君と一緒に夢を見る ―NEWS14周年によせて―

 NEWS、14周年おめでとう。また今年もこの日を祝えて嬉しいです。
 今日のために何かを書いたとしてそれがなんだと思うのだけれど、それでもやっぱり何か書きたくて、NEWSの好きなところを(今までも何度も書いてきたけど)また改めて並べたい、と思います。

 

 手越さんの笑顔が好きだ。
 友達と集まったときに「ザ少年倶楽部プレミアムKinKi Kids光一さんゲスト回のプレミアムショーをメンバーそれぞれに焦点を合わせて見る、というのをやってみた。いつも音楽番組を見ているときはどうしても加藤さんに目がいってしまうので、それ以外のメンバーにずっと注目して見るというのは新鮮な体験だった。
 手越さんはずっと笑っていた。その歌詞にはその笑顔じゃないよ、なんて思わず笑ってしまうくらい、手越さんはずっと笑顔を絶やさなかった。歌いながら踊りながらずっと笑顔でいるなんて、簡単にできることではない。しかも、歌いなれていないであろう先輩の曲でもその笑顔を崩さない。今更ながら、手越さんが「アイドル」であるということを思い知らされた。
 それに、手越さんの笑顔には、とても強い力があるように感じられた。笑顔で歌う手越さんを見ていると、どんなに暗い歌詞を歌っていても手越さんが救ってくれそうな気がしてくる。圧倒的な光属性というか、圧倒的RPG主人公オーラというか、世界を救うのはこういう人なんだろうなと思ってしまうような力がある。手越さんならどんな相手にも「誰かを助けるのに理由がいるかい?」って手を差し伸べるんだろう。
 手越さんがコンサート等でファンに向ける優しい笑顔も好きだ。コンサート映像を見ると、手越さんが「あ!見つけた!」という顔で手を振っている場面がある。ファンはコンサートの日を楽しみに待っているけれど、手越さんもまたファンに会えるコンサートの日を楽しみにしているんだ、とわかる。ファンのことが大好きすぎてデレデレになってしまう笑顔も好き。
 メンバーと話して、口を大きく開けて笑っているのも好き。アイドルの笑顔と違って、等身大の男子感があって、世界も救えちゃいそうな主人公の手越さんもひとりの人間なんだと実感するし、何よりかわいい。
 15周年に向けて、手越さんが笑顔になれることが沢山起きますように。


 増田さんのクリエイティブに貪欲なところが好きだ。
 貪欲というかストイックというか、自分の思い描くものを実現するために努力も時間も惜しまないところがすごいと思う。他のジャニーズのコンサートに行ったりジャニーズ以外のコンサートにも行ったり、自分のインスピレーションになるものは何でも取り入れようとしていくし、言わないだけできっといろいろなものをインプットしていて、きっと増田さんの中には膨大な情報が詰め込まれているのだと思う。想像を絶するほどに。
 私はNEWSのコンサート衣装がすごく好きだ。メンバーである増田さんが手掛けているから、作りたいコンサートの一部として衣装が機能しているように見える。コンサートから衣装だけが浮くことはないのに、ひとつひとつの衣装のインパクトもある。奇抜なのに馴染むって、すごいことだと思う。そして何より「4人揃ったときが一番きれいに見える」というかたちなのがNEWSらしくて好き。NEVERLANDの衣装も、4人が一緒に踊ったり歩いたりしているときが一番美しく見えるように思えた。私には視覚的な美のセンスが壊滅的にないので衣装の善し悪しは今ひとつわからないのだけれど、NEWSのことをよく考えて作られているということはなんとなくわかる。
 きっと何度も打合せや試行錯誤を重ねて辿りついたものなのだろう。コンサートの準備時期になると、メンバーから「まっすーから衣装についての連絡が来る」とか「衣装の打ち合わせがあるからまっすーだけ打ち合わせの時間が長い」というような話が出てくる。いいものを作るための努力も時間も惜しまないところ、そしてそれを自分からはあまり表に出さないところ、とても恰好いいなと思う。
 それに増田さんは衣装を作って終わりなのではなく、更に改良を進めていくところもすごい。小山さんの「EMMA」の衣装、最初は襟の刺繍?がなかったけれどいつのまにか増えていた。コンサートの衣装も少しずつ変わっていくというし、より良くカスタムしていくことにも手を抜かない増田さんの貪欲さが見える。
 15周年に向けて、増田さんのつくるクリエイティブな世界を沢山見られますように。


 加藤さんの人間らしさが好きだ。
 加藤さんってすごく生身の人間で、この人を切ったら赤い血が出るんだと信じて疑わせない何かがある。「アイドル」という偶像でありながら生身であり続けることって簡単なことではないと思う。
 お正月をどうやって過ごしたとか、夏フェスのタイムテーブルとか、そんなことまで教えてくれる。加藤さんのラジオを聴いていると、まるで居酒屋で友達の話を聴いているみたいな感覚になることもある。「あのバンドがよくて」とか「この映画が面白くて」なんて話をこっちが拾いきれないくらいしてくれるのに、彼は友達ではなくアイドルなのだ。不思議。
 加藤さんの人間らしさはそれだけではない。「変化」という人間らしさもある。私が初めて好きになったときの加藤さんと、今の加藤さんは全然違う。別人、とまではいかないけれど明らかに違う。その変化は「成長」ともいう。
 20代前半から、加藤さんのことを見てきた。加藤さんはどんどん成長していって、それを見ている私は自分なりに努力をしても全然追いつけなくて取り残されたような気持ちになる。そもそも追いつこうだなんて思っていたのが間違いだと気付いたのはここ最近のことだ。私の道と加藤さんの道は違うのだから、違う道を歩いているのに追いつくも何もない。
 私は加藤さんのことが大好きで、でも大嫌いと思う部分もある。相反する感情を、彼に対して全力で抱いている。多分、大好きと思う気持ちが大きくなればなるほど大嫌いと思う気持ちも大きくなるのだろう。振り子ほどの安定感はなくて、空中ブランコみたいにいつもちょっと不安定に揺れ続けている。我ながら面倒だなと思うけれど、自然とこういうかたちになったのだから意識的に変えられるものではないので仕方がない。
 でもきっと、大好きと大嫌いがこんなにも私の胸に湧きおこるのは、加藤さんがあまりに人間らしいひとだからだと思う。私は加藤さんの人間らしさの一端は自分の感情に素直であることというのも含まれると思っていて、だから私も己の感情に誠実でありたい。
 15周年に向けて、加藤さんの人間らしさが沢山見られますように。


 小山さんの自然な気遣いが好きだ。
 私はきっとこういう大人になりたかったんだろうなと小山さんの気遣いを見るたびに思う。こんなふうにできたら、きっと私は自分のことをなんの衒いもなく「大人」と呼べたのだろう。そういう意味でも、私は小山さんに憧れている。台本にスタッフへの感謝の気持ちを書いて楽屋に置いておくとか、そういうひと手間を手間と思わないでやれる小山さんって本当にすごい。「気遣い」って、なくても問題ないものだと思う。なくても問題はないけれど、あったら嬉しい。そういう小さなプラスを積み重ねていく努力もすごいなと思う。
 常に周囲に気を配っているから、今自分が求められる役割はなんなのかを瞬時に察知できる。特に「NEWSな2人」ではそれが顕著だと思う。場がとがった空気になってきたらバラエティっぽさを出してやわらかくできるし、誰かの意見を一方的に悪者にしないように寄り添うこともできる。小山さんの優しさの成せる技だ。小山さんの優しさはお仕着せがましくなくて、「自分がやりたいからやっている」という感じがする。そんなの受け取り方次第だろうといわれたらそうなのだけれど、私にとっては私がそう感じたということが大切なので別に問題はない。
 小山さんの気遣いは、自分と誰かを繋ぎとめる手段のように、私には見える。というか私が「気遣い」というものをそういうふうに捉えている。芸能界という場所で生きていくうえでは、自分と誰かを繋ぎとめる能力ってすごく重要なのではないかと思う。普通に会社員をやっていても必要な能力だと痛感するのだから、個人に対して仕事のオファーがあるような世界では余計にそうだろう。
 常に誰かに気を遣っているように見えるから、そんなふうにしていて疲れないのかなと心配になるときもある。見ていて憧れるけれど、自分が全然できない分野だから余計にそう思ってしまう。けれど小山さんが2017年お正月の夜会で「メンバーに興味がなくなった」と言っていて、そう思えるようになったんなら少し安心だな、と思った。繋ぎとめようとしなくてもいなくならないって思えるようになったんだって、勝手に嬉しくなった。勿論これは私の勝手な思い込みであって、正解か不正解かはわからない。でも、小山さんが必死に繋ぎとめた「NEWS」というものが、もう崩れることはないと安心できたのなら、少なくとも私がそう思えたことが、嬉しい。そんなふうに思いながらも、小山さんの自然でさりげない気遣いは私の憧れなので、それもずっと見ていたいなぁと思ってしまう部分もある。わがままでごめんねと思うけれど、それだって小山さんは笑顔で許してくれそうな気がする。
 15周年に向けて、小山さんの気遣いが沢山の人を繋ぎ沢山の仕事に結びつきますように。


 NEWSの好きなところは沢山あるけれど、今一番話したいことをひとつだけ挙げるなら、一緒に夢を見てくれるところだ。
 一緒に夢を見てくれる、という言葉に、私は複数の意味を込めている。ひとつは「NEWS」という夢を一緒に見ていると実感できるということ。彼らが「NEWS」であることは当たり前のことではなかった。もしかしたら彼らが「NEWS」ではなくなる未来もあったかもしれない。しかし、彼らは「NEWS」であることを夢見て、選んで、掴み取った。だからこそ、私が「NEWS」に夢を見るのと同じようにNEWSも「NEWS」に夢を見ている気がする。それがすごく嬉しい。
 もうひとつは、NEWSとファンが共通の文脈を用いて「夢」と呼ぶ以外にない空間を共有して楽しんでいるということ。言葉を選ばずに言い換えるなら「茶番」とか「子どもだまし」とも言えるかもしれない。たとえば、NEVERLANDのコンサートの「NEWSが眠りの魔法にかかってしまいました」というくだり。眠りの魔法にかかったNEWSはファンのダンスで目覚め、「僕たちからのお返しです!」と言ってペンライトの明かりを一斉に灯す。私の頭の中の冷静な部分は、NEWSは眠ってなんかないしファンが踊ろうが踊るまいが起きてるしお返しって言っても制御のペンライトがついただけ、という。でも、その「NEWSは眠ってなんかないしファンが踊ろうが踊るまいが起きてるしお返しって言っても制御のペンライトがついただけ」を、NEVERLANDの文脈に沿って眠りの魔法だとかそれを解くダンスだとかペンライトの光を愛だとか呼んでNEWSも私も楽しんでいる。制御されたペンライトが一気についたらそれだけできっと奇麗なんだろうけれど、そこに「僕たちからの愛のお返し」という付加価値を乗せる。一緒に夢を見ているのだ。ひとつの夢を、一緒に作り上げている。
 日常なんてつまらない。コンサートという非日常にいるのに、制御されたペンライトの光がついたことを日常の延長線上みたいに「制御されたペンライトの光がついた」と捉えたら、それはひどくつまらない。だってせっかく非日常に、夢の中にいるんだから。子どもみたいに突拍子もない夢を見て楽しみたい。NEWSのコンサートにはそういう夢が沢山詰まっている。それをファンと一緒に楽しもうとするNEWSのことが、大好き。
 15周年に向けて、その先に向けて、また一緒に夢を見られますように。

