイジも知らない。主人公とともに話を追っていくことで読みやすくなっている。
 『閃光スクランブル』は「ここにこういうテクニックを使っている」というのがわかる部分があったが、『Burn.-バーン-』ではごく自然に取り入れられていた。アイドルの書いた小説が出版されたのではなく、加藤さんは読ませる小説を書く力を持ったアイドルだった、ということが、この本で証明されたような気がしている。「渋谷」と「芸能界」がモチーフとして使われているものの、それらはあくまでモチーフであり主軸ではない。加藤シゲアキという作家の羽ばたきが聞こえるような気さえする一冊だ。
 そんな『Burn.-バーン-』で一番ぐっときた表現が、最初と最後が同じ文、という構成だ。「ただいま」という台詞で始まり、終わる。初めて『Burn.-バーン-』を読んだとき、この仕掛けに気付いたとき、泣くしかなかった。私が加藤シゲアキという小説家を甘く見ていたことを思い知らされたような気がした。なんの不自然さもなくすっきりと、物語は「ただいま」から始まって「ただいま」に落ち着いた。つまり冒頭に戻る=回帰。とても美しいつくりになっている。
 しかし冒頭の「ただいま」と最後の「ただいま」は意味合いが異なる。冒頭の「ただいま」は「ただいまご紹介にあずかりました」を言い淀んでしまった結果の「ただいま」だ。言葉が詰まって途中で切れてしまったがゆえの「ただいま」。一方、最後の「ただいま」は、再び役者として舞台に立つことを選んだレイジの台詞になっている。この最後の「ただいま」は単なる台詞という意味だけではなく、かつて天才子役だったレイジが舞台の上に帰ってきたことへの「ただいま」、成長したレイジから徳さんとローズへの「ただいま」、なくしていた記憶がレイジの中へ戻ってきたことへの「ただいま」など、さまざまな意味が重ねられているように思える。

Burn.‐バーン‐ (単行本)

Burn.‐バーン‐ (単行本)

 

 

 

加藤シゲアキ作品における嗅覚的描写

 私が加藤さんの小説で特に好きなのが嗅覚を用いた描写だ。好きすぎるのでちょっと語らせてほしい。
 私は文章を視覚的にイメージしながら読むということができないタイプ*4なので、残念ながら「文章を読んで頭の中で映像が見える」というのがよくわからない。しかし、嗅覚についてはわかる。加藤さんの文章からはいろんな匂いがする。

 

『傘をもたない蟻たちは』収録「染色」

 『傘をもたない蟻たちは』を読んで、全体的に「なまぐさい」という印象を受けた。感覚的なものなので言葉にするのが難しいけれど、生と死のにおいとでもいうような感じ。「いまを生きる人々の「生」と「性」を浮き彫りにする6編の物語。」というコピーがついていたが、「性」と「生」を描くことで独特のなまぐささが生まれているように思えた。あるいは、そのなまぐささは「死」のにおいなのかもしれない。特に「染色」「にべもなく、よるべもなく」はそうだった。
 
 物語の雰囲気から感じる「におい」だけでなく、文章中にも嗅覚的描写が多くみられる。『傘をもたない蟻たちは』から「染色」をとりあげ、嗅覚的描写を引用する。

  時折銀杏の臭気を含んだ風がどこからか流れてくる。

 川に近づくにつれて、銀杏の臭い川の臭いが混じっていく。土手に出て皮を見下ろすと、昨日雨が降ったせいか流れは想像以上に速く、濁っていた。

 鉄道橋の奥に大きな銀杏の木があった。なるほど、原因はこれだったか。そこまでいくとまた臭うだろうからと、僕は橋の手前で土手を川の方へ下りることにした。

 芸術祭に来ていた彼女と別れた後、主人公である市村が宛てもなく歩いている場面。これだけの文章の中に、銀杏の臭いが三回、川の臭いが一回ある。
 銀杏のにおいはあまりいいものとは言い難いし、降雨の後の川の臭いもあまりよいものではない。川に溜まった汚れや微生物の死骸などが雨によって底のほうからかきまぜられ、生臭いような臭気を放つ。
 これらの臭いの表現が繰り返されることで、なんかとりあえず臭いんだなという印象を読者に植え付けている。これだけ悪臭の表現が繰り返されると、市村の今後にあまりいい予感はしない。
 また、「染色」にはもうひとつ特徴的なにおいの描写がある。「塗料の匂い」だ。

 彼女から漏れる声とビニールが擦れる音。塗料の匂い

 さまよい歩いた先で市村は以前居酒屋で出会った橋本美優と再会する。美優は橋の下でグラフィティアートを描いており、その後二人は美優の部屋で抱き合う。そのときの描写には「塗料の匂い」が出てくる。「匂い」という漢字を当てている。
 一般的に、「匂い」は良いにおい、「臭い」は悪いにおいに対して当てられる漢字である。デジタル大辞泉によれば、「臭い」は「嗅覚を刺激する、不快なくさみ。悪臭。」とあり、「匂い」は「そのものから漂ってきて、嗅覚を刺激するもの。」とある。「匂い」と「臭い」の使い分けにおいては、感じる本人の快/不快が現れているとみていいだろう。
 物語の語り手である市村は、美優の塗料の匂いには先程の銀杏や川の臭いのように嫌悪感は抱いていない。人によっては塗料のにおいを嫌だと思うこともあるが、市村は好意的にとらえていることが「匂い」という漢字からわかる。
 「染色」において、「塗料の匂い」は美優の才能、非凡さを表現しているように思える。しかし塗料のにおいは刺激の強いにおいであり、常にそのにおいがするということは普通の人間には耐えがたい部分があるのかもしれない。美優には類稀なる才能があり非凡だから、常にそのにおいを纏っていられる。しかし市村はそうではなかった。

 部屋には何もなく、それなのに塗料の匂いはまだ残っていた。

 美優と別れてしばらくして彼女と出会った居酒屋で彼女の現在を知り、美優と過ごした日々の残滓を探す市村。しかしもう何も残っていない。そして美優と過ごした部屋を訪れたときの描写にも「塗料の匂い」が出てくる。そして最後の一文にも「塗料の匂い」が登場する。

「今から会えないかな」
 その時にはもう塗料の匂いさえ感じなくなっていた。

 感覚とは主観的なもので、もしかしたら他の誰かが美優の部屋にいても最初から「塗料の匂い」なんてなかったのかもしれない。市村がそこに「塗料の匂い」を感じたかっただけだったのかもしれない。
 果てることのできない自慰行為のあとで杏奈に電話をかけた市村はもう「塗料の匂い」を感じることができなくなっている。常にスプレーで己に色をつけていた美優の、才能と非凡の象徴でもあった塗料の匂い。非凡である美優のまとう「塗料の匂い」はあくまで美優のものであり、市村はそのにおいに包まれていただけで、美優のもっていた非凡さまでもを手に入れたわけではなかった。結局のところ、市村は普通の人間でしかなかった。
 市村と美優の関係が完全に終わったことを印象付けるこの一文は、この物語の終わりに相応しいものだといえよう。

傘をもたない蟻たちは

傘をもたない蟻たちは

 

 

 

 

「チュベローズで待ってる」第一話

 週刊SPA!にて連載されていた「チュベローズで待ってる」にも嗅覚的描写が効果的に使われている。ここでは第一話をとりあげる。

 自分の吐瀉物から大量に飲んだテキーラの臭いが沸き立ってくる。

 サイケデリックな色使いのメイクをした女たちは香水の臭いを巻き散らし、

立ち食いそば屋に入るといい出汁の香りが僕を迎え入れた。

 「チュベローズで待ってる」第一話に登場する「におい」に関する描写をピックアップすると上の三か所が該当する。第一話では主人公・光太が就活に失敗し、自暴自棄になってひたすら飲み、吐いて、ボロボロになっていたときにホストである雫と出会う、という場面が描かれている。
 「大量に飲んだテキーラの臭い」が悪臭であることは勿論だが、次に出てくる「香水の臭い」もまた、ここでは悪臭に分類されている。「匂い」ではなく「臭い」という漢字を使っていたり、「巻き散らす」という否定的な意味合いをもって使われることが多い動詞を使っていたりして、就活に失敗したことと酒に悪酔いしたことで、歌舞伎町を歩く女性の香水のにおいに苛立っている様子がわかる。
 最後に出てくるのは「いい出汁の香り」。「香り」は好意的に捉えられたにおいに対して使われる。しかも「いい出汁」。さっきまであれだけ悪臭を漂わせていたのに、一気に美味しそうなにおいになる。文章を読んでいるだけなのに、なんだかそばの出汁の香りがするような気がしてくる。
 この嗅覚の描写が物語にどう影響しているかというと、主人公・光太の心情が表されているように感じられる。新宿の街ですれ違う他人にすら憎悪に近い気持ちを抱いていた光太にとっては、香水のにおいも悪臭に思えていた。しかし雫につれていかれた立ち食いそば屋で「いい出汁の香り」を感じた光太は、雫には悪い印象を抱いていない。光太が周囲や状況に対して抱く感情が、においの描写となって現れる。文章だからこそできる感情の表現の仕方だ。