 

 こうやって何かを書き残そうと思ったのはNEWSのおかげだ。NEWSが考える楽しさを、感じる心に正直であれということを思い出させてくれた。感じたこと・考えたことを文章にするようになって、少しは成長できているんじゃないかな、という気がする。NEWSがどんどん成長していくんだから、私ばかり置いてきぼりをくらうわけにはいかない。次にNEWSに会うときに、今よりちょっとでも自信をもてる自分になっていられたら。一方、NEWSはコンサートに対しても「次はもっとすごいものをファンに見せたい」という意識を忘れずに、毎回最高記録を更新していく。きっと私たちすごくいい関係なんじゃないかと、手前味噌だけども思う。

 

 今日現在、私はNEWSを好きなままでいる。小山さんを、加藤さんを、増田さんを、手越さんを、好きなままでいる。明日のことはわからないしその先のことはもっとわからない。このまま好きな気持ちが持続するかもしれないし、更に膨れ上がるかもしれないし、憎んだり恨んだりするくらい嫌いになるかもしれないし、どうでもよくなってしまうかもしれない。未来を約束できるほど、私は自分を信じていない。でも今この瞬間の私は紛れもなくNEWSのことを愛してる。それだけは自信を持って言い切れるよ。
 14周年おめでとう。アイドルになってくれて、NEWSでいてくれて、本当にありがとう。

とある「晴一チルドレン」の独り言 ―『ルールズ』感想―

 新藤さん二作目の小説が出版された。アスマートで予約しているにも関わらず発売日には届かなさそうだったので、本屋に行って買ってきた。『時の尾』が2010年なので、7年振りの新作となる。7年は待てたけど本が届くまでの1日2日は待てなかった。
 世間的にも夏休みは終わる頃ではあるけれど、夏休みの読書感想文もどきとして書いておこうかな、と思う。感想なので勿論主観100%です。物語の内容に触れまくりますので、未読(かつこれから読む予定がある)の方はご注意ください。

 

 

ルールズ

ルールズ

 


 新藤さんが小説二作目の題材に選んだのは、夢を見るバンドマンだった。
 物語は主人公・健太が天才ギタリストの青年――と呼ぶにはまだ幼さの残る少年・ハオランと出会うところから始まる。正直、もうこれ以上はあらすじすら話しちゃ勿体ない気がするので実際に手にとって読んでほしい。
 一作目『時の尾』は現実世界を舞台としていないという意味でファンタジー作品だった。「ファンタジーの世界のリアル」を感じさせる物語は、現実世界を反映させずに共感を得たり作品として美しく成り立つ新藤さんの歌詞の世界を更に拡張したようだった。しかし今回はリアルの世界に限りなく近いところで物語は展開する。バンドに懸ける青年の物語。この世のどこかにいるかもしれない誰かの物語。
 もしかしてこの主人公は新藤さんがいくらか反映されているのでは、と考えてしまうのは私だけではないと思う。現に新藤さんっぽい部分もあるし新藤さん本人も重なる部分があると言っている*1
 でも、それにしたって重なってしまう。主人公・健太の所属するバンド「オーバジンズ」からは、メインのソングライターが脱退してしまうのだ。もしこの小説を13年前の私に「未来の新藤晴一が書いた本だよ」と言って渡したとしても、決して読むことはできないだろう。2004年の今頃、ポルノグラフィティからはメインのソングライターが脱退して再スタートを切るところだ。たとえタイムマシンがあっても12年前の私にだけは会いたくない。多分いまごろ死んだような顔をしている。でもそこから13年生きると新藤さんの小説が二作も読めるよ、くらいは伝えてやってもいいかもしれない。
 率直な感想を言うと、「ポルノグラフィティのファンではない私に読ませたかった」に尽きる。たまたま図書館の「今月入った本」コーナーで見かけた『ルールズ』を手にとって著者名を見て「ふーん、ポルノの人ね、アポロサウダージアゲハ蝶ね」なんて思いながら読んでノックアウトされて新藤さんにポルノに興味を持って、そこからずぶずぶにハマっていく道を辿りたかった。それぐらいの力がある小説だし、中学生の頃に読んでいたら高校に入ったらバンドをやろうなんて考えちゃったかもしれない。お小遣いを貯めて楽器を買っていたかもしれない。私の中の夢見がちな部分が、バンドで楽器を弾いている自分を思い描いてしまう。そんな力をもつ作品だった。
 でも私は中学生ではないし、ポルノファンだ。ポルノファンというか、思春期に新藤さんの言葉や考え方に触れまくって生きてきたせいで私の中に根付いている考え方の元は新藤さんにあるかもしれないというくらい新藤さんに影響を受けている。そういう人のことを、心の中では「新藤チルドレン」とか「晴一チルドレン」と呼んでいる。ファンというか、ただファンと呼ぶ以上に影響を受けてしまっているので「チルドレン」とでも呼ぶしかない。私という人間の成長過程に、新藤さん(と新藤さんの言葉や考え方)は大きく関わってしまっているのだ。「晴一チルドレン」であるところの私が『ルールズ』を読んだ感想を一言に凝縮するなら、「私はやっぱり晴一チルドレンだったんだ」だ。思春期にあれこれ読んで聴いて心の中に刻みつけた言葉たちが、過ぎゆく日々の中でいつのまにか苔だらけになった記憶の中からまだ覚えてんだろと騒ぎ出す。覚えてるよ忘れるわけないだろ。なんたって私は「晴一チルドレン」なんだぜ。みたいな気持ち。
 そんな「晴一チルドレン」が『ルールズ』を読んで思ったことをざっくりとメモしておきます。

 

 

音楽は扉を叩く

 音楽には何ができるのか。音楽を生業としているわけではなく、音楽に浸かって生きているわけでもない私には「これ」と呼べるものは見当たらないけれど、でも音楽に圧倒された経験はある。歌詞ではなく、音そのもの。たとえば、新藤さんのギターソロだったり。
 『ルールズ』にもそんな描写が出てくる。グリムワルツとの対バンの場面、健太がハオランにオリジナルのフレーズを奏でろと音で語る場面だ。

(前略)つまり、お前は万のスーパーギタリストを父に持つ子だ。俺なんかの薄い血と違って、漉されて漉されて、ドロッドロのマグマみたいな血が流れてるんだ。お前の心のフィルターを通して音にするだけなんだよ。俺がぶつけるこの音の塊は、少し乱暴だけどお前の心をノックしているんだよ。(p202)

 これと同じことを描いている歌詞を、私は知っている。「m-FLOOD」だ。ダンダンと扉を叩くようなイントロ、そして「大人しく扉の鍵を開けろ」から始まる歌詞。タイトル「m-FLOOD」の「m」は「music」の頭文字だ。音楽は扉を叩く。

10だけ数える NoかYes決めるんだ
心の扉は自分でしか開けられやしないから

 中学生の頃、狂ったようにピアノの練習をしていた。3歳から習い始めて、それまで10年くらいろくに練習もしたことなんてなかったのに、10年間の練習量を一か月で上回りそうなくらいピアノを弾いていた。防音加工なんて何もないマンションの一室で、音が外に漏れてしまうのをなるべく防ぐために部屋を閉め切って弾いていた。夏には汗だくになった。勢いのある曲を弾いていると息が切れることもあった。正直、何が楽しかったのか今思い返してみてもよくわからないけれど、なぜそんなことをしていたかといったら多分ポルノが私の心の扉を叩いたからだと思う。自分も音楽をやっていないと、いてもたってもいられなかった。中学の卒業文集には「初めて行ったライブが楽しかった、音楽ってすごいんだ」という作文を書いたくらいだ。残念ながら音楽の才能はなかったようで高校2年になるときにピアノはやめてしまったけれど、今は心の扉から音楽ではなくて言葉が溢れ出している。だからこうやって文章を書いている。音楽と同様上手くはないけれど、音楽よりは得意かもしれない。

 ちなみに「m-FLOOD」は音楽の洪水という意味だが、『ルールズ』では音楽が自分の中から噴き出す様子を火山の噴火にたとえて「ヴォルケーノ」と表現している。「m-FLOOD」は歌詞を追うとわかるようにリスナーに呼びかけるので音楽はリスナーを巻き込む洪水=「身をまかせて Music Flood」となるが、『ルールズ』ではプレイヤーであるハオランに呼びかけているのでハオランの中から噴き上がるもの=「ヴォルケーノ」という表現になるのだろう。聴き手と弾き手、水と炎、内と外。対比が美しい。さすが新藤晴一


たったひとつの音にさえ

 俺たちの音といえば、軽やかに羽ばたくはずの音符に鎖で荷物を括り付けているみたいだった。ファンに向けてだの、デビューに向けてだの。目の前にガシャンと音を立てて落ちた。焦った俺は、やみくもに激しくベースを弾いた。そうすればするほど、音は輝きをなくした。
 当時の俺たちは、常連客のビートルズと、オーバジンズを比較する客観的な思考を持ち合わせていなかった。皆、頭を傾げたが、いつも使ってる楽器じゃなかったからな、という程度の分析をした。
 そういった意味で言うと、音楽に生活やら成功やらを背負わせていないフーバーズのほうが、純度の高い音なのではないか。いや、そもそもデビューを目指すことや成功を望むことは、音を濁すものなのか? 俺の頭はますます混乱した。(p158)

 健太がバンドの「音」を考える場面は、どうしたって新藤さんと重なってしまう。切り離して考えるには新藤さんのことをかけらも知らない状態に戻らなくてはならない。つまり私にはもうできない。重ねないようにと気をつけても、頭と心に刻み込まれた新藤さんの言葉が脳裏に浮かんでしまう。
 素人だから「音」についてなんてよくわからない。でも、狂ったようにピアノを練習していた時期はそれなりにいい音を出せていたような気がする。上手くなりたいとかいうよりも「弾きたい」という気持ちが勝っていた。ピアノを弾くためにピアノを弾いていた。何が楽しかったのかはわからないけれど、それでも楽しかった。満たされる、という感覚があった。健太のいう「純度の高い音」に近いものだったのかもしれない。
 物語の終盤で、レコード会社の偉い人たちの前で演奏するオーバジンズの「音」は、次のように描写されていた。

 俺が紡いだサビのメロディが、4人の音にのってライヴハウスに羽ばたいていくのが見える気がした。ビートルズの音楽に無邪気にじゃれあう、あのオヤジバンドが奏でていた音に近づけているだろうか? 打算や妥協みたいな重い荷物を背負わさない音。(p342)

 2016年9月、ポルノグラフィティは「17年目の所信表明」として「ダイアリー 00/08/26」を演奏した。歌詞にはフィクションを描くという新藤さんにしては珍しく、2000年8月26日に思ったことを歌詞にしたものだ。だからタイトルは「ダイアリー 00/08/26」。

汚れた手でギターを触ってはいないかな?
僕の声は君にどんなふうに聴こえてる?響けばいいけど。

 きっと、新藤さんの「音」についての考え方はこのときから変わっていない。どれだけ曲が売れたって、どれだけテレビに出るようになったって、きっと変わっていない。いつまでも健太のような気持ちで「音」を追いかけているのだろう。
 ポルノグラフィティがデビューして、もう18年が経つ。18年のあいだにいろいろあった。20代だったかれらは40代になり、メンバーそれぞれが家庭を持った。それでもまだ新藤さんは「音」にロマンを求めている。
 新藤さんは「ポルノグラフィティではやりたいことをやればいいというわけではない」と言う。ポルノグラフィティにはポルノグラフィティの文脈がある。その文脈を踏まえないものを作ったところで、それはポルノグラフィティではなくなる。それは、それほどまでに強固なものを彼らが築いてきたということでもある。だからこそ、健太の「音」に対する考え方に触れて不安に思った。健太が「デビューを目指すことや成功を望むことは。音を濁すものなのか?」と自問自答するのなら、ファンという存在がポルノグラフィティの「音」を濁らせてしまうことになってしまわないだろうか、と。彼らはファンのことを愛してくれているけれど、でもファンがいなかったら「ポルノグラフィティ」という文脈で曲を作る必要はないだろう。ファンがいるから、彼らは「ポルノグラフィティ」でいることを選択している。しかし、ファンがいなければ音楽はどこに届くのか。誰に向けて放たれるのか。ファンだけに向けてやっているわけではないと思っているけれど、溢れる音楽の中から選んで聴く人がいるから成り立つ部分もあるのではないかと思う。そう思いながらも、不安になることはある。
 新藤さんは夏フェスのセトリについて「みんなが知っている曲をやると喜んでくれるしそれは嬉しいけど、客が喜ぶことだけをやることが理想というわけではない」と言っていた。「だからといって全然知らない曲だけやるのも違う」という趣旨の発言もあった。こういうことを言ってくれる人たちだから、不安は払拭される。デビューという夢を叶えて、18年というキャリアを積んで、それでも彼らはいつまでも「打算や妥協みたいな重い荷物を背負わさない音」を探し求めている。上手くバランスをとりながら、それでもまだまだ青春の只中で夢を見ている。

たった一つの音にさえ真実があるんだよ。
それを追いかけてここまで来たんだけど、僕のはどうかな。
(「ダイアリー 00/08/26」)

 


 『ルールズ』を読んでいると、要所要所で「夢」についての話が出てくる。夢を追う青年の話なのだから当然といえば当然だ。主人公・健太の考える「夢」はやはりどこか新藤さんの考える「夢」を反映しているような気がした。
 レコード会社の人間である笹井はデビューのデの字も見えないオーバジンズを「夢の中で夢を見るバンド」(p191)と表現し、一方でデビューが決まっているバンド・グリムワルツを「両目を開けて現実の道を進むバンド」(p191)と呼んでいる。では、デビュー18周年を迎えるポルノグラフィティはどちらなのか。私は前者だと思う。
 新藤さんのエッセイ集『自宅にて』では「夢」というテーマについて書かれている。

 夢が叶って夢心地になるというのは、上を見なくなったときかもしれない。
 そんなら夢心地なんて、なれなくても、いいや。(「夢の話」)

 これは連載第一回「夢の話」の中に出てくる文章だ。雑誌「PATi PATi」2001年2月号に掲載されたものなので、ざっと計算しても16年前、ポルノが1999年9月にデビューして2年目に書かれたものということになる。
 2004年、ベースのTamaさんが脱退した直後の回でも、「夢」の話をしている。

ポルノグラフィティを仕事として僕が生きていけてるのは、まだ夢を見られているからだとも思う。ときどきは目が覚めそうなときもあるけどね。そういうときはぎゅっと頑なに目をつぶって、見ていた夢をたどり直すんだ。(「嘘でも前に」)

 私がポルノグラフィティの話をするときのサビだから何度でも語ってしまうのだけれど、2013年のライブ「ラヴ・E・メール・フロム1999」のオープニング映像でも「それでもまだまだ みんなと夢の中にいたい 時には薄目を開けて 周りをうかがいたくもなるが ギュッと目を閉じて」言っている。2001年、2004年、2013年、そして2017年、おそらく新藤さんの言っていることは変わっていない。「両目を開けて現実の道を進む」より、「夢の中で夢を見る」ことを選び続けている。夢を見続けることは、簡単なことではない。強い意思を持って夢を見続けることを選ぶ必要がある。

 凄腕のギタリストとはいえ現実を生きるハオランと、夢だ仲間だとやってきた俺とは、もともと交わるはずはなかった。しかし、俺はハオランや、こいつが背負う琴山村を知ることで、はっきりと変わったことがある。夢の世界にも地面があるって知ったことだ。宇宙空間のようにふわふわと浮いているだけじゃ、どこにも辿り着けない。毎朝、満員電車で通勤する人たちにしたら、そりゃ俺の足下は数センチほど浮いているように見えるかもしれない。それでもつま先で、夢の地面を掻いて進もうとしている。
 夢に地面があるなら、現実にだって空があるはずだ。その空をお前は見たんじゃないのか? 琴山村の空は東京より広いけど、それとは違う青い空を俺たちはおまえに見せてやれていなかったか?(p300)

 私は夢を追っているわけではない。なりたいものはあったけれど、それを叶える実力がなかったし、実力がないとわかっていながら足掻こうとする勇気もなかった。やろうと思えばできることはまだあっただろうけれど、私はやらなかった。何も成し遂げられない自分が嫌になることもある。それでも昨日の続きの今日を、現実を生きていくことを選んだ。
 もし私が『ルールズ』の帯を書くなら、「夢に地面があるなら、現実にだって空があるはずだ。」を引用するだろう。健太がハオランに空を見せたように、ポルノグラフィティは私に空を見せてくれる。たとえば「オー!リバル」のヒット、たとえば「THE WAY」の横浜スタジアムを空から映したドローン映像、たとえば台湾ワンマン、たとえば熱狂の夏フェス。夢の中にいる彼らだからできることだ。
 夢を見ることを選んでくれて、ポルノグラフィティでいてくれて、私にも空を見せてくれて、ありがとう。

 


哀しみとは絶対的なもの

 私は「感情の大きさは比べることができない」と常々思っている。たとえば私のポルノに対する「好き」という感情と他の誰かのポルノに対する「好き」という感情は比べることができない。どれだけお金を使っているとかどれだけ時間を割いているとか、そういうのは絶対的な評価軸にはなるかもしれないが相対的ではない。他者の「好き」を測るときに使えるものさしなどない。どちらが大きいとか、どちらが濃いとか、そういう比較をすることは不可能だ。それは「好き」という感情だけでなく「つらい」とか「悲しい」とかでも同じことだと思う。
 そういう考え方をしているので、時折周りの言葉が引っかかってしまうこともある。たとえば仕事を頼まれるとき「○○さんのほうがつらいんだから」という理由を持ちだされたことがあった。そんなの知らない。他者のつらさは他者のつらさであって、しかもそのつらさを私がどうすることもできない以上どうすることもできない。他者のつらさと私のつらさにはなんの関連もない。ないはずなのに、それが伝わらないことがたまにある。

 マリリンの過酷な人生も、俺の平凡な人生も、そこに個人的な哀しみがあれば、それは等しく核に取り込まれロックを燃やす。哀しみに相対的な評価などない。他人にとっては取るに足らないことほど、深く人の心を傷つけることがある。誰かに話せるほどのドラマティックな傷なら、それはそういう弔い方もあるだろう。しかしストーリーにもなり得ない、始まりも終わりもない傷はどうすればいい? 透明に見えて無数の傷に覆われたグラス。それが割れる前に、温かい手で包んであげないといけない。俺たち自身の手で。そしてその手は恒星の熱でなんとか体温を保っている。離れるわけにはいかない。そうして俺たちはぐるぐると回っている。(p316)*2

 健太は普通の子で、これといってドラマティックな人生を送っていたわけではない。けれど、彼が自分の胸に渦巻く感情を「哀しみ」と思うならそれは紛れもなく「哀しみ」だ。どこの誰の「哀しみ」とも比べる必要はない。その人がそれを「哀しみ」と思うならそれは「哀しみ」なのだ。
 『ルールズ』のあちこちに新藤さんのことを更に好きになるポイントが散りばめられているけれど、この部分でもそう思った。更に好きになるというか、だから私は彼が好きなのだと実感する。
 新藤さんはエッセイ『自宅にて』で「人は”完全”にわかり合えることはない」という話をしていたことがある。

 この“完全”はよく「絶対という言葉はない」の”絶対”に近い精錬さかな?
僕も「人はわかり合える」とは思うよ。むしろ人とわかり合えないと、生きていくことはとても苦しいものになるかもしれない。けれど繰り返すことになるが「”完全”にはわかり合えない」と思う。理由は結構あっけないもの。他人は自分じゃないから。

 人は完全にわかり合うことはないけれど、そこで終わりではない。完全にわかり合うことのない世界で新藤さんが提示した答えのひとつは、『ルールズ』でいうと「透明に見えて無数の傷に覆われたグラス。それが割れる前に、温かい手で包んであげないといけない」ということのようにも思える。完全にわかり合うことはできないとしても寄り添うことならできる。私はその優しさに救われたひとりだ。
 しんどい思いをしていた中学生の私が頼ったのはポルノの音楽だった。新藤さんが作詞した「幸せについて本気出して考えてみた」の一節は、私にとっては蜘蛛の糸であり青い鳥だった。

誰だってそれなりに人生を頑張ってる
時々はその“それなり”さえも誉めてほしい

 「つらい」と思っていることや「頑張ってる」ということを誰かに認めてもらいたかっただけだったんだ、と気付いた。そのくらいのつらさは誰にでもあるとか、そのくらいの努力なら誰だってしてるとか、そういうことは問題ではなくて、そんなこと言われたって気持ちは全然楽にならなかった。私がつらいということ・私が頑張っていることを誰かに認めてほしかった。他の誰かと比較するんじゃなくて「私」を見てほしかった。このたった二行のフレーズは、それだけで私の心を軽くしてくれた。

 