 

 

この文章が好き4選

 もはや表現の仕方とかもさほど意識せず「この文章が好き!」を選んでみた。

 

 君が見た世界に果てはなく、これこそが楽園だ。絶望的に素晴らしいこの世界に僕は君と共にある。(『ピンクとグレー』)

 文句なしに美しい一文だと思う。「絶望的に素晴らしい」という、普通ならばくっつかなさそうな単語が組み合わさって、りばちゃんが極限まで辿り着いてしまったことを表現しているような感じがする。「果てはなく」という言葉はあるけれど、それこそが世界の果てであるような世界に、りばちゃんは辿り着いてしまった。だって「絶望的に素晴らしい」のだから。望みは絶たれた。それほどに素晴らしい世界にごっちと共にあると言い切れるりばちゃんは、もしかしたら幸せなのかもしれない。

 

 僕はしばらくそこで立ち尽くしていた。今もはっきりとあの頃の景色が浮かぶ。彼女と描いたグラフィティの数々。冷めたハーブティー。ビニールの音。彼女の声。体温。肌。染み。(『傘をもたない蟻たちは』より「染色」)

 加藤さんはあまり体言止め(名詞で文を終わらせること)を使わない印象だが、この場面では思い出が次々と頭に浮かぶ様子が名詞を羅列することで表現されている。だんだんと文字数が短くなっていくところも、どんどん頭に浮かんでくる様子が表示されている。ランダムに並んでいるわけではなくて、目で見てわかるもの(視覚)→聴いてわかるもの(聴覚)→触れてわかるもの(触覚)と並んでいて、だんだんと近くでなければ感じられないものになるように並んでいる。そういう計算されつくしたところが好き。

 

 筑前煮の人参を齧ると、鰹出汁、そして椎茸からほのかに移った香りが、ふわりと口の中に広がった。(『傘をもたない蟻たちは』より「イガヌの雨」)

 「イガヌの雨」の書き出しの一文。美味しそうな料理の描写がこのあとも続く。さすが料理好きの加藤さんというだけあって、描写された料理がとても魅力的であることが想像できる。私は味オンチなので多分筑前煮の人参を齧っても人参の味しかわからない気がするけれど、世の中にはこんなふうに料理を味わう人がいるのだ、と自分との違いに驚かされる。

 

 そのただの粉、見た目はホットケーキミックスと変わらないような粉が徳さんだという認識もまだできていない。(『Burn.-バーン-』)

 徳さんの骨をローズが幼いレイジに分けようかと尋ねた場面。砕かれた骨に対して「ホットケーキミックスと変わらないような」という比喩が出てくるところが、レイジがまだ幼い子供であることを思い出させる。大人だったらなかなか出てこなさそうな、素直な比喩。少なくとも私は初めて見た。こういう言葉が出てくる加藤さんってやっぱりすごいな、と思った。

 

おわりに

 小説は物語を楽しむという視点で読むことが多いから、なかなか細かな表現まで深く見ようとする機会が少ない。というか、物語を楽しむには細部にこだわっていては気が散ってしまうので私も滅多にしない。でも、自分がなぜこの小説を好きだと思ったかを知りたいとき、細かなところにも目を向けてみると新しい発見があるかもしれない。「自分はこのシーンを読んでなぜこういう感情を抱いたのか」のヒントが文章の表現の中にたくさんあるはずだ。加藤さんの小説をきっかけに読書の楽しさを知ったり、思い出したりした方も多いのではないかと思う。そこから更に一歩踏み込んで、構成や表現がもたらす意味などを考えてみるのもきっと楽しいのではないだろうか。
 加藤さんは本を書くたびにレベルアップしている。元々持っていたセンスという部分もあるだろうけれどそれだけではなくて、読みやすさやわかりやすさがだんだんと上がっていく。決して簡単なことではなくて努力したからこその結果だと思う。そうやってどんどん磨きあげられていく小説を読んでいるのは、とても気持ちが良い。だったらこっちも徹底的に読んでやろうじゃないか、という謎の対抗心まで生まれてくる。これからも機会があったら加藤さんの文章表現のここが好き!を語っていきたい。

 


 ちなみに加藤さんの次回作は第一部・完として最終回を迎えた週刊SPA!での連載「チュベローズで待ってる」に続きを書きくわえたもので、来春に発売予定となっております!!!

 

*1:きっと何者にもなれなかった加藤成亮の生存戦略 ―『ピンクとグレー』考察― - 来世はペンギンになりたい 、 “もう一度「再生」するための魔法”の先に ―『閃光スクランブル』考察― - 来世はペンギンになりたい

*2:基本的には現在と過去の繰り返しだが、文庫見開き2ページ分しかない第三章だけは未来の時間軸となっている。そこだけ未来なのもいいよね

*3:だからこそ余白の多い構成にした映画「ピンクとグレー」との違いが際立つのかも

*4:逆になぜこれができるのか全然わからないくらい視覚的イメージがわかない

優しくなりたければ強くあれ #こやほめ #にゅすほめ

 大変だ!最近あんまりNEWS担に会っていないということもあってNEWSを語らないと死ぬ病にかかってしまった!このままだと壁に延々と話しかけてしまう!なんてこった! #にゅすほめ 用の記事は別で書いているからこいつは飛び入り参加ということにして小山さんを褒めるぞ!!!

 

www.adventar.org

 

 

言葉

 小山さんの言葉が好きだ。コンサートの挨拶や、インタビューなど、小山さんの言葉はいつも私を安心させてくれる。ぐらつく私を安定させる言葉をくれる。
 特に「美しい恋にするよ」の小山さんの挨拶が大好きだ。一時期、全然元気のなくてこのままだと家から出られないというような時期があって、そのときは出勤前に必ず挨拶からフルスイングまでを見ていた。朝からあれ見て元気になるのかと思われるかもしれないけれど、元気になる。
 4人の最後に挨拶をする小山さん。涙で言葉を詰まらせることはあるけれど、言葉が出てこないことはなくて話したいことは頭の中にちゃんと考えてあって、しかもそれを伝わりやすい言葉で話して、しかも最後には笑顔も見せる。べしょべしょに泣いたあと、まだ目に涙をにじませながら、でも笑って、「これは悲しい涙ではなく、嬉しい涙だと僕は思っています」と言う小山さん。増田さんも加藤さんも泣いてしまったあとでそれを言ってくれることが、私にとってはすごく大きな安心だった。私はあの場にいたわけではないけれど、きらきらしているはずのアイドルがぼろぼろと涙をこぼしていたら不安になる。今見ても、今のNEWSを知っていても心がざわめく。そんなときに小山さんが「嬉しい涙だ」と言ってくれる。小山さんがそう言ってくれるのならきっと大丈夫だ、という気持ちになる。そしてフルスイングを歌い終わったら、お城に花火が上がる。まるでRPGの勝利のファンファーレみたいで、小山さんが「嬉しい涙」と笑いながら言ったのは嘘じゃないんだ、と確信する。だからあの挨拶を見るたびに、ちょっと泣きそうになるし泣くこともあるけれど、メイクも崩れるけれど、でも元気が出る。
 
 小山さんは報道に携わっているということもあって、言葉を「伝える」ことの重要さをよくわかっているのだと思う。小山さんはファンに向けて喋るときはわかりやすい言葉を使う。特殊な言い回しは使わない。なるべく誤解のないようなわかりやすい表現を選ぶ。頭ではわかっていても、これを実践するのは相当難しい。言葉の意味は人によって微妙に違う。ジャニオタがいう「自担」なんてそれの代表みたいなものだと思う。私がいう「自担」と別の誰かのいう「自担」は概ね同じ意味でも、細部は異なったりする。小山さんはそういう誤差がなるべく生まれないような言葉を選ぶ。私は言葉の意味をあれこれ考えてしまう癖があるので、小山さんの話すわかりやすい言葉は余計なことを考えなくて済むので聞いていて安心できるのかもしれない。
 それに、小山さんはよどみなく話す。ファンに向かって何かを話す場面で言葉が出てこなくなって探していることは滅多にないし、言葉と言葉のあいだを繋ぐための無駄な言葉もない。言うべき言葉が頭の中にある状態で、伝えようという意思をもって話す。
 「伝わりやすく話す」ということは簡単ではない。とても高度な技術が必要となる。それができる小山さんは本当にすごい人だ。

 

 

web連載「メンバー愛」

 会社がつらいとき、月曜と金曜に更新される小山さんのweb連載「メンバー愛」に助けられている。小山さんらしい言葉で日常が綴られ、最後にはいつも「一緒に頑張ろう」というような、読む人を応援する言葉で締めくくられている(特に月曜)。
 誰だって言おうと思えば言える言葉だと思うけれど、この言葉を小山さんが言ってくれることが嬉しい。だって、小山さん、毎日頑張っているのが目に見えるから。「news every.」というかたちで。きっと小山さんは自分が「一緒に頑張ろう」と言うことの意味をわかって言っている。小山さんは、自分の言葉が誰かの支えになるとわかって言っているんだと思う。小山さんはそういうクレバーで優しい人だ。
 当たり前のことが当たり前にできなくて、そんな自分が嫌だし怖いし毎日へこむけれど、小山さんが「頑張ろうね」と言ってくれるだけで明日もちゃんと会社に行こうと思える。
 毎日生放送をしているということを踏まえた上で出てくる「一緒に頑張ろう」は、文字通り一緒に頑張っている感じがする。私が会社で死にそうになってるときはきっと小山さんも汐留でお仕事を頑張っているだろうから、じゃあ残りの時間も頑張ろう、なんて思う。そうやって毎日を乗り切る。本当にそういう些細なことなんだけれど、今頃頑張っているだろうなというのがわかるということは大きい。しかも毎日、夕方の帯。そんなアイドルは小山さんだけだ。小山さんがキャスターをやることは間違いなくアイドル業にも活きている。
 それだけではなく、タイトル通りに「メンバー愛」が綴られていることも多い。小山さんのメンバーに対する愛しさが伝わってくるような、読んだ人がメンバーのことを更に好きになってしまうような内容ばかりだ。

 

キャスターであるということ

 キャスターであるということは小山さんにとってアイデンティティであるように見える。しかし、アイドルとキャスターを両立することは並大抵の努力でどうにかなることではない。そこに至るまでの道のりもそうだし、そこからの道のりも決して楽ではない。
 日経エンタのインタビューで、帯キャスターになるかどうかを問われたときのことを話している。長時間拘束されるドラマ撮影などが難しくなるなど、アイドルでいる上でのデメリットもある。「5分考えさせて下さい」と言って、10秒で答えを決めた小山さん。本当は考えるまでもなく、やらないなんて選択肢はなかったんじゃないかと思う。
 「同い年で主演を張れる人はたくさんいるけど、帯でキャスターをやっているのは自分だけ」という自信は、小山さんしか持てないものだ。疲れてしまう日もあると思う。上手くいかない日もあると思う。それでも小山さんは自信と誇りをもってキャスターをしているのだと思うと、なんだか私まで勝手に誇らしくなる。キャスターであるということは、「言葉」や「伝えること」の意識だけでなく、もっと大きなものを小山さんにもたらした。
 どれだけキャスターであっても、小山さんはアイドルを諦めたわけではない。週に4日間帯をやりながら舞台に出ることだってやり遂げてみせた。もしかしたら今後はドラマに出ることもあるかもしれないし、もっと大規模なツアーだってやるかもしれない。小山さんの体が心配になることもあるというか常に心配だけれど、小山さんがやると決めたことなら私はそれを見守りたいし、きっとそのときにも言ってくれるであろう「一緒に頑張ろう」という小山さんの声に応えたい。

 

一緒に夢を見てくれる

 NEWSは今のところ私の理想のアイドル像に最も近いグループだ。その中でも小山さんは特に。
 私がアイドルに求めることは、「一緒に夢を見てくれること」「私を特別な“君”にしてくれること」のふたつ。NEWSは、そして小山さんはどちらも叶えてくれる。特に前者。
 私はアイドルに夢を見せてほしいわけでも、夢を売ってほしいわけでもない。一緒に夢を見てほしい。一方的な夢は見たくない。「一緒に」というのが重要だ。とてもわがままなことだとはわかっている。それでも「一緒に」夢を見たい。「一緒に夢を見ている」という錯覚でいいから、錯覚させてほしい。
 アイドルにとっても、アイドルでいることが、アイドルをやることが「夢」であってほしい。我ながらすごいわがままだなと思うけれど、私はアイドルにそれを求めてしまう。勿論「仕事」であるのは当然のことだけれど、そのどこかで「夢」を見ていてほしい。なんとなくだけれど、小山さんはそういう人のような気がしている。
 NEWSがなくなるかもしれなくて、アイドルとしてやっていけるかどうかわからない状況にもなって、それでも今ステージの上に立っている小山さん。平日キャスター週末アイドルな小山さん。「一緒に夢を見ている」という幻想でもいいから、このまま幻想の中にいさせてほしい。

 

「優しくなりたければ強くあれ」

 私は血も骨も肉もポルノグラフィティでできているのでポルノグラフィティの歌詞を引用せずにはいられないので引用してしまうのだけれども、小山さんを見ていて思い出したのが「2012spark」という曲の「優しくなりたければ強くあれ」というフレーズだ。 
 小山さんは、すごく優しい人だと思う。と同時に、すごく強い人でもある。
 
 小山さんは、自分のために他者に優しい。
 誰かのために誰かに優しいのではなく、自分のために自分に優しいのでもなく、自分のために誰かに優しい。
 私は誰かに何かをしたとき、他人のためにやってあげているような気分になっているときがある。そのくせ行為に見合う報酬がないと嫌で、それはつまり他人のためと思いながら結局は自分のためだ。そんな自分に気付いたとき、すごく嫌になる。本当は自分のためなのに、「相手のため」なんて恩着せがましく思っている自分に嫌気がさす。
 小山さんはきっと、自分のために誰かに優しくできる人だ。誰かのため、なんて思わずに、その奥にある「自分のため」をちゃんとわかっている。だから小山さんの優しさは嫌味っぽさがないし恩着せがましくもない。すごく自然だ。小山さんが優しいことに気付かないこともあるくらい自然に優しい。
 そうやって自分のために他人に優しくできるのは、小山さんが強いからだと思う。誰かのためなんて言い訳に隠れることなく、自分のために誰かに優しくする強さが、小山さんにはある。
 誰かのために誰かに優しくすることは、その誰かに自分の気持ちを託すことと同じだと思う。相手に荷物を背負わせることになる。でも自分のために誰かに優しくすることは、荷物は誰にも預けない。自分の気持ちは自分のものとしてちゃんと持っておく。気持ちは目に見えないけれどその分重たい。小山さんはそれを自分で抱えるだけの強さを持っている。

 「Share」では「みんなの愛と笑顔で 僕はずっと優しくなれんだよ」と歌い、「愛言葉」では「そのありったけ くれた愛だけ 強くなれたから」と歌う小山さん。小山さんの中でも優しさと強さは結び付くものなのかもしれない。
 きっと小山さんは優しくあるために強くなった。そんな小山さんが今この瞬間も未来永劫この先も一生ずっとずっと幸せであることを、私は願ってやまない。
 
 

幻想第四次の世界へようこそ ―「銀河鉄道の夜」のススメ―

 この記事はしきさん主催のアドベントカレンダー #おたく楽しい (#おたく楽しい Advent Calendar 2016 - Adventar)への参加記事です。

 

 小さい頃から読書が好きだった。好きな作家は沢山いるし、好きな本も沢山ある。けれど「愛読書は?」と尋ねられたら答えはひとつしかない。銀河鉄道の夜だ。
 初めて読んだのは小学生のときで、そのときは意味がわからなかった。なんだかよくわからないけれどなんとなく怖い話だ、という印象だけが残った。次に読んだのは中学三年のときで、理由はわからないけれどとにかく胸に刺さった。高校生になってお小遣いが増えたので図書館に通うだけでなくお気に入りの本は買って手元に置いておこうと決めたとき、最初に買った本のひとつが「銀河鉄道の夜」だった。何度も何度も読み返していた。高校のときに頃にも「銀河鉄道の夜」をテーマに発表を行った。大学に入ってからは毎年ひとつは「銀河鉄道の夜」でレポートを書き、卒論も「銀河鉄道の夜」で書いた。私の学業は「銀河鉄道の夜」と共にあったし、社会人になってからも読み返しては様々なことを考えている。
 そんな「銀河鉄道の夜」の魅力を伝えるべく、#おたく楽しい への参加記事としてオススメポイントをまとめようと思う。と真面目ぶってみたけど、専門家でも研究者でもなんでもないただの「銀河鉄道の夜」おたくが銀河鉄道の夜」は面白いから読んでみてよ!!!頼むよ!!!とプレゼンしている記事です。作品の解釈は個人的なものであり正解/不正解を示すものではありません。

 ※割と長めになってしまったので、基本情報から丁寧に知りたい方は1から順に、時間ないからお前の主観オブ主観を聞かせろという方は3だけでも読んで下さい!お前の文章など読んでいる暇はないという方は「銀河鉄道の夜」を是非!読んで下さい!なにとぞ!お願い!頼む!