「バンド」

 ポルノグラフィティはデビュー前には「バンド」という形式だった。リアルタイムで見ることはできなかったけれど、記録を辿れば「バンド」だったことがわかる。ボーカルと、ギターと、ベースと、ドラム。なんの但し書をつける必要もなく、最低限この4つが揃えば「バンド」と呼べるだろう。それからドラムが抜けて「スリーピース」という但し書をつけつつも「バンド」だった。そして13年前に「バンド」と呼べるかどうか揺らぐこととなった。ベースが脱退したからだ。
 でもポルノグラフィティが「バンド」という形態ではないからできることも沢山ある。バンドだったら「オー!リバル」のような打ち込みのリズムの音を多用した曲は作れなかったかもしれないし、メンバー以外が奏でる音が含まれることを嫌って分厚く絢爛なサウンドにはならなかったかもしれない。
 私は今もポルノグラフィティを「バンド」と認識しているけれど、新藤さんが12年前に書いたエッセイの中では「バンド」であるということが揺らいだことが書かれているし、ライブ中に「バンド」と言いかけて何度も「ミュージシャン」と言い直す場面もあった。いくらファンが「バンド」と思っていたって、新藤さんには引っかかるものがあったのではないだろうか。
 もしかしたら、健太はギターではなくベースで闘う新藤さんなのかもしれないし、オーバジンズは「バンド」であり続けられたポルノグラフィティなのかもしれない。
 でもオーバジンズはオーバジンズであり、ポルノグラフィティではない。最後のほうを読めばそう言いたくなる気持ちがわかると思う。オーバジンズは2010年代のバンドで、ポルノグラフィティがインディーズだったのは1990年代の話だから、絶対に交わることはないんだけど、もしかしたら、なんて思ってしまう場面がある。そういうマジックだって起きるかもしれない。この物語はロックのルールでできているんだから、正気の頭で考えちゃいけないんだから。
 ギターが脱退してすぐに天才ギタリストと出会っちゃうなんて、そんなマジックが起きちゃうなんて、全然現実的ではないのだけれど、現実的ではないからこそ小説の中に描かれることに意味があるのではないか、なんて思う。それが創作の力だ。

 


 昨年、読売新聞ブログ「popstyle」で連載が始まったとき、楽しみという気持ちと共に怖いとも思った。この怖さを、私は知っている。NEWSの加藤シゲアキさんが書いた『ピンクとグレー』を読むときに感じた怖さだ。ただ小説を読むだけなら怖くない。けれど、『ピンクとグレー』が芸能界に生きる男性アイドルが書いた芸能界の話だったように、『ルールズ』(連載当時は「We are オーバジンズ!」)はバンドマンが書いたバンドマンの話だ。少し読めばわかってしまう、そこに書いた人の影があることが。もしも、私が見たくない彼の姿が見えてしまったらと思うと怖かった。今まで信じてきたものが打ち砕かれてしまう気がして。でも、読んでみてわかったのは私の知る彼は物語の随所にいる、ということだった。私知ってる、この小説を書いた人。たとえ名前を伏せていたって誰が書いたかわかる。読んでいて心の奥が痛くなる部分もあったけれど、その痛みも含めて、私は知っている。まるで名刺のような小説だ、と思った。

 健太は、数多のギタリストの技をその身に沁み込ませたハオランを「万のスーパーギタリストを父に持つ子」と表現している。だったら、新藤さんの考え方や言葉が刻み込まれた私は晴一チルドレンで間違いない。この小説を十代の多感な時期に読めなかったことは悔しいけれど、十代の多感な時期に新藤さんの言葉に触れて生きてきたことを幸せに思う。だからこそ、この小説を読んで心が動いたことをなかったことにしたくないから、そう教えてくれた人がいるから、こうやって10000字近くあれこれ書いているんだろう。言葉が溢れ出して止まらない。ヴォルケーノ、とでも呼んでおこうか。

*1:ポルノグラフィティ新藤晴一、手の感覚がなかった投球 - 朝日新聞デジタル&M

*2:ここでいう「恒星」はロックのこと。ロックを恒星にみたて、その周りにいる健太やマリリンのことを衛星とたとえている。

挑戦者であるために ―ポルノグラフィティのみる夢―

 9月8日にデビュー18周年を迎えるポルノグラフィティ。しかし彼らは少しも現状に留まるつもりはないのだと、昨夜の生配信番組「しまなみテレビ」を見て思った。わかってはいたけれど、思っていたよりずっと彼らは前を見ている。
 改めてそのことに気付き、あまりにも嬉しくて、その気持ちを書き留めておきたくてキーボードを叩いている。相も変わらず主観100%の文章です。

 

18年目、新たな挑戦

 今年のポルノグラフィティは新たに挑戦することが多かった。
 まずは生配信番組「しまなみテレビ」の開始。月に一度、Youtubeの公式チャンネルにて配信している約一時間(最近は一時間半くらいある)の番組だ。リリース時の音楽番組などでしか見ることのできなかった二人の姿を月に一度、しかもロケありライブあり最新情報ありでまるまる一時間も見ることができるというのはファンにとっては嬉しいことだ。もしかしたら、昨年末にX JAPANYOSHIKIさんの生配信番組に出演したことが影響しているのかもしれない。番組が配信されるたびにTwitterのホットワードに「#しまなみテレビ」が入っているのもすごい。
 そして台湾でのワンマンライブ2Days。元々は1日だったところ、チケットが完売になったため2日にしたとのこと。昨年台湾のフェス「SUPER SLIPPA」に出演したことがワンマン実施のきっかけとなったようだ。行くことはできなかったが、ライブ後のしまなみテレビでの話を聞いたりレポを読んだりする限り、ライブは大成功だった様子が感じられた。
 更に今年の夏は3本もフェスに出演した。新藤さんがTwitterでファンからセトリ案を募集した(募集したからといってそれをそのままやるわけではないけれど、どんなものをやってほしいのか見せて、という感じでハッシュタグ「#ポルノ夏フェスセットリスト」を作った)こともあって、フェスに行くファンも行かないファンも注目度が高かった。「ROCK IN JAPAN」「MONSTER baSH」「SWEET LOVE SHOWER」に出演し、どのフェスも行った方々のツイートも、ポルノに好意的な声が多かったように見えた。特に初めてポルノグラフィティを生で見た方々の声にはとても嬉しい言葉がいくつもあった。様々なメディアが書いているライブレポ記事からも会場の興奮が伝わってくる。

 

ポルノグラフィティ│ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2017 クイックレポート

 

 

ポルノグラフィティの考えるポルノグラフィティ

 昨日のしまなみテレビでは、フェスのことを振り返って二人がそれぞれに語る場面もあった。生配信番組ということもあって録画ができず、記憶を辿るしかないので言葉はそのままのものではない。だいたいこんな感じ、くらいに捉えてもらえれば。

 今回のフェスのセットリストは以下のようになっている。
 
ROCK IN JAPAN
01.今宵、月が見えずとも
02.メリッサ
03.アゲハ蝶
04.THE DAY
05.渦
06.Mugen
07.オー!リバル
08.Before Century
09.ハネウマライダー
10.アポロ

MONSTER baSH
01.今宵、月が見えずとも
02.THE DAY
03.サウダージ
04.Before Century
05.ハネウマライダー
06.アポロ

SWEET LOVE SHOWER
01. 今宵、月が見えずとも
02. THE DAY
03. オー!リバル
04. ミュージック・アワー
05. ハネウマライダー
06. アポロ

 新藤さんは「みんなが知っている曲をやると喜んでくれるしそれは嬉しいけど、客が喜ぶことだけをやることが理想というわけではない」「懐メロバンドになっているんだったら出る意味はない」という話をしていた。だからといってあまり知られていない曲ばかりをやってもきっと違う。その間をとった王道のセトリだ。
 ポルノグラフィティといえば、と問うたら返ってくる曲上位であろう「メリッサ」「アゲハ蝶」「サウダージ」「ミュージック・アワー」の4曲を全てやるのではないところに攻めの姿勢を感じるし、ここ数年の楽曲「THE DAY」は皆勤賞で「オー!リバル」も2回というところからは今の楽曲で勝負したいというポルノの思いが感じられる(おそらくモンバスは5曲+煽りのBefore Centuryという中で「サウダージ」とラテンで被ってしまうために外されたのだろう)。ロッキンではワンマンですらなかなか聴けない「渦」、フェスの熱狂にふさわしい「Mugen」も披露している。そしてどのフェスも「アポロ」で締める。「アポロ」で始めるんじゃなく「アポロ」で締めるところが最高に恰好いい。行けてないから具体的なことはわからないけれどセトリだけでうっとりしてしまう。

 ポルノグラフィティはとても冷静な目でポルノグラフィティを見ている。驕らないし卑下もしない。ポルノグラフィティとは、という問いを常に自分たちに投げかけ続け、そして答えを出し続けている。
 たとえば、新藤さんはポルノを「テレビ出身」と表現する。デビュー曲「アポロ」の音楽番組のプロモーションもあったし、それからも新曲が出るたびに必ず音楽番組に出演している。かつてはNHK(確かBS)でライブが放送されたこともあった。彼らの音楽も、売りだし方も、どちらかといえばなんて言わなくてもポップ寄りで、ロッキンの主催である雑誌『ROCK'N ON JAPAN』にも掲載されたことはなかった。だからこそ、ロッキンでポルノが大盛況だったという話を聴いてすごく嬉しかった。また、ロッキン出演者のなかには新藤さんに憧れてギターを始めたというギタリストもいた。
 新藤さんは「今のポルノで勝負できたら」という話もしていた。セトリに「THE DAY」「オー!リバル」が含まれているところからも、今の楽曲を聴いてほしいという気持ちが垣間見える。ファンがいくら今のポルノがすごいんだって言ったって届く範囲なんて限られている。彼らは、今の彼らの楽曲を何万人もの人たちの前でぶちかましてくれた。それが嬉しいし、なんだか誇らしいとさえ思う。現地に行けなかったためにフェスの様子はレポの写真でしか見ることができなかったが、ワンマンよりも遥かに多い人数がポルノの音楽に合わせて手を振っているところを切り取った写真は圧巻だった。これが私の愛するポルノグラフィティなんだと、誰にともなく叫びたかった。
 岡野さんも、フェスでの反応を喜ぶファンの声に「ファンの人も嬉しいんだね」と驚きつつも嬉しそうな顔をしていた。「ファンの人もきっとポルノにフェスに出てほしかったんだろうね」とも話していた。そういう言葉がすらっと出てくるところも、ファンがポルノを愛していることをポルノが理解してくれているようでなんだか嬉しい。変に卑下したりせず、愛されていることを受け止める姿勢は、彼らが「ポルノグラフィティ」を冷静な目で見つめることができるということにも繋がっている。

 ファンである私から見れば彼らがポルノグラフィティであることは当然のことすぎて特に考えることもないのだけれど、彼らは「ポルノグラフィティ」について、そして自分たちが「ポルノグラフィティ」であることについて、常々考えているように見える。
 新藤さんは「ポルノグラフィティでは自分のやりたいことだけをやっていればいいわけではない」と言うし、岡野さんも歌詞を書く際に「ポルノグラフィティの曲であるということ」を意識するという話をしていた(確かFC会報での話)。上手く言葉にできないけれど、きっと「ポルノグラフィティ」という文脈があって(ある、というよりは彼らと彼らに関わる人たちが作り上げてきたものだけれど)、新たな挑戦をしながらも「ポルノグラフィティ」であることを保ち続けようとしている。
 ポルノグラフィティポルノグラフィティであるということは決して当たり前ではなくて、彼らがそれを選んでいるのだと改めて気付かされる。ちょっと「ポルノグラフィティ」って書きすぎて何がなんだかわからなくなってきちゃったな。

 

ポルノグラフィティのみる夢

見果てぬ夢よりも今は叶えた夢の方が多くて
これから僕に何ができるか悩ましいこともある

 2008年、岡野さん作詞の「ダイアリー 08/06/09」にはそんな歌詞があった。また、エッセイ集『自宅にて』では新藤さんも同様の話をしている。

夢の中にいるはずなのに現実的……?それはまだ僕自身、上があることをわかってるからだろう。夢が叶ってまた新たな夢ができたからだろう。

 それでも彼らは夢を見る。ポルノグラフィティの現状を冷静に分析しながら、未来を夢見て挑戦し続ける。18年というキャリアがあるにも関わらず今の自分たちに満足することなくもっと上を目指し続ける。だからといって新人のような姿勢というわけでもなく、18年のキャリアは18年のキャリアとして捉えて、それらの上に成り立つ今のポルノグラフィティを考え、挑戦を繰り返してその先にある未来を見ている。
 新藤さんは「自分がポルノグラフィティでいられるのは夢を見ているから」だという*1。できることならいつまでも一緒に夢を見ていたい。

限りある人生 たとえ満たされても
留まることを選ぶより また次の一歩を刻む
いつでも挑戦者でいよう

 9/6に発売になる両A面シングル「キング&クイーン/Montage」の「キング&クイーン」にはそんな歌詞がある(まだ発売前なので正しい歌詞はわからないけれど、聴きとった感じは上記の歌詞)。まさしくポルノグラフィティのことだ。
 気持ちのままに書いているから何を言いたいのかだんだんわからなくなってきてしまったけれど、こんな素敵な人たちのファンでいられて私はとても嬉しい、ということを誰かに伝えたいってことです。

 

https://www.youtube.com/watch?v=nlwNsAS8N4Y


ポルノグラフィティ 『キング&クイーン/Montage』(YouTube ver.)