 

 

銀河鉄道の夜」とは

 まずは基本情報の紹介から。
 詩「雨ニモマケズ」や童話「注文の多い料理店」「風の又三郎」「セロ弾きのゴーシュ」などで知られる宮沢賢治の作品。

 

あらすじ

 少年ジョバンニは朝は新聞配達・放課後は活版処での仕事があり、毎日忙しい。そのせいで授業中は毎日眠く、友達のカムパネルラとも疎遠になっていた。配達されていなかった牛乳を取りに行く途中、からかうクラスメイトの声から逃げて辿りついた丘の上に寝転がると、いつの間にか銀河鉄道に乗っていた。そこにはカムパネルラの姿もあった。
 ジョバンニとカムパネルラは銀河鉄道に乗り、さまざまな人と出会い、そして別れる。そのなかで「ほんとうの幸(さいわい)」とは何かを探していく。
 
 もっと詳しいあらすじ(あらすじというか本文要約レベルで詳細に書かれている)はWikipediaへ。

銀河鉄道の夜 - Wikipedia

 
 賢治は晩年までこの作品に手を入れ続けた。生前に出版されることもなかったため、完成原稿は遺されていおらず、現在出版されているものを読むと「以下○文字空白」などの文言が見られる。また、おそらくは造語と思われる単語が出てくることもあるが、賢治が注釈を添えていることもなく、その意味を知るすべはない。この記事のタイトルにした「幻想第四次」というのも「銀河鉄道の夜」の中に登場する。銀河鉄道が走る世界を指している言葉だが、特に意味が解説されているわけではない。そんな不思議さが人を惹きつけて離さない。「銀河鉄道の夜」はこの先も永遠に完成することのない未完の名作なのだ。
 物語をどう読むかは読み手の自由である、というのが私の主張なので今回の記事では「この物語はこういう解釈!」という話をするつもりはないのだが一点だけどうしても言っておきたい。もし「自己犠牲は美しいって話なんでしょ?」という印象があって読むのを敬遠しているのなら、是非一度読んでみて「自己犠牲は美しい」に終止する物語なのかどうか、自身の目で確かめて欲しい。

 

 

銀河鉄道の夜」をオススメする理由

 この項では「銀河鉄道の夜」のオススメポイントを紹介する。ざっくり要約すると、とにかく手を出しやすい作品だからうっかり読んでみてね、という話。

 

様々な出版社から出ていて手に取りやすい

 これは他の名作文学にも言えることだが、複数の出版社から出ているので好きなものを選ぶことができる。
 ちなみに文庫として出版されている「銀河鉄道の夜」は、他の作品とまとめて一冊に収めてあり、タイトルとして「銀河鉄道の夜」の名が採用されているという感じになっている。なのでもし「長くて読みにくいのかな」と思っている人がいたら全然そんなことないので軽率に手を出そう!
 各出版社によって一冊にまとまっている短編も違ってくるので、他にも読みたい話があるならそれに併せて選ぶのもオススメ。新潮文庫版は「セロ弾きのゴーシュ」「オツベルと象」など、角川文庫版は「双子の星」「ひかりの素足」など、角川つばさ文庫版(子供向けレーベル)は「雨ニモマケズ」「グスコーブドリの伝記」などが併録されている。
 装丁も様々で、漫画家やイラストレーターが装画を担当しているものもあれば、シックで落ち着いたデザインのものもあるので、好きなデザインで選ぶのも楽しい。

 ちなみに私の推しは新潮文庫版。元々のカバー(読みすぎてボロボロだけど)も幻想的でオシャレだし、今年の夏に出た限定版カバーも大人っぽくて素敵。

f:id:penguinkawaii:20161211095847j:plain

 他にも、絵本や朗読CD付きなど様々に出版されている。糸や布を用いた作品を発表するアーティスト・清川あさみによる刺繍が添えられた本は、物語の美しさを文章からも視覚からも楽しめるものになっている。

銀河鉄道の夜

銀河鉄道の夜

 

 

無料でも読める

 「銀河鉄道の夜」は既に著作権が切れている作品なので「青空文庫」で読むこともできる。こちらでは新潮文庫版/角川文庫版(どちらも新仮名遣い)、岩波文庫版(旧仮名遣い)が読める。Kindleでも無料配信している。推しなので新潮文庫版のリンクを貼ります。

 宮沢賢治 銀河鉄道の夜 (青空文庫新潮文庫版)


銀河鉄道の夜」を原作とした作品が沢山ある(映画、プラネタリウム等)

 この作品を元にした映画やプラネタリウムも制作されている。「銀河鉄道の夜」を読んでいれば更に深く楽しむことができるし、読んでいなくても作品への入り口としてもぴったりなので、興味があれば是非。
 
・映画「銀河鉄道の夜

 「銀河鉄道の夜」といえば、登場人物のほとんどが猫として描かれたこの映画を思い出す人も少なくないのではないだろうか。物語の大筋は原作と同じだが、ジョバンニとカムパネルラの別れのシーンなどには多少の改変があるので、考察厨としてはそこに注目して見るととても楽しい。登場人物のほとんどが猫であることや、暗めの色彩、不安定に響く音楽などが巧に絡み合うことによって「銀河鉄道の夜」の不思議な世界観を表現している。1985年公開、監督は杉井ギサブロー、音楽は細野晴臣

銀河鉄道の夜 [DVD]

銀河鉄道の夜 [DVD]

 

 

プラネタリウム作品「銀河鉄道の夜 -Fantasy Railroad in the Stars-」

 KAGAYA studio制作。制作されたのは2006年でありながら、現在も上映され続けている。映像の美しさは勿論のこと、音楽も素晴らしい。ひとりで行ってじっくり浸るもよし、友達同士やカップル、ご家族でのお出かけで観に行くもよし。お近くの上映館はリンク先の公式サイトよりお探し下さい。ちなみにDVDでも発売中。

 【プラネタリウム番組】銀河鉄道の夜

 


銀河鉄道の夜」の魅力・とても主観編

 先程まではそれなりに客観性を重視してオススメする理由を述べてみたが、この項では客観性は無視してとても主観的に「ここが魅力!」を並べる。ざっくり要約すると、全然肩肘張らずに読める作品だからね!!!という話。

 

ジョバンニとカムパネルラ

 ジョバンニとカムパネルラは小さい頃よく一緒に遊んでいた仲の良い友達同士であったが、ジョバンニが働くようになって遊ぶ時間がなくなり、疎遠になってしまった。みんなの輪の中にいる人気者のカムパネルラと、みんなから漁に出ていてなかなか帰ってこない父親のことでからかわれるジョバンニ。物語の序盤で対比的に描かれる二人は、銀河鉄道の中で再会し、親しく遊んでいた頃のような仲の良さを取り戻す。
 冒頭ではなんとなく距離のある二人の関係が示されるが、銀河鉄道に乗ったら二人はよく喋り、よく笑う。親やクラスメイトなど、彼らを取り巻く周囲の人がいなくなったことによって、二人を縛っていたしがらみがなくなったのだろう。
 銀河鉄道に乗っているシーンは、ジョバンニが目を覚ますことで終わる。しかし、ジョバンニが旅をした銀河鉄道の世界を「夢オチ」という言葉で片付けてしまうのは寂しい気がする。あくまで私の解釈ではあるけれど、銀河鉄道の世界はジョバンニが自分に都合よく作りだした夢の世界ではなくて、ジョバンニとカムパネルラはあの世界で心を通わすことができたのだ、と思っている。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。

 ジャニオタでいうシンメ担だとかコンビ萌えだとかというような、関係性に執着のある人というか関係性フェチみたいな人たちに読んでもらって、この二人の間から何を読みとるのか是非とも聞いてみたい。きっとあなたの好きなシンメにもコンビにも当てはまる部分があるはず。余談だけど私は上に引用した部分を読むたびに「2人になってもNEWSやろう」を思い出す。泣く。
 私は二人にしか伝わらない何かが展開していたり想いが伝わりあっている様子を見ると「あの二人は今銀河鉄道に乗っているんだな」と思ってしまう。そのたとえがしっくりきてしまう状況が、私の好きなコンビやシンメには時々ある。そんなふうに、コンビやシンメのエピソードを振り返りながら「あの二人はこのとき銀河鉄道に乗っていたんだな」と考えてみるのも楽しいのではないだろうか。

 また「銀河鉄道の夜」は先述のとおり何度も手を加えられた作品で、実は第三稿までと第四稿(現在一般的に読まれているのは第四稿)では大きな変更点がある。それがジョバンニを導くブルカニロ博士の存在と、ジョバンニとカムパネルラの関係性である。実は第三稿のジョバンニとカムパネルラは親友ではないし、友達でもない。

ぼくはもう、カムパネルラが、ほんとうにぼくの友だちになって、決してうそをつかないなら、ぼくは命でもやってもいい。

というような描写が出てくる。そのほかにも「ぼくはどうして、カムパネルラのように生れなかったろう。」という一方的な憧れに近いものが見てとれるのだ。そんな二人は銀河鉄道に乗りこみ、友達のように言葉を交わす。第三稿までの二人の関係と第四稿の二人の関係を読み比べて見るのも面白い。
 ちなみに第三稿は新潮文庫ポラーノの広場』などに収録されている。

ポラーノの広場 (新潮文庫)

ポラーノの広場 (新潮文庫)

 

 