 

 ちなみに「キング&クイーン」は日テレ系のグラチャンバレーテーマソング、「Montage」はテレビ東京系アニメ「パズドラクロス」OPテーマとなっています!強めのタイアップがダブルでついてるなんて!最高!推されてる!新藤さんの小説も出版されたよ!ツアーも決まってるし趣味でレコーディングもしている*2みたいだよ!ポルノグラフィティはいいぞ!

 

キング&クイーン / Montage(初回生産限定盤)(DVD付)

キング&クイーン / Montage(初回生産限定盤)(DVD付)

 

 

*1:『自宅にて』や「ラブ・E・メール・フロム1999」のOP映像参照

*2:もうすぐアルバムが出ることの暗喩

小山さん推しプレゼンを作ったよ!

 小山さん、24時間テレビお疲れ様でした!手話ができることや生放送に慣れていることもあって沢山活躍していて格好良かったです!

 

 以前、Twitterで仲良くしている方のご友人がコンサートで小山さんにハマりそうという情報を得たので、すぐプレゼンだのレジュメだのを作るタイプのおたくである私は小山さん推しプレゼンを作った。せっかくなので24時間テレビ後に小山さんが気になった方向けにちょっと改良して公開します。

 実際のプレゼンはメモ欄にめちゃくちゃ書き込みがしてあるので、なるべくそこの部分も盛り込もうとしたら文字だらけになってしまった……。いつもの通り主観100%です。

 

 

はじめに

 

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シンプルながら可愛いテンプレートが作れて大満足です。

 

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 簡単なプロフィール紹介です。あくまで簡易的なプロフィールなので、詳しいことはWikipediaをご覧ください。

 

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 今回のプレゼンは私の思う「小山さんの推したいポイント」をメインに話を進めていこうと思います。本当はもっとあるけど簡潔にまとめるために絞りました。

 

お仕事がたくさん

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 小山さんのレギュラー出演番組を表にまとめました(「KちゃんNEWS」のみラジオ番組です)。
 news every.があるため、一週間に最大でこれだけ小山さんを見ることができることになります。全部録画したい小山担の皆さんはレコーダーの容量と闘う日々だそうです。ちなみにNEWSのメンバーである加藤さんは2017年の年始に放送された「櫻井有吉 THE夜会」SPにて「小山さんの出てる番組は基本的に絶対見てるし」と仰っていました。すごい。
 10月からはドラマ「重要参考人探偵」も始まります!!!

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魅力的なパフォーマンス

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 小山さんといえばダンス!というくらい、個人的に小山さんのダンスがとても好きです。どことなく90年代感があるというか、MAXやSPEEDを思わせるようなリズム感のいいダンスで、特にターンのときの腰周りが最高です。手足が長すぎて余っているところも最高です。手足が長すぎるがゆえに周りと協調性のないダンスになってしまうところが好きです。また、小山さんのダンスは指先がとても美しいので、小山さんのダンスを見るときは是非注目してみてください。

 

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 4人になって以来、NEWSはキーが高めになりました。そのため、声が低い小山さんには少々つらそうな部分もあります。しかし、そんな苦しそうな歌声もまた超魅力的なのです!(メンバーの加藤さんもそうおっしゃっています)それに、小山さんはキャスターをやっているため、滑舌がとてもいいです。歌詞が聴き取りやすい歌い方が素敵です!ぜひ注目して聴いてください。ちなみに、キャスターをなる前/キャスターになった後で歌い方が全然違うので、是非とも聴き比べてみてほしいです!オススメ楽曲にも挙げている「さくらガール」ですが、オリジナル(ベストアルバムなどに収録)がキャスター前、Reperesent NEWS Mix(シングル「EMMA」初回B収録)がキャスター後で、同じパートを歌っていながら歌い方が全然違うので、聴き比べに最適です。アルバム「NEVERLAND」収録の「U R not alone」などは小山さんの低音のよさが光っています。

 

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 小山さんの魅力が爆発するソロ曲。どれも小山さんのいいところしか詰まっていないのですが、特に「愛のエレジー」は必見。

 

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 10月からは5年ぶりの連ドラ「重要参考人探偵」も始まります!

 

愛されリーダー

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  24時間テレビでも「一番大切なもの」に「手越・増田・しげ♡」と答える小山さん。メンバーを愛し、そしてメンバーから愛される小山さんが大好きです!

 

おまけ

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個人的に好きな小山さん推し記事(プレゼンページ貼るよりリンク貼ります)

ykyk41042.hatenablog.com

lisakaiho.hatenablog.com

morningproject.hateblo.jp

 


 このプレゼンはできるだけフラットな目線で(全然フラットじゃないけど)小山さんの推しポイントを紹介しようとしたものなので、もっと私の好きなとこはここ!!!!!!!感の出ている私の小山さん推し記事も貼っておきます。

penguinkawaii.hatenablog.com

 

 私は小山担ではないけれど、小山さんのことが大好きです。人生で初めて出したファンレターは小山さん宛てでした。届いても届かなくてもどちらでもいいから、NEWSを継続するために小山さんがしていたことに「ありがとう」を伝えたいという気持ちでいっぱいでした。
 私の思い描く理想のアイドルに最も近いのは小山さんです。小山さんはアイドルでありながら、一緒に「アイドル」という夢を見てくれる。それに社会人としても尊敬する部分ばかりです。
 そんな大好きな小山さんの素敵なところが少しでも伝われば幸いです。

傲慢な私の傲慢な話 ―「いのちのうた2017」感想―

 生きていてごめんなさい、と今まで何度も思ってきた。
 いつ頃どのようにしてそういう思考回路が芽生えたのかはわからないけれど、小学生の頃に漠然と「私が死んでこの世の争いが全て収束するのなら死のう」と思っていた。勿論、私ひとりの命にそんな効力はないことはわかっている。そんな効力なんて誰の命にもあるわけないのに、私の命にないことがつらくて布団の中で泣くこともあった。そういう、とても傲慢な子どもだった。
 どうしてそういう考えが生まれたのかは覚えていない。でもきっと、生きていることへの罪悪感を打ち消すにはそのくらいのことがないと無理だ、と思っていたのだろう。じゃあなんで生きていることに罪悪感があるのか、と考えても思い出せない。私の人格が形成されるなかに、ごくごく自然に、その考え方が生まれたようにも思える。
 そんな子どもだったから、日々テレビで報道される事件や事故に心を痛めていた。特に、通夜や葬式で悲しんでいる遺族の方々の様子が映し出されると、どうして私ではなかったんだろうと思ってしまう。こんなに悲しんでいる人たちが沢山いるのに、私には何もできない。毎日毎日そんな気持ちになってしまうから、いつのまにか報道番組を見るのをやめた。今も、news every.は小山さんの特集コーナーくらいしか見られない。
 小学生の頃、大きな壁にぶち当たった。歴史の授業だ。ずっと昔のことは悲しみようがないけれど、私と同時代に生きている可能性があった人たちが沢山亡くなった痛ましい出来事については本当につらかった。だってその人たちは私と同時代に生きていたかもしれないのに。どこかで会うことができたかもしれない人たちなのに。怖くて教科書を開けなかった。ただでさえ眠れないのに、お風呂に入るのも怖かったししばらく眠れなかった。沢山の人が悲しんだし苦しんだ。今も悲しんだり苦しんだりしている人がいる。悲しまないでほしいし苦しまないでほしい。でも私にはどうすることもできない。ごめんなさいごめんなさいと何度も心の中で謝っていた。担任の先生が学童疎開の話をしたときも、私は何を思えばよいのかがわからなくてずっと考えていた。「怖い」と思うことは正しいのだろうか。「自分がその状況下にいたら」と想像すればいいのだろうか。想像したところで何か得るものはあるのか。「私だったら」と考えたところで、想像が及ばない。想像を絶する、とはこのことなのだろう。果たしてそれでいいのだろうか。
 国語の教科書に掲載されている戦争についての作品を読むたびに、どうすればいいのかわからなかった。自分が今生きていることを「良かった」と単純には思えない。私が生きていなくても私ではない誰かが生きていてくれるなら、そのほうがよいのではないか。
 たとえ知らない誰かでも、悲しんでほしくない。つらい思いをしてほしくない。苦しい思いをしてほしくない。痛い思いをしてほしくない。もう過ぎてしまった悲しみや痛みも、できればそんなのあってほしくなかった。私はそれらに対して何をすることもできないのが、本当につらい。
 だから私はなるべく他者の感情に介入することを避けることにしている。誰かの痛みは誰かのものであって私のものじゃない。誰かの嬉しいことは誰かのものであって私のものじゃない。そう思っていないと、私には何もできないという事実に耐えられないから。

 前置きが長くなったけれど、そういう傲慢な私が「いのちのうた2017」を見た、という感想文です。

 

 加藤さんがメインMCを務めなければ、NEWSが出演しなければ、きっと見ない番組だっただろう。つまり私は加藤さんがメインMCに起用された理由のひとつである「若い世代の人々への影響力」の影響下にあると言えるのだろう。
 特に印象に残ったのはコトリンゴさんの楽曲。今年の頭に「この世界の片隅に」を見たときは楽曲にまで思いを馳せることができなかった。映画は思わず笑ってしまう場面もあったし「日常を描く」という言葉でこの映画が語られる理由もすごくわかると思ったけれど、終盤は「何を思えばいいのかわからない」という気持ちと生きていることへの罪悪感が混ざり合って、すごくぐるぐるした気持ちでいっぱいいっぱいだった。今回改めて「みぎてのうた」を聴いて歌詞を改めて知って、心の底のほうがじんわりとあたたかくなった。己の傲慢さに苦しめられる私を「貴方などこの世界の/切れつ端に/すぎないのだから」という言葉で包みこむ。「どこにでも宿る愛」で包みこむ。「この世界の切れつ端にすぎない」私と、「どこにでも宿る愛」。ちっとも特別なんかじゃなくて、だからこそ「私」という存在のかけがえのなさを思った。
 NEWSと学生たちの歌う「U R not alone」は、未来への希望に満ちていた。輝かないタイプの学生だった私には眩しすぎるほどの学生たちだったけれど、輝かしい彼らにもたぶんそれぞれの胸にそれぞれの思いがあるのだろう。輝かない私の胸に私の思いがあるように。それってなんだか素敵なことだなと思った。もし彼らがいつかつらいことに直面してしまったとき(そんなことないほうがいいけど、そういうことがあったとき)、「U R not alone」が背中を押してくれたらいいなと思った。

 

 私はずっと、戦争を「語り継ぐ」ということについてよくわからないでいた。「語り継ぐ」といっても、戦争を経験していないひとが語り継げることなんてあるのだろうか、と思っていた。戦争を経験していないひとが語ったところでそれは「にせもの」なのではないか、という疑問がずっと頭の中にあった。戦争は繰り返してはならないと語るときの根拠が「自分ではない他者がそう語っていたから」では、強固なものだとは言い難い。それなのに若い世代が語り継いでいかなければと言われても、と思ってきた。
 けれど番組を見るなかで、加藤さんが様々な人に話を聴く映像を見るなかで唐突に気付いた。「語り継ぐ」ということは誰かの経験や体験をそのまま伝言ゲームみたいに伝えることではなくて、誰かの経験や体験の話をきいて「私」がどう思ったのかを伝えていくことなのだと。それは私がいつもやっていることだ。それならできる。私の中に強固な根拠を持つことができる。
 ずっと避けてきたから気がつかなかっただけで、私以外の人にとっては目新しいことでもなんでもなかったのかもしれない。でも、私にとっては大きな発見だった。

 

 そして、番組の最後は「あやめ」で締めくくられる。きっとどんな理由よりもこの曲ありきで加藤さんに決まったのだろう。ことばを扱う仕事を持つ人も、若者に影響力のある人も、探せば他にいるだろうけれど、「あやめ」という曲を持っているのは加藤シゲアキという人しかいない。そのくらい重要な位置に「あやめ」は置かれていたように感じられた。
 テレビを通して伝わってくる、いのちの躍動感。「いのちのうた」と名付けられた番組にぴったりだと思った。コンサートでは双眼鏡も持たずモニターも見ないタイプなのでどのように表現されているのかわかりづらい部分もあったけれど、種→芽→花という流れがわかりやすくかつ美しく描かれていた。
 加藤さんがあまりに激しく動くので、息がブレるところがあった。そこに彼の生を感じた。生きているということを、全身で示しているように見えた。私はあまり「あやめ」に神々しさを感じていないのだけれど、それは彼がまさしく今ここで生きているということを見せてくれるからだ、と思った。加藤さん自身の人間くささも含めて、彼からは「生」のにおいがする。人間よりも一段(あるいはもっと)上の存在というよりも、人間として歩いていく決意のようなものを感じた。
 「あやめ」は多様性をテーマにした楽曲だ。多様性とは、今この世界に同時に生きている人たちのことだけでなく、かつて生きていた人、これから生まれてくる人のことも指すのかもなぁ、と思った。漠然と思っただけなのでそれ以上のことは全然考えられていないけれど、そう思ったことを書き記しておく。
 それと、多様性を「認める」というけれど、きっと「認める」よりも「受け入れる」「受容する」ということばのほうが近いのだろう、と思った。世界は広いのだから、私の正義とは相反する正義を持った人もいて、ぶつかり合えば争いが生まれる。私は私の正義と相反する正義を正義と認めることはできないけれど、そのものを受け入れることはできるかもしれない。それは私の正義を否定することにはならない。「そうだね」と頷くこと、その先の言葉を紡がないこと。それだけで変わるものがあるような気がする。なんでも受け入れるからといって、その人の芯がないわけではない。自分とは相反する意見を、否定も肯定もせず受け入れることで、むしろ「私」という芯は強くなっていく。種から芽が出て、茎が伸びて葉が生い茂っていくように。
 この番組を見た人たちのこころにも種が眠っていて、番組をきっかけに芽が出て花が咲いたりするのかもしれない。私もそのうちの一人かもしれない。そう思ったら、自分のことも愛おしくなった。

 

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸《さいわい》のためならば僕のからだなんか百ぺん灼《や》いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙《なみだ》がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧《わ》くようにふうと息をしながら云いました。

 

 傲慢な私は「銀河鉄道の夜」を読んだときに傲慢なのは私だけではないのだ、と知った。ジョバンニという少年は、誰ひとり悲しむことのない「ほんとうの幸(さいわい)」を探している。それは命を賭して他者の命を助けたカムパネルラにも辿りつくことのできなかったところにあるものだ。きっと私が生きていく中で探すべきものもそれなのだと思った。私は「ほんとうの幸」を叶えたいのだ。
 私の知っている誰かも、私の知らない誰かも、全てのひとに救われてほしいし幸せになってほしい。そのためにできることはなるべくしたいけれど、私の力でとある人を救えたとしても別の誰かを救えないかもしれない。私の力の及ぶところにあなたの幸せはないかもしれない。
 たとえば私とは真逆の正義を持つ人がいたとして、私は私の正義を貫きたいけれどそれでもその人の幸せを願いたい。たとえば私が顔も名前もその存在さえも知らない誰かがいたとして、その人の幸せも願いたい。その人たちの幸せは私の幸せではないかもしれないけれど、それでも願いたい。
 傲慢な私は矛盾している。自分に誰を救う力もないとわかっているし、自分の幸せは自分で叶えるしかないとわかっているのに、それでも幸せであってくれと願わずにはいられない。私は私の心を守るために他者の感情に介入しないように、他者に興味をもたないようにしているけれど、それでも誰かの幸せを願わずにいられない。
 私は誰のことも救えないし、誰の幸せにも寄与できない。私のことを幸せにできるのが私しかいないように、その人のことを幸せにできるのもその人しかいない。だから、勝手に幸せになってくれ、と思う。私の知らないところで私の意思とは無関係に勝手に救われてほしい。勝手に幸せになってほしい。無力な私にできるのは、私の知らないところで勝手に幸せであってくれと願うことだけだ。

 

 せっかく見るのだから、全編通して見ようと思った。予定が入っていたので全国放送をリアルタイムで見ることは叶わなかったけれど、録画で全て通して見た。思ったよりもエンタメというか「音楽を楽しむ」という要素が強かったので、私が覚悟していたほどつらい番組ではなくてよかった、というのが第一印象。しかしそれでも生きていることへの罪悪感は胸に込み上げてきた。相変わらず私は傲慢で、つらい思いをした人や苦しい思いをした人に何もできないことが悔しいし悲しい。そんな力はないけれど、それでも悔しいし悲しいし申し訳ないと思う。
 自分が傲慢だとわかっていて、私はこの傲慢さを正す気はない。正せるものでもないし、そもそも私のなかではこれが正しい。「私」というひとの在り方として、この傲慢さは正しい。27年間生きて、己の傲慢さに悩んで出した今のところの答えだ。いつのまにか生まれていた考え方なのだから、いつのまにか消えることはあっても意識して消せるものではないのだろう。だったらそれも受け入れていきたい。
 


 今のところ、私の答えはこれです。

『Burn.-バーン-』を読み返した

 かつて読み返せなかった『Burn.-バーン-』(『Burn.-バーン-』が読み返せない - 来世はペンギンになりたい)を、文庫版になったのをきっかけに改めて読んだ。読み返せない、なんて記事を書いたのだからちゃんと読み返した記事も書こう、ということで。勿論、すべて私の主観であって主観以外のなんでもないです。引用箇所等のページ数の表記は文庫版のものです。

 

 

一人称と三人称のあいだ

 『ピンクとグレー』は一人称、『閃光スクランブル』は三人称で書かれている。三作目となる『Burn.-バーン-』はどうかというと、一人称と三人称のあいだのような人称で書かれている。
 全体としては三人称だが、時折レイジの一人称「僕」が混ざる。決して回数が多いわけではないけれど、時折でてくるこの「僕」のずるさがたまらなく好きだ。『閃光スクランブル』でもたまに出てきていたが、心の中で言っている台詞(多少の語弊はあるかもしれないけれど、「」で括られてはいないが括ったとしても不自然ではないもの)を地の文に混ぜ込んだかたちのものが多かったように思う。それは決して珍しいものではないし、読んでいて違和感もない。しかし、『Burn.-バーン-』では突然「あの頃の僕は機械同然だった。」(p77)*1という一文が出てくる。他にも数カ所、「ホテルの回転扉を抜けると世々子のワンボックスカーは数メートル先に停まっていたが、濡れるのを嫌がった僕らは立ち往生する羽目になった。」(p20-21)とか「僕が目を覚ましたときと同じように、声は乾燥してざらついていた。」(p70)「閉園時間まであることに僕は驚いたが、時代の流れからすれば自然なのかもしれない。」(p245)というものが出てくる。該当箇所の前後を含めて読むとよくわかるが、これらはレイジの台詞としてではなく、明らかに地の文の一人称として書かれている。
 前後の文章では「僕」にあたる人物は「レイジ」と表記されているのにもかかわらず、だ。一体どういう意味なのだろうと考えたけれど正解はわからない。でもなんとなく、「レイジ」と表記するよりも「僕」と表記したほうが、そこにレイジがいることがより強く伝わってくる気がする。『Burn.-バーン-』は三人称ではあるけれどもレイジが知らないこと・覚えていないことは描かれない。実質的には一人称に限りなく近い書かれ方のようにも思える。レイジが書き上げた舞台のタイトルもまた「Burn.-バーン-」だから、レイジが書いているのは脚本であって小説ではないのだけれど、でも小説のほうにもレイジの一人称が時折洩れてしまうところがあるのかもしれないなぁ、という気持ちになる。
 何よりこれを不自然にならないようにやってのけるところに小説家としての技術のすごさを感じるし、読み手としては単に「ずるい、好き」という感情しか湧かなくなってしまう。ずるい、好き。

 