謎だらけ

 「銀河鉄道の夜」は多くの謎に包まれている作品でもある。造語であったり、原稿が途中で欠けていたり、それだけでなく意味深な描写がいくつもあったりして、難しく思えることもある。生前には出版されなかったし、賢治が多くを語らなかったということもあって、絶対に解明されることのない謎だらけの作品となっている。文学研究者たちはこの「絶対に解明されることのない謎」に挑み続けてきた。その証拠が、数多く出版された研究書だ。
 宮沢賢治作品は数多くの研究書が出版されており、それらを読んでみると「いや絶対こんなこと考えて書いてないって違うって」と思いたくなるものもあるし、「でも本当にそうだとしたら面白いよな」と思わされる事柄も多く書かれている。
 たとえば作中に「ハルレヤ」という言葉が出てくる。本来ならば「ハレルヤ」と表記されるのが正しいのだが、原稿には賢治が意図的に「ハルレヤ」と書いた跡があるらしい。ではなぜこんなことをしたのか?という謎が残る。
 また、カムパネルラの母についても取り上げられることがある。カムパネルラの父は最後に登場するが、母についてはカムパネルラが「おっかさんは、ぼくを許してくださるだろうか。」という話をする場面で間接的に触れられる程度だ。物語に登場しない母は、生きているのかそれとも故人なのか、といった説が議論されることも少なくない。
 カムパネルラのモデルについてや、鳥を捕る人・車掌といった銀河鉄道内にいる存在など、謎は尽きない。(これらの謎について納得できる解釈を探すのがとても楽しくて、正直この話だけで何万字でも書けるけれど今回の記事の趣旨とは異なるので割愛する。)
 「銀河鉄道の夜」を読むなら、そんな謎解きも楽しんでみてはいかがだろうか。

 どれだけ議論がなされても、様々な説が出ても、全ての読者を満足させるものはないだろう。読み手の中にはその人だけの「銀河鉄道の夜」があるのだ。言葉や場面の解釈を自分の好きなようにカスタマイズして自分だけの「銀河鉄道の夜」を作り上げていく。どんな作品だってそうだと思うけれど、不確定な要素の多い「銀河鉄道の夜」は特にそれが顕著だ。読書の在り方としてそれが正しいのか正しくないのかはわからないけれど、そういう楽しみ方もアリだよな、と私は思う。
 謎だらけであるがゆえに、読み人によって解釈が大きく異なる。一度読んだとしても、繰り返し読むとまた解釈が異なることがある。まるで読み手の心を写すかのように色を変える、不思議な物語だ。そうやって様々な顔を見せるところも、「銀河鉄道の夜」の魅力のひとつといえる。

 


聖地巡礼(?)ができる

 賢治の故郷である岩手県花巻市には賢治の作品をより深く知ることができる施設がある。さまざまな作品を取り扱っているが、その中でも「銀河鉄道の夜」は大きく取り扱われている。
 今年は宮沢賢治生誕120周年ということもあり、岩手県花巻市にある宮沢賢治童話村では幻想的なライトアップを行っていた。既に行った方の写真を見て絶対にこの目で見たい!と思い、今年は岩手に旅行してきた。花巻市には宮沢賢治関連の施設が多くあり(特に宮沢賢治童話村が楽しかった!テーマパークみたいだった!)、どの施設も好奇心をくすぐる展示が沢山あった。目当てだったオブジェは昼間に見ても美しかったが、やはり夜の美しさは格別だった。池に浮かぶように設置されたオブジェのライトが静かな水面に写っている様子は、まるでこの世のものではないような、まさに幻想第四次の世界に迷い込んだような美しさだった。

f:id:penguinkawaii:20161211100447j:plain

f:id:penguinkawaii:20161211100341j:plain

 童話村の入り口は「銀河ステーション」だったし、物語に登場する「白鳥の停車場」があった。物語に出てきた場所に自分が立っているみたいで、ちょっとした聖地巡礼をした気分だった。

f:id:penguinkawaii:20161211100406j:plain

(手前に写っているのが私です。自撮りしたらボケました)

 

f:id:penguinkawaii:20161211100300j:plain

 


おまけ(特にNEWSシゲ担の方へ)

 更に個人的なオススメポイントとしては、他作品の理解を深める素材になる、という点が挙げられる。共通点のある複数の作品を比較し、その差異や異なり方から作品を読み解くという読み方がめちゃくちゃ好きで、しょっちゅうそんなことばかりしているのだが、その比較する作品として「銀河鉄道の夜」を用いたときが一番楽しい。
 たとえば加藤シゲアキデビュー作の『ピンクとグレー』。ごっちとりばちゃんが辿る道はどこかジョバンニとカムパネルラと共通する部分がある。同窓会の後に行ったバーは、二人にとっては銀河鉄道のようなものだったのかなぁ、あのとき二人は心を通わすことができたかなぁ、と考えてはうっかり泣いてしまったりしている。
 また、ドラマ版「傘をもたない蟻たちは」の純と啓介は更にジョバンニとカムパネルラっぽいところがあるので、ドラマ版カサアリが好きだった方は是非読んでみてほしい。

 

銀河鉄道の夜」を知っているとより深く楽しめる作品

 「銀河鉄道の夜」はその奥深さから、様々なクリエイターたちの創作意欲を刺激するのか、「銀河鉄道の夜」をモチーフとした作品は様々なジャンルに数多く存在する。それらの作品の中には「銀河鉄道の夜」を知らずとも楽しめる作品もある。しかし物語のあらすじだけでも、できれば内容も知っていると更に深く楽しめる。そんな作品をいくつかピックアップして紹介する。

 

輪るピングドラム

 幾原邦彦監督によるアニメ作品。「輪るピングドラム」はさまざまな作品がモチーフとして使われているが、そのうちのひとつ(そしてとても重要な要素)として「銀河鉄道の夜」が物語の軸となる部分を担うように使われている。抽象的でわかりにくい物語だが、「銀河鉄道の夜」を知っていることでより理解できる部分があるのではないかと思う。
 「りんご」という名前の登場人物の漢字表記が「林檎」ではなく「苹果」だったり、「蠍の炎」が出てきたり、物語の中で「愛」や「自己犠牲」といった賢治的なテーマが繰り返し描かれていたりと、随所に「銀河鉄道の夜」との関連が見られる。
 「輪るピングドラム」は抽象的で物語が何を描いているのかが掴みづらいところがあるが、それもまた「銀河鉄道の夜」と共通している。

 

銀河鉄道の夜のような夜

 小林健太郎片桐仁によるお笑いコンビ・ラーメンズのコント。DVDラーメンズ第16回公演『TEXT』」に収録されている。
 小林さんがトキワ、片桐さんがカネムラという役を演じる。それぞれの物語上の役割と名前から考えるに、トキワ=常磐=じょうばん=ジョバンニ、カネムラ=カムパネルラ(カムパネルラ=カンパネラ、カンパネッラはイタリア語で「鐘」)となっていて、トキワが列車に乗り牛乳を取りに行く場面が描かれている。コントなので勿論笑えるところもあるが、最後には思わず泣いてしまうところもある、素敵な作品だ。
 「銀河鉄道の夜」では本来列車に乗っているべきなのはカムパネルラでそこにジョバンニが乗り込んだようなかたちだったが、「銀河鉄道の夜のような夜」では逆になっている。一緒にいるけれどそこにはいない、このすれ違いの切なさは本当に素晴らしいので「銀河鉄道の夜」をご存知の方は是非一度見てみてほしい。ちなみに見るなら『TEXT』を通して見るとより面白さが増すはず。

ラーメンズ第16回公演『TEXT』 [DVD]

ラーメンズ第16回公演『TEXT』 [DVD]

 

 

 どちらも「銀河鉄道の夜」との関連性を考察しようと思ったらいくらでも語れるのだが(むしろ語りたいけれど)、せっかくなら前情報は少なめの状態でこれらの作品を楽しんで欲しいのであまり詳しくは言及しない。見た人は検索とかしてみるといろんな人がいろんなことを言っているのでそれを読むのも楽しいぞ!

 

おわりに(「銀河鉄道の夜」と私)