時代を表すあれこれ

 加藤さんの小説には読み手が生きている世界に存在するものが登場することがある。それが最も色濃く効果的に現れたのが『Burn.-バーン-』だと思う。
 レイジの少年時代にはジャンプで「地獄先生ぬ~べ~」が連載されている(p139-140)し、自動販売機で買える缶の飲料が110円(p104)だ。レイジが大人になった現在では、生まれてくる子供が女の子だったらプリキュアにだって付き合ってやろう(p137)、と思っている場面もある。
 『閃光スクランブル』でも中村一義ピチカート・ファイヴの曲やさまざまな映画が登場したりするし『ピンクとグレー』にもそういった部分はあるけれど、時代を表すというよりは登場人物たちの人となりを表しているという意味合いで使われていたように感じられた。『Burn.-バーン-』は時代を行き来する形式で書かれているということもあって、登場人物の性格というよりも時代の説明として使われている。そのおかげで、同時代のどこかにレイジがいるような気がしてくる。
 「渋谷」というモチーフもまた同時代とか現実の延長線上であることを示すものではあるけれど、渋谷が身近ではない人には伝わりにくい部分もある。私は都民ではあるけれど、小さい頃は渋谷なんて遠いどこかみたいなものだと思っていたから、レイジの幼少期の渋谷にはなじみがない。宮下公園が変わっていく様子といっても、あまりぴんとこない。それを補うものとして、今は変わってしまっていて時代性を感じられるものが使われている。「ぬ~べ~」はもう連載していないし、自販機の缶の飲料の値段も変わったし、レイジが父親になるのが20年前の話だったらセーラームーンを一緒に見ようと思っていたことだろう。でもレイジは娘とプリキュアを見よう、と思うのだ。そうやって「あぁ、あの頃か」とか「あの頃とは違うんだ」と思えるアイテムをちりばめることで、渋谷の街の移り変わりが伝わりにくい人にも懐かしさを想起させられるようになっている。

 

文庫化にあたっての変化

 今回も文庫化にあたって直しが入っている。細かく検証したわけではないけれど『閃光スクランブル』ほど大きな加筆修正ではなさそうだ。しかし、それでも数カ所気になる変化があった。
 個人的に一番気になったのはラストシーンの変化だ。火災報知器が鳴ったあと、レイジが「徳さん。これはエールのつもりかい?」(単行本p257)と語りかける一文があったが、文庫版では削除されていた。単行本で読んだとき、その一文に泣かされたのを覚えている。
 大好きな一文が削除されていることは少し寂しいけれど、ラストの場面を通して読むと火災報知器が鳴ったときに徳さんのことを想い出していることは明らかだ。文章中でそれを明示するのではなく、読み手に委ねることでさらに奥行きのある文章になっている。前回『閃光スクランブル』のときも最初の巧の章のところでだいぶ心内文を削っていたので、加藤さんが直しで手を加えるときに気になりやすい点なのかもしれない。
 余談だけれどどちらが好きかっていうとより想いが伝わっている感が文章から汲み取れる単行本のほうかな……って思ってたけど比較して読んでいたら文庫版もいいなぁと思ってしまったので結局どっちも好き。

 また、文庫化にあたって表紙のイメージもがらっと変わった(記事下に両方のリンクを貼ってあるので比較して見てみてほしい)。単行本ではタイトルを連想させるオレンジ色に花とリスと金の箔押しの茨が目立つイラストだったのが、少年時代のレイジと徳さん・ローズのイラストになった。加藤さんの作品で登場人物がイラストとして描かれているのは初めてのことだ。単行本だとなかなか手が出ないけれど文庫版なら買える層に届きやすい表紙になったのかもしれない。
 それに、単行本が出版されたときのラジオ「SORASHIGE BOOK」でリスナーから「今敏監督作品の『東京ゴッドファーザーズ』を思い出した」と言っていたのを受けて影響があるというような話をしていた気がするから(あまり覚えていないけどなんらかの言及をしていたことは確か)、だとしたらこのキャラデザでアニメ化してもおかしくないような文庫版のイラストはすごく合っているんじゃないかな、と思った。

 

 

初期衝動と熱量と「小説家」

 加藤さんが『Burn.-バーン-』を書くときに「初期衝動と熱量」を強く意識していた、という話はあとがきにも書いてある。
 私が「小説家」という言葉を使うときには、ふたつの意味がある。広義としては、商業的に出版されている小説を書いている人のこと。狭義としては、自分の分身のような物語に頼らずとも小説を書うことができる人のこと。
 『ピンクとグレー』を書いた加藤さんはまだ加藤シゲアキではなかったし、小説家でもなかった。『ピンクとグレー』はどこか加藤さんの分身のような部分のある物語で、だからこそこんなにも初期衝動と熱量が読み手にも伝わってくるのだろう、と思う部分もある。自分には何もないと思っていた加藤さんが追い込まれた状況で、なおかつ初めて書いた長編小説。初めて書いた作品だからこそ、文章としてはもっとブラッシュアップできる点はあるが、どうしようもないほどの「熱」が詰まっている。読んでいる人にも伝染してしまうような熱が。たぶんこれは、初めて書いた小説だからこその熱で、もう一度同じような熱を持った作品を書こうと思って書けるものではないのだろう、と思う。
 『閃光スクランブル』は広義の意味での小説家・加藤シゲアキが書いた初めての作品だ。『ピンクとグレー』を書いたときの彼はまだ加藤成亮だったのだから、加藤シゲアキとして書き上げた作品という意味では『閃光スクランブル』が初となる。それに、加藤さんの軸であるNEWSとしての活動がまだ軌道に乗る前(4人で初となるコンサートの前)に書かれていたということもあってか、主人公の一人が加藤さんの趣味であるカメラをキーアイテムにしていたりもう一人は加藤さんと同じアイドルという職業であるからか、登場人物たちに加藤さんの姿を探してしまう。というか、探せてしまう。私個人としては、『閃光スクランブル』は加藤さんの分身のような物語の要素が大きい物語だった、と思っている。
 しかし『Burn.-バーン-』には加藤さんの姿を探すことはできなかった。勿論加藤さんが書いていることは文章の端々からこれでもかというほど読みとれる。でもこれは分身の物語ではない。加藤さんは私の思う狭義の意味での小説家になったのだ。加藤さんが『Burn.-バーン-』で生みの苦しみを味わったというのも、これが分身の物語ではないからなのだろうと勝手に思っている。加藤さんが意識している「初期衝動と熱量」という言葉の意味するなにかが、この作品からはとても強く感じられた。実のところ私にも「なにか」としか表現しようがないのでどういった言葉で表せば伝わるのかわからないけれど、軽い気持ちで読むと痛い目を見る作品、というのが一番近いかと思う。加藤さんの身体を切ったら赤い血が流れることを見せつけられているというか、そんな気持ちになった。わかっているのに改めて見せつけられると言葉を失ってしまう。それだけの覚悟のようなものが伝わってくる物語で、私にはそれが「初期衝動と熱量」の現れのように思えた。そして何より、分身の物語ではないのにそれだけのものが伝わってくること、これが小説家というものか、と思い知らされた。
 それが『Burn.-バーン-』を読み返せない理由でもあったのだけれど、改めて読んでみたら何を意固地になっていたのだろうとも思ったし、やはりどうしても刺さりまくるものがあってすごく痛かった。久々に傷つく覚悟で本を読んだ。これを書いた加藤さんの身体を切ったら赤い血が流れるのなら、これを読む私の身体を切っても赤い血が流れるのだ。加藤さんと互いに人間として対峙できる、加藤さんがアイドルであり小説家でもあってくれてよかった。
 私にとって、ある意味では加藤さんの書いたどの作品よりも特別な作品が『Burn.-バーン-』なのだと思う。

 

 

Burn.-バーン- (角川文庫)

Burn.-バーン- (角川文庫)

 
Burn.‐バーン‐ (単行本)

Burn.‐バーン‐ (単行本)

 

 

 

*1:ちなみに単行本では「あの頃の僕はただの機械だった。」(p76)

自担の本棚を読む2


 飽きずにまだ続けています。最近の加藤さんは忙しくてあまり読む時間もないだろうし、読んだ本が追加される前になるべく読みたい。といいつつ新しいオススメも知りたい。
 作品について考察をするのは好きだけれど、感想を書くという行為にはいまひとつ苦手意識が強い。基本的にいいところを褒めたいタイプの人間なので批評をしたいわけではないし、どこか偉そうな文章になってしまっていないかと不安になる。それが嫌でずっと避けてきた。でも作品に対して偉そうにならない感想だって場合によっては書けるのではないかと今までブログを書くなかで気付いたので、こうしてそれぞれの本に感想を書くことで少しは苦手意識を払拭できればなぁと。

 

『水やりはいつも深夜だけど』窪美澄 (角川文庫)

 紹介された媒体:「小説 野性時代」 2014年12月号(対談はこちらにも掲載:対談【加藤シゲアキ×窪 美澄】 | カドブン)、2015年6月放送「王様のブランチ」で映った本棚の中の一冊

あらすじ(Amazonより引用)
 セレブママとしてブログを更新しながら、周囲の評価に怯える主婦。仕事が忙しく子育てに参加できず、妻や義理の両親からうとまれる夫。自分の娘の発達障害を疑い、自己嫌悪に陥る主婦。出産を経て変貌した妻に違和感を覚え、若い女に傾いてしまう男。父の再婚により突然やってきた義母に戸惑う、高一女子。同じ幼稚園に子どもを通わせる家々の、もがきながらも前を向いて生きる姿を描いた、魂ゆさぶる5つの物語。

 

 窪美澄作品は初めてだったけれど、短編集だったのでさくさく読めた。短編だし一話ずつゆっくり読んでいけばいいやと思っていたのに面白くて次の話が気になって一気に読んでしまった。たくさんの「わかってほしい」という思いと、それにどう折り合いをつけていくかという話が様々な角度から描かれていて、自分に重なる部分も多々あった。
 短編はどれも、どこにでもある拗れた「家族」についての物語。この程度の拗れなんてどこにでもあるけれど、どこにでもあるからといって放っておいていいものではない。それぞれにつらい思いをしている。小さな棘が刺さったまま抜けないような、そんな痛みが描かれている。だけどそれらの痛みは決して治せないものではないということも書いてある、痛いけれど優しい物語だ。加藤さんとの対談が企画されたのも、この「痛いけれど優しい」という部分が共通しているからなのかなと思った。
 私は母に対してそこそこのあれやそれやを抱いているので、こういうふうに小説にしたら少しは救われるのかなぁと思ったりもした。ていうかこういう小説に書かれそうな生き方をしているなぁ、と少し反省した。笑
 もっと若いときに読んでいたらまた感じ方が違ったのだろうと思う。「家族」についての話を、結婚して夫と「家族」を築いていく今の私が読むのと、それ以前の私が読むのでは、全然違うものに思えただろうな、と感じた。本の内容なんて受け取る側次第なんだなぁと改めて思ったので、こんなところで他者の感想を読むよりも自分で本を読んでみてください。
 巻末に加藤さんと窪さんの対談(上のリンクのもの)が掲載されている。その中で加藤さんが「サボテンの咆哮」にグッときた、という話をしているのだけれど、その理由も非常に加藤シゲアキって感じがして最高。

水やりはいつも深夜だけど (角川文庫)

水やりはいつも深夜だけど (角川文庫)

 

 


煙か土か食い物舞城王太郎 (講談社文庫)

 紹介された媒体:タイプライターズ初回

あらすじ(Amazonより引用)
 腕利きの救命外科医・奈津川四郎に凶報が届く。連続主婦殴打生き埋め事件の被害者におふくろが?ヘイヘイヘイ、復讐は俺に任せろマザファッカー!故郷に戻った四郎を待つ血と暴力に彩られた凄絶なドラマ。破格の物語世界とスピード感あふれる文体で著者が衝撃デビューを飾った第19回メフィスト賞受賞作。