 最後に思い出話を少し。
 中学生のときに「銀河鉄道の夜」に惹かれて、それからも節目節目で勉強する題材として「銀河鉄道の夜」を選び続けた。大学のレポートでは、文学をテーマとした講義以外でも「銀河鉄道の夜」を結びつけてレポートを書いた。そのたびにひとつ「銀河鉄道の夜」を知り、同時に「銀河鉄道の夜」から遠ざかるような気がした。
 どうしてこんなにも「銀河鉄道の夜」が好きなのか、自分でもよくわからない。けれど、ひとつの要因として中学生の頃の担任の先生のことが思い浮かぶ。国語の先生で、毎年クラス替えがあったにもかかわらず私は三年間先生のクラスだった。ずっと偶然だと思っていたけれど、よく考えたらクラス替えのたびに私を優先的に自分のクラスに入れてくれていたのだと気付いた。
 中学の頃の私は周りと上手くやれない問題児だった。学業は特に問題なかったが、周囲に合わせることがどうしてもできなかった。あまりに合わせられなくて学年担当の先生や保健室の先生から母に連絡がいくこともあった程度には問題児だった。
 当時の私は(今もだけど)、自分を曲げてまで合わせる必要があるのかどうかと葛藤していた。周りと合わせる努力はしてみたが、それでも私は合わせられなかった。親も他の先生も私に「周りに合わせろ」と言うなかで、担任の先生だけは言わなかった。居心地が悪くて班で給食が食べられない私は教卓に椅子を運んで先生と一緒に給食を食べていた。先生はそんな私に大学時代の楽しかった話をして「そのうち合う人たちと出会えるよ」と未来への希望をもたせてくれた。引きこもりや登校拒否にならなかったのは、先生と給食が食べたかったからかもしれない。
 中学生の頃に授業で「銀河鉄道の夜」をやった記憶がある。「銀河鉄道の夜」の物語の世界を絵にするという課題があって、絵は得意ではないけれど楽しんで取り組んだ。しかし当時使っていた教科書を検索しても「銀河鉄道の夜」は掲載されていない。どういう経緯で「銀河鉄道の夜」をやることになったのかはもう忘れてしまったが、私のことを考えて選んでくれた可能性もなくはないと、自意識過剰かもしれないが思う。中学三年生のときに自主的に本を手に取った記憶があるので、そちらが先で授業が後だったような気もするけれど定かではない。でもとにかく、「銀河鉄道の夜」のことを思い出すと、その根底には先生との記憶がある。
 もしかしたら、周りと上手くやれなかった自分にジョバンニを、そんな私を見捨てずに色々な話をしてくれた先生をカムパネルラに重ねて見ていたのかもしれない。中学時代の記憶はまるごと封印したいくらいつらいものだったから、同窓会も一度も行っていない。卒業式以来、先生にも一度も会っていない。連絡先も聞かなかったので、今何をしているのかすら知らない。
 勘違いされるかもしれないが、先生に恋をしていたわけではない。恋とか愛とかの類ではなく、私は先生が大好きだった。私が上手くやれないことを見抜いて、私が無意識に発していたSOSを受信して、しかし見捨てるわけでも押さえつけるわけでもなく、当時の私が気付かないようなかたちで私を助けてくれていた先生が大好きだった。あのとき誰よりも頼れる大人が先生だったし、あの頃の私にとって唯一の友達だった。
 教卓に椅子を運んでいって先生と給食を食べながらいろんな話をしたあのとき、私と先生はきっと銀河鉄道に乗っていたのだと思う。
 私は今でも「銀河鉄道の夜」を読み続けている。

 


 数ある日本の名作のひとつとしてタイトルくらいは知っている、という人が多いかもしれない銀河鉄道の夜。少しでも面白さが伝わっただろうか。
 教養のひとつという理由でもいいし、ここに挙げた関連作品を楽しみたいからでもいいし、前から気になっていたからこの機会にでもいいし、たまたま見かけた表紙が気に入ったからでも、なんとなく興味を持ったからでもいい。是非とも「銀河鉄道の夜」を手にとってみてほしい。
 
 幻想第四次の世界へ、ようこそ。

 

ポルノグラフィティのこの歌詞がすごい・晴一編

 ポルノグラフィティという二人は、すごい。彼らと出会って17年以上見続けてきて、自信を持って言える。あの二人はすごい。
 私は言葉が好きで(それもポルノの影響かもしれないが)、特に新藤さんの書く歌詞に惹かれ続けてきた。「アポロ」の歌詞に感じた衝撃は未だに忘れられない。「サウダージ」「アゲハ蝶」「メリッサ」などの歌詞も新藤さんの作だ。でも他にももっとすごい歌詞がある。みんな聴いて!歌詞見て!というわけで、シングル曲を中心に9曲ほど挙げて新藤さんの歌詞のすごさについて個人の独断と偏見と勝手な解釈with素人知識で語ってみたい。そのうち昭仁編も書きたい!

 

 
1.ネオメロドラマティック

行こうか逃げようか 君が望むままに 幸か不幸か ネオメロドラマティック
咲こうが摘まれる 君の絶望こそ こんな時代か ネオメロドラマティック

ネオメロドラマティック - ポルノグラフィティ - 歌詞 : 歌ネット

 

 この歌詞の何がすごいかというと、「k」の子音が多用されているという点だ。上に抜きだしたサビ以外にも、別のサビの歌詞にも「k」が多用されている。具体的に、上に抜きだした歌詞のどこが「k」の子音なのかをわかりやすくしてみると以下のようになる。
 
 いにげよう みがのぞむままに ネオメロドラマティッ
 さうがつまれる みのぜつぼうんなじだい ネオメロドラマティッ
 
 あまりにも多い「k」の子音は偶然出来上がったものではなく、意図的に組み立てられたものだろう。特にこれといって音声学や日本語学(というのだろうか)の勉強をしているわけではないのであくまでイメージの話でしかないのだが、「k」の子音は鋭くエッジの効いた音のように感じられる。つまり「k」の子音を多用することによって、エッジの効いた鋭さを曲全体に纏わせることに成功しているのだ。特に「幸か不幸か」なんてほぼ「k」。また、小節の頭の音(「いこうか」の「こ」、「こうかふこうか」の最初の「こ」、「こんなじだいか」の「こ」)も「k」になっているので、「k」の音が更に印象付けられる。メロディと歌詞とアレンジとボーカル・岡野さんのキレが良くさっぱりした声が一体となって、どこか無機質で機械っぽさのある、エッジの効いた鋭さを表現しているところがすごい。

 

2.EXIT

EXIT - ポルノグラフィティ - 歌詞 : 歌ネット

 部分を抜き出したところで意味がないので是非歌詞全体を見ていただきたい。
 歌詞の主人公「僕」が見ている地下鉄のホームの光景と、「僕」の気持ちが見事にリンクしていて、なんかもうすごいから見てよ!!!と叫びたくなるくらいすごい。
 1番Aメロでは「途切れない地下鉄に 吸い込まれ 吐き出され 他人ばかり」と地下鉄の情景が描かれる。BメロではAメロと同じ「他人」という単語を使ってAメロの光景を引き継ぎながらも「他人たちの海」という比喩表現で光景から心象風景への橋渡しをしている。そしてサビでは「狭い出口に言葉たちが殺到していて もどかしく立ち往生する やるせのない日々」とあるが、これはAメロの「途切れない地下鉄に 吸い込まれ 吐き出され」と呼応している。Aメロでは地下鉄の乗り降りの様子を擬人的にとらえ、サビでは言いたい言葉が殺到する様子を地下鉄の乗り降りの様子になぞらえている。更に最後のサビでは「闇雲に強い力で押さないで」という歌詞があり、これも地下鉄内の混雑の様子を思わせる。天才かよ。
 光景と感情のこれ以上ない見事なリンクだ。地下鉄の様子を描写しているのか主人公の感情を描写しているのかわからないくらい美しく重なっている。こんな美しい歌詞があるかよと叫びたいほどすごい歌詞。

EXIT

EXIT

 


3.月飼い

月飼い - ポルノグラフィティ - 歌詞 : 歌ネット

 「メリッサ」のカップリング曲。これも部分を抜き出すより全体を見てほしい。「月を飼う」というロマンティックなモチーフが使われた失恋の曲で、物語性のある歌詞が展開していることはわかるだろう。多様な解釈ができる歌詞だとは思うが、私はこの歌詞の物語を読みとったときに鳥肌が立った。
 1番では月を飼う「君」とそれをあたたかく見守る「僕」の様子が描かれる。2番では物語が展開し、「君」がいなくなってしまったことがわかるが、1番の様子からは別れが来ることを予想できない。そしてCメロで「僕」は水を捨て、月を空に返し、「君」を最後の恋人と呼ぶ。
 別れも告げずに突然いなくなってしまった「君」は病で亡くなってしまったのだろう。サビに出てくる、東から西へ向かう「舟」は、月と人間の一生を重ねている。月が昇る東=生、月が沈む西=死というイメージだ。その「月」を掴まえたままでは「君」がちゃんと西へ向かうことができないから月を空に返す。そして最後のサビでは「恋人よ 僕も向かおう 歩くスピードで近づこう」とあり、「僕」が「君」の後を追うのではなく「歩くスピード」=ちゃんと生きて「君」のいるところへ行こう、と決意している。
 「死」というワードを一切使わず、最初から最後まで明るいイメージを失わないまま、どこかファンタジックな世界観でこの物語を描く新藤さんの歌詞の素晴らしさ。
 作詞とは少し話がずれるが、新藤さんのギターは「歌う」と表現するのがぴったりなくらい感情を持った響きをしている。インストのギター曲ではもちろんメインボーカルとも呼べるほどに高らかに歌うのだが、新藤さんのギターのすごいところはギターソロでも歌っているところだ。この「月飼い」でいうと、2番サビ後の間奏のギターが「僕」の心情を表現しているようで、「君」の不在と「僕」の存在に葛藤するような、そんな印象を受ける。なので2番サビの次の歌詞が「窓の外に水を捨てた 月を空に返した」でも突然物語が展開したという感じはあまりしない。新藤さんの作詞とギターが相互に良さを引き出しあっている。

月飼い

月飼い

 


4.ワン・ウーマン・ショー~甘い幻~

星降る夜空に朝日の幕が下り
静かに消えたのは 甘い幻

ワン・ウーマン・ショー 〜甘い幻〜 - ポルノグラフィティ - 歌詞 : 歌ネット

 新藤さんの歌詞には宇宙や気象、天文、天体に関連する言葉がよく登場する。その中でも「月」「星」「夜」が多用されているという特徴がある。新藤さんの歌詞では「夜」は怖れるものというよりも味方であることのほうが多い。この「ワン・ウーマン・ショー~甘い幻~」はその最たる例といえよう。
 「こんな私でも幸せになれるかな?」というフレーズで始まるこの曲は、幸せな未来を思い浮かべられない恋をしている女性を主人公とした物語が描かれている。歌われる出来事は過去として語られていることからも、おそらくこの女性の恋は終わってしまったのだろうと読みとれる。そんな歌詞の最後のフレーズが上に挙げた2行だ。
 朝日が昇る様子はまるで世界が開けていくようにも見えて、何かが始まることを「○○の夜明け」と比喩的に表現することがある。夜が明けるということは、どちらかといえばプラスの印象を持った現象として受け取られる。しかし「ワン・ウーマン・ショー~甘い幻~」では「朝日の幕が下り」と歌われる。
 その前のサビでは「星降る夜空の大きなスクリーンが 映し出したのは"ワン・ウーマン・ショー"でした」とあって、夜空のスクリーンに朝日の幕が下りるという発想の転換。この意外性と、意外ながらもすんなりと腑に落ちるところが新藤さんの歌詞のすごいところだ。奇を衒って意外な言葉を使いすぎても意図が伝わらなくて意味がないが、「星降る夜空の見守る口づけ」「星降る夜空の大きなスクリーン」という言葉を重ねて「星降る夜空」がこの歌詞の世界観において大きな意味のあるもの、主人公「私」にとって大切なものであることを示している。だからこそ「星降る夜空に朝日の幕が下り」という表現が活きてくる。曲の終わりに「朝日の幕が下り」と終焉を告げるフレーズがあるのも収まりが奇麗。

 

 

5.愛が呼ぶほうへ

僕を知っているだろうか いつも傍にいるのだけど
My name is love ほら何度でも僕たちは出逢っているでしょう?
そう 遠くから近くから君のこと見ている

愛が呼ぶほうへ - ポルノグラフィティ - 歌詞 : 歌ネット

 リリース当時、この曲を「ラブソング」と書いてある場面に何度も遭遇したが、そのたびに「ラブソングだけどラブソングじゃないんだよな~!」となぜか得意げだったことを思い出す。
 この曲の「僕」は愛。愛を擬人化するという独特の発想から生まれた歌詞だ。モノを擬人化することはあっても、目に見えないし触れもしない愛という概念を擬人化するという発想はそうそう出てくるものではない。
 この曲で歌われる愛は必ずしも恋愛の類ではない。親子の愛だったり友情だったり慈愛だったりと様々だ。日常のあらゆる場面に散りばめられた多様な愛を掬って、全部ひっくるめて「僕」という一人称と人々を見守る視点とあたたかな言葉を与える新藤さんの作詞の力には驚かされる。

愛が呼ぶほうへ

愛が呼ぶほうへ

 


6.今宵、月が見えずとも

旅人気取りでいたいくせに 迷い道回り道が嫌いで
雨風凌げる屋根の下で グーグル検索で世界を見る

今宵、月が見えずとも - ポルノグラフィティ - 歌詞 : 歌ネット

 この歌詞の主人公「僕」は皮肉に満ちている。何者でもない己の無力さをわかっていながら、それでもまだあーでもないこーでもないと言い続ける、割とどうしようもない「僕」の歌だ。単純な言葉で綴られていたら飽きてしまいそうな内容だが、その表現方法がTHE新藤さんとも言うべき言い回しになっている。
 たとえば「太宰を手に屋上に上がり この世などはと憂いてみせる」という歌詞。この「僕」がどんな人物像かがなんとなく把握できる部分だが、それは聴き手の中に「太宰」とはどんな作家なのか、さらには「太宰治を読む人」がどんな人間か、という共通認識があるからだ。「この世などは」と憂いていなくとも、「太宰を手に屋上に上が」るような人物は厭世的な側面を持っているだろうと想像できる。新藤さんのこういった言い回しはたびたび出てくるが、特徴的ながらわかりやすくてさすがとしか言いようがない。
 また。上に抜き出した「雨風凌げる屋根の下で グーグル検索で世界を見る」という歌詞もいい。こういう皮肉を見ると「これだよこれ!こういうのだよ!」となんだかテンションが上がってしまう。スマホの普及率が高まり、誰もがすぐに検索できる環境を持った現代だからこそ通用する皮肉。もしかしたら10年後20年後にはこの歌詞の意味が通じなくなってしまう可能性はあるが、だからこそ確実に時代を切り取った歌詞だといえるだろう。それに、「太宰を手に屋上にあがり この世などはと憂いてみせる」ような人物はYahooよりもグーグルを使いそうな気がする。それも含め、この「グーグル検索で世界を見る」という表現は冴えわたっている。
 自己を冷静に皮肉りながらも現状を打破できない「僕」。シリアスなライトノベルの主人公のような雰囲気があって、この曲を聴く層(アニメ「BLEACH」劇場版の主題歌だった)に刺さる内容だったに違いない。
 新藤さんの歌詞には、I love youは「月が奇麗ですね」と訳すのがよい、というような回りくどさがある。しかしただ回りくどいのでは歌詞として成立しない。何が言いたいのかは読み取れるが直接は表現しない、という絶妙なラインを突いてくる。この絶妙なラインを的確に突けるのが、新藤さんの作詞のすごいところだ。

 

7.THE DAY

非常階段で爪を砥ぐ 明日はどっちだ? THE DAY HAS COME

THE DAY - ポルノグラフィティ - 歌詞 : 歌ネット

 新藤さんの歌詞において、運命は「来る」ものである。
 「Search the best way」の「運命が僕を追いかけるくらいに 清潔な衝動に正直でいたいんだ」というフレーズからも、新藤さんの歌詞に表現される運命というものについてわかる。その最たるものが「THE DAY」のサビで出てくる「THE DAY HAS COME」だ。
 この曲はアニメ「僕のヒーローアカデミア」(以下ヒロアカ)のOPになっている。歌詞も、ヒロアカを意識した部分があるとは思うが(でも近くなりすぎないようにあまり読みこまずに書いたとのこと)、ヒロアカを直接連想させるような明確なワードは使わず、しかし世界観はどこか共通している。それは新藤さんの作詞のテクニックがそうさせるということでもあり、新藤さんの作詞の世界観とアニメの世界観が似ているから、ということもある。新藤さんの書く運命観とヒロアカ主人公・出久に対する運命が似ているのだ。
 ヒロアカは「個性」と呼ばれる特殊能力を誰もが持ち、その「個性」を活かしたヒーローという職業が成り立っている世の中で、「個性」をもたない少年・出久が主人公だ。無個性だと馬鹿にされながらもヒーローになることを夢見る出久のもとに、No.1ヒーロー・オールマイトがやってくる。そしてオールマイトから個性を継承し、ヒーローを数多く輩出する雄英高校に通うことになる。
 まずオールマイトが出久のもとにやってくる。ヒロアカは敵を能動的に倒しに行くというよりは現れた敵を倒すことのほうが多い。つまり敵もまた出久のもとにやってくるわけだ。出久という少年に対して、運命のほうから「来る」。
 「THE DAY」の歌詞に唯一ヒロアカを連想させる歌詞があるとすれば、それはオールマイトの台詞「私が来た!」を思わせる「THE DAY HAS COME」=その日が来た、という部分だ。オールマイトが人々のピンチに駆け付けたときに言う台詞が「私が来た!」だが、これは出久にとっての運命であるオールマイトが出久の元に「来た」という意味も含まれているとも考えられる。運命が「来る」ことが共通しているから、ヒロアカと「THE DAY」は相性が良いのかもしれない。
 「THE DAY HAS COME」=その日が来た、という強い響きがまさに主人公・出久を取り巻く世界=ヒロアカの世界を言い表していて、タイアップではこういった歌詞のすごさにも気付けるのが楽しい。

THE DAY

THE DAY

 

8.LiAR

LiAR - ポルノグラフィティ - 歌詞 : 歌ネット

 「オー!リバル」「LiAR」と、ここ最近はラテン曲が続いている。ラテンはポルノグラフィティの特徴であり強みでもあるし、何より新藤さんのTHE豪華絢爛で煌びやかな歌詞が光りまくる。
 「オー!リバル」はどこか現実とは違う世界を思わせる歌詞だった。それに比べると、「LiAR」はやや現実に近い雰囲気となっている。一口にラテンといえど、歌詞の色合いを自在に変えることができるのは新藤さんの豊富な語彙と豊かな表現力のなせる技だ。
 タイトルからわかるように「嘘」がテーマとなっていて、嘘と本当の狭間で翻弄し翻弄される関係が描かれている。新藤さんの歌詞ではたびたび「真実と嘘は紙一重である」「信じるべきものが定まらない」というような内容が展開されるが、これもその一つかもしれない。
 また、「LiAR」は歌詞に「赤い血」「金の花粉」「白い仮面」と色を示す言葉散りばめられていて、曲調の鮮やかさとの相乗効果で更に鮮烈な印象を聴き手の頭の中に思い起こさせる。サビで二度「赤い血」「金の花粉」という豪華な色合いを想起させておきながら、最後のサビでは「白い仮面」で終わる。赤や金といった豪華な色彩が最後には白に塗り替えられるところが、「あなた」だけでなく「僕」もまた嘘つきだったというこの歌詞の結末の哀しさを彩る演出になっている。細部にまで美しさを散りばめた歌詞だ。