 

 メフィスト賞受賞作を読みあさっていた中学生のときに一度読んで、そのときはわけがわからないしなんだか怖いけれどページをめくる手が止まらなかった。読んでいるうちに息切れしてしまうような、そんな感覚に陥ったことはよく覚えている。本を読んでそんな気持ちになったのは初めてだったからだ。舞城作品を読み終えるといつも「42.195kmを全力疾走した感じ」と思っていた。
 あれから十数年経って改めて読み返してみると、もっと落ち着いた気持ちで読めた。逆を言えば、42.195kmを全力疾走することはできなかった。もうできなくなってしまった。十数年前と比べて、体力がなくなってしまったのかもしれない。でも読み終わったときの異様な興奮はなくなってはいなかった。
 事件が起きて、物語が進むにつれ解決には向かっていくけれど、本当のところ主人公は事件そのものに興味があるわけではない。というかこの物語が語りたいのは事件そのものではない。ミステリ要素はあるけれどそれを求めて読むとちょっと違うかも。でも、だからこそあっさりとたたみかけるような、いっそ爽やかと呼びたくなるようなラストが待っている。暴力描写がそこそこあるし文体が独特なので苦手な人は苦手なのだろうと思うけれど、好きな人はがっつりハマるのではないかと思う。
 『さらば雑司ヶ谷』や『煙か土か食い物』が好きということだから、ストーリーが突拍子もない(もはやファンタジーな)作品とか暴力描写が激しめな作品がお好みという一面もあるのかもしれない。『さらば雑司ヶ谷』を読んだのも発売された当初だったはずなのでもう一度読み返してみたい。
 それにしてもお気に入りの1冊が選べなくて持ってきた10冊の中に『煙か土か食い物』が入っている加藤さん、好き。文庫化されてないけど続編の『暗闇の中で子供』を読んだかどうかが気になる。

煙か土か食い物 (講談社文庫)

煙か土か食い物 (講談社文庫)

 

 


『イキルキス』舞城王太郎 (講談社文庫)

 紹介された媒体:2015年6月放送「王様のブランチ」で映った本棚の中の一冊

あらすじ(Amazonより引用)
 無軌道な生、理不尽な奇跡。支離滅裂な死、不可解な愛と暴力。みんなカナグリ生きている。吹きすさぶ言葉たちが紙の上に降り積もり小説となる。生をもたらすキスと、死を招くキスって何―?表題作「イキルキス」の他、文庫書き下ろし短編「アンフーアンフー」「無駄口を数える。」を含めた5編の中短編小説集。

 

 加藤さんの本棚にあったのは単行本のほうだったけれど、収録作品数も多いし文庫版を購入。
 表題作「イキルキス」は生と死と性と中学生の話。舞城作品は初期のほうが好きで『好き好き大好き超愛してる。』以降読まなくなってしまっていたけれど、改めて読んでみるとやっぱり面白いなぁと思った。
 5編の中で一番好きなのは「パッキャラ魔道」。私は舞城作品における「家族」(特に新潮社『スクールアタック・シンドローム』の表題作)がすごく好きなので、家族を描いたこの話が一番気に入っている。家族の話といったって全然ハートフルじゃないし、だからといって憎み合うばかりでもなくて、憎み合ったり殴り合ったりするけれどそこには愛と呼ぶしかない愛がある。愛があったからどうこうというわけではないけれど、ないよりはあったほうがいい。
 舞城作品は最後まで読んでも全然なにも解決していないように見えたり何がどう解決したのかよくわからなかったりするけれど、物語の中では確かに何かが解決していて、主人公はそれに納得していて、私は置いてきぼりにされたままで物語が終わる。あんまりにも置いてきぼりにされるので、いっそそれが気持ちいいような気がしてくる。もしも読者を置いてきぼりにしないように細かく説明がなされていたらきっとこんなに面白くないだろう。置いてきぼりにされてしまうからいいのだ。人間の感情って、説明してわかるものではないし、本人が納得していればそれがすべて、みたいなところがあるものだと思う。その「納得」に至る過程を垣間見ることができるから、舞城作品が好きなのかもしれない。
 また、文庫書き下ろしの「無駄口を数える。」がめちゃくちゃいい。たぶんこの作品の登場人物たちは全然優しくなくて、それぞれに自分のことしか考えていなくて、だからこそ人間らしさがあって、好きだなぁと単純に思う。八つ当たりみたいな理由で害を為す人も、見たくないものを無理に見せようとする人も、いる。だけどそんなの無視して生きたらいいや、と思える良作なので心当たりのある人は読んでみてください。

イキルキス (講談社文庫)

イキルキス (講談社文庫)

 

 

 


痴人の愛谷崎潤一郎 (新潮文庫)

 紹介された媒体:「ELLE JAPON」2017年2月号

あらすじ(Amazonより引用)
 生真面目なサラリーマンの河合譲治は、カフェで見初めた美少女ナオミを自分好みの女性に育て上げ妻にする。成熟するにつれて妖艶さを増すナオミの回りにはいつしか男友達が群がり、やがて譲治も魅惑的なナオミの肉体に翻弄され、身を滅ぼしていく。大正末期の性的に解放された風潮を背景に描く傑作。

 

 写真の良さもさることながら、特集の書評も加藤さんが書いているところが推せる「ELLE JAPON」2017年2月号。「書く男」が愛する”小説の中の女”、という内容で4冊選んでいる。『痴人の愛』はそのなかの1冊。
 谷崎潤一郎の『春琴抄』はすごく好きだけれど、それ以外は読んだことがなかった。どこかもったいぶった感のある文体はくどいと思ってしまうときもあるけれど、でもそれが物語と合っているし、先が気になって読んでしまう。直接的な性的描写はほぼないのに、書かれている内容以上に文章の表現の仕方が湿っぽくて、言外に言いたいことがあるのを匂わせてくるような印象を受けた。書かれている言葉よりも言外にある言葉のほうが饒舌、というような感じ。
 最初は大人しくて幼い可愛さのあったナオミはどんどん傲慢になっていく。それでもやっぱり可愛いところはあって、読んでいて「多分主人公はこういうところに惹かれてしまうんだろうな」と感じる部分もある。でも度が過ぎるふるまいが増えてきて、主人公はなんでこんなの許しちゃうんだよ駄目だよと思うのだけれど許してしまうからどうしようもない。この二人はどちらが駄目とかじゃなくてどちらも駄目なんだよなぁ、という諦念をもって行く末を見守るしかない。最後の一文を読んだとき、二人のこれからを想像してどうしようもない気持ちになった。
 私は新潮文庫推しなので新潮文庫で読んだけれど、普段から本を読み慣れている人にはそこまで必要ないんじゃないかと思うほど丁寧な注がついている。あまりにも丁寧すぎてネタバレをくらったので、新潮文庫で読む方はお気をつけください。笑

痴人の愛 (新潮文庫)

痴人の愛 (新潮文庫)

 

 


『かにみそ』倉狩聡 (角川ホラー文庫)

 紹介された媒体:「SORASHIGE BOOK」2014年9月7日放送、2015年6月放送「王様のブランチ」で映った本棚の中の一冊

あらすじ(Amazonより引用)
 全てに無気力な20代無職の「私」は、ある日海岸で小さな蟹を拾う。それはなんと人の言葉を話し、体の割に何でも食べる。奇妙で楽しい暮らしの中、私は彼の食事代のため働き始めることに。しかし私は、職場でできた彼女を衝動的に殺してしまう。そしてふと思いついた。「蟹…食べるかな、これ」。すると蟹は言った。「じゃ、遠慮なく…」。捕食者と「餌」が逆転する時、生まれた恐怖と奇妙な友情とは。話題をさらった「泣けるホラー」。第20回日本ホラー小説大賞優秀賞受賞作。

 

 「かにみそ」「百合の火葬」の2本の中編が収録されている。シゲ部で紹介される前から「読みたい!」と思っていたのに気付いたら3年も経ってしまった。ものすごく好みの話だったので、これを読まないまま人生終わらなくてよかった、と思っている。
 表題作「かにみそ」は主人公が拾った蟹が人を食べるようになって……という話なのだけれど、蟹が人を食べる描写がとにかくエロい。蟹の食事風景が主人公「私」の一人称で語られているのだが、すごく上品で美しいものを見ているみたいに緻密に表現されている。状況を想像したらグロテスクなのだけれど、主人公の語り口からは上品さとか美しさが感じられてしまう。食事というのは「生」と「死」の命のやりとりであり、「性」にも通ずる(話すと長くなるので詳細は割愛するけどなんとなく伝わってほしい)。なので蟹の食事風景がエロティックに描かれているのも、蟹の食事風景に主人公が惹かれてしまうのもすごくわかる。『傘をもたない蟻たちは』収録の「イガヌの雨」で主人公がイガヌの味の魅力に抗えない様子も他の短編に出てくる性描写よりエロティックだなと思ったけど、やっぱり食事風景とか食欲という欲求ってそういうものなのかなと思った。多分こういうのが好きな人は一定数いるから、心当たりがあったら是非とも読んでほしい。
 また、蟹と主人公の関係性もとても魅力的だ。友達同士のようで、恋人同士のようで、一言で片づけることはできない。蟹が「ともだち」と形容した関係、一人と一匹は間違いなく、何らかの「情」で結ばれていた。友情なのか愛情なのか同情なのかなんなのかはわからないけれど、何らかの「情」が確かにある。一人と一匹は、強固な執着によって繋がっていた。
 この物語の主題は「食べること」だろう。食べるものと食べられるもの、生きるために食べること、食べるために殺すこと、食べなければ死ぬこと。「食べる」という行為が孕むおぞましさと不可避性が、温度の低い文章で、しかし確かな質量をもって綴られている。「食べる」という行為について疑問に思ったことのある人や宮沢賢治の「なめとこ山の熊」や「よだかの星」が響く人には何かしらの響くものがあるのではないかと思う。
 もう一本の「百合の火葬」は不思議な生き物=百合に翻弄される大学生の話。こちらも「生」や「死」が大きな軸になっている。怖さとしては「百合の火葬」のほうが上かも。しかしホラー的な怖さというか、得体の知れないものと相対する怖さといった感じ。
 ホラー文庫から出ているものの、そこまでホラーではなくて、エンタメと純文学のあいだのよう。どちらも読み終わった後に切なさが残るような作品だった。

かにみそ (角川ホラー文庫)

かにみそ (角川ホラー文庫)

 

 


 今回は海外作品への苦手意識が垣間見えるラインナップになってしまった。次はもうちょっと海外作品にも挑戦したい所存。

 中学生の頃から、タイトル/著者名/出版社名/読書開始日~読書終了日をルーズリーフに記録していた。多少の断絶はあったけれど、本を読まなくなる大学3年生のときまで続けていた。並んだ本のタイトルが私の糧になっていると思うと私の生きる価値がちょっと増したように思えて、その記録を大切に保管していた。さすがにもう捨ててしまったけど。
 私はいま20代後半で、あと数年で30歳になる。あと数年といったって、このペースだとすぐにきてしまう。それまでに本を沢山読み沢山考えて今の私より少しはましな