LiAR

LiAR

 

 

9.ひとひら

強くあろうと生きてきたから 変わらなけりゃいけなかったよ

ひとひら - ポルノグラフィティ - 歌詞 : 歌ネット

 岡野さんの書く歌詞は広く大きく包み込む愛で、新藤さんの書く歌詞はそっと隣に寄り添う愛だ。
 15周年突入を記念してリリースしたシングルベスト『ALL TIME SINGLES』に収録されている唯一の新曲がこの「ひとひら」だ。会社で残業をしている「君」が過去に思いを馳せる様子を歌っている。
 夢や希望に溢れていた頃と変わらないものがないか探して、そして出てくるのが上のフレーズだ。あの頃と変わってしまったとしても、それはただ時間が経過したから変わってしまったわけではない。あの頃から今に至るまで「強くあろうと生きてきた」と、歩んできた道を肯定してくれる。
 私がつらいときに繰り返し聴いていた「幸せについて本気出して考えてみた」にも「誰だってそれなりに人生を頑張ってる 時々はその“それなり”さえも誉めてほしい」という歌詞がある。当時の私が一番欲しかった言葉はそれだった。誉めて欲しいということを、誰かにわかってほしかった。
 新藤さんの歌詞は、沈んでいる人に手を伸ばして立ちあがらせることはしない。でも、そばにいてくれる。つらいときに「大丈夫だよ」と安心させるのではなくて「そうだね、つらいね」と頷いてくれる。つらさに共感してくれなくていい。ただ、つらいということをわかってくれさえすればいい。それだけで、なんだか気持ちが楽になる。
 私はそうやって何度も新藤さんの歌詞に救われてきた。「ひとひら」のこのフレーズも、昔と比べて変わってしまったことに悲しさや寂しさを覚えていた私を助けてくれた。きっと私だけではなくて、他にも沢山の人に寄り添ってくれている曲だと思う。

ひとひら

ひとひら

 

 


 15周年を迎えたときのライブ「神戸・横浜ロマンスポルノ'14 ~惑ワ不ノ森~」のパンフレットで、新藤さんは「死ぬ程良い歌詞が書きたい」と言っていた。これだけ沢山の素晴らしい歌詞を書いておきながら、まだまだ貪欲な姿勢が恰好いいと思った。だからこそ彼からは人の心に響く言葉が生まれてくるのだとも思った。
 これからも、新藤さんの紡ぐ歌詞の世界が広がっていきますように。

 

 

シンメトリーの妙なる技 ―「LiAR/真っ白な灰になるまで、燃やし尽くせ」―

 ポルノグラフィティ新曲「LiAR/真っ白な灰になるまで、燃やし尽くせ」が発売された。どちらもポルノらしさの強い楽曲となっている。ポルノグラフィティ44枚目となるシングルで、真っ赤なジャケットが目印。初回盤には台湾で行われたフェスの映像を収録したDVD付き。ちなみに楽曲は各音楽配信サイトでDL購入することもできる。

 

 ジャニオタでありポルノファンでもある身としては、この二曲が内包する「シンメ性」がほんとマジで冗談じゃなくやばい。ポルノのお二人がもつシンメ性についてはだいぶ前々から、それこそジャニオタになる前から感じ取っていたけれど、いよいよ楽曲までシンメになった。やばい。無理。あまりにも語彙がやばいので言葉にすることはちょっとアレなのだが、この「シンメ性」のうち対比という側面についてだけでも、まともな言葉を用いて一度まとめておかねばならない。
 既に発売から一週間経っているけれどダイレクトにマーケティングする記事を書いておきたい。良いと思ったものは推して推して推す。

 

 

「LiAR」と「真っ白な灰になるまで、燃やし尽くせ」の対比

 今回は両A面シングルとなっている。今までに両A面として発売されたのは「ネオメロドラマティック/ROLL」と「ジョバイロ/DON'T CALL ME CRAZY」があったが、今回は今までとはちょっと違う。というのも、「LiAR」は作詞作曲新藤晴一、「真っ白な灰になるまで、燃やし尽くせ」は作詞作曲岡野昭仁となっている。二人がそれぞれ作詞作曲した楽曲が両A面として肩を並べるのはポルノグラフィティ18年目の歴史で初めてのことである。やばい。胸が熱い。つまりこの両A面シングルはポルノグラフィティのお二人が並んで立っているようなもので、二人が並んでいるこのジャケット写真がそのまま二曲を表しているとも言える。やばい。
 また、この二曲は共にPVが制作されているが、全く同じ構図、カットで作られた「シンクロPV」になっている。それぞれ「LiAR」が炎、「真っ白な灰になるまで、燃やし尽くせ」が光をモチーフにしていて、ダンサーも男性と女性で対比になっている。非常にシンプルな構成ながら、同時に再生させることでやばさが増す(公式でシンクロPVのフルバージョンが11月20日までの限定で配信されているよ!)。ちなみに終盤ではどちらも炎と光を使っていて、二曲の世界が混ざり合うような雰囲気となっている。
 

www.youtube.com

 

www.youtube.com

(こちらの動画はどちらもショートバージョン)


 余談だし意図的なのかどうかもわからないけれど、歌詞にも対比的にとれる部分がある。多分意図的じゃないけど勝手に考察という名のこじつけをするのが趣味なので話半分に聞いてほしい。
 どちらの曲にも「鍵」が出てくるが、「LiAR」では

人は心にダンジョンを持ってて
いくつもの部屋に感情を隠してる
僕が見つけた鍵じゃどれも
合わないままに泣いた

というふうに使われていて、合わない「鍵」に主人公は泣いている。一方、「真っ白な灰になるまで、燃やし尽くせ」は

開かない扉の鍵を持ったその旅人
世界を切り開け 塗り替えていくんだ 心のままに 生き抜いていくために

こちらの「鍵」も「開かない扉の鍵」ではあるものの、その「鍵」に泣くのではなく、「世界を切り開け」と続いている。確かにその「鍵」で扉は開かないけれど、「鍵」で扉が開くか開かないかは問題ではない。
 二曲の歌詞の方向性の違いや、新藤さんと岡野さんの世界観の違いがわかって面白い。「メリッサ」でも「君の手で鍵をかけて」という歌詞が出てきたりもするし、一度「鍵」に焦点を絞ってポルノの歌詞を見てみるのも面白そうだ*1
 また、「LiAR」には「星のささやき」、「真っ白な灰になるまで、燃やし尽くせ」には「太陽が囁いた歌」という歌詞が出てくるのもなんだか対比的。

 
「LiAR」と「真っ白な灰になるまで、燃やし尽くせ」と過去曲の対比

 しかし今回の二曲はただただ対比されるだけではない。どちらも「ポルノらしさ」をもった楽曲となっている。
 「LiAR」は、ポルノといえば、とも言うべきラテンの要素を取り入れた楽曲だ。ポルノらしいラテンというと、映画「名探偵コナン 業火の向日葵」の主題歌だった「オー!リバル」が記憶に新しい。重要なのは「LiAR」と「オー!リバル」の作詞はどちらも新藤さんだが、作曲はそれぞれ新藤さんと岡野さんだという点だ。ポルノグラフィティは二人ともポルノらしいラテンのメロディを作れる。最初にポルノらしいラテンを提示したのは「アゲハ蝶」などを作曲した当時のプロデューサー、ak.hommaさんだが、彼がポルノに与えたものを二人とも吸収して進化させている。かっこいい。
 一方「真っ白な灰になるまで、燃やし尽くせ」はギターが前面に押し出されていて疾走感のある楽曲で、これもまたポルノに多いパターンだ。最近だとアニメ「僕のヒーローアカデミア」の主題歌だった「THE DAY」もこれに近い。大体言いたいことは分かると思うが、「THE DAY」の作曲は新藤さんであり、つまりポルノはラテンだけでなく疾走感という持ち味もまた、二人のどちらも作曲することができるということになる。「ポルノらしさ」がどちらか一方に依存せず、両者で表現できていることはポルノの強みのひとつだろう。
 作曲のパターンが最近の同系統の楽曲と異なることで、「ポルノらしさ」を出しつつも新鮮さのある楽曲となっているのではないだろうか。

  

 

 いろいろと書いたけれど、とにかく今回の新曲「LiAR/真っ白な灰になるまで、燃やし尽くせ」もとてもすごい楽曲だということが言いたいだけだ。「LiAR/真っ白な灰になるまで、燃やし尽くせ」が様々な曲と対比して楽しめる楽曲であり、その対比から「ポルノらしさ」をより強く感じられることが少しでも伝わっていれば嬉しい。

 


 
 ポルノグラフィティが「ポルノらしさ」を武器にした。怖いものなど何もない。

 

 

 

 

 

 

 

*1:ポルノの歌詞には多分「鍵」と「地図」と「旅人」がよく登場している気がするのでそのうち取り上げて考えてみたい

続きを読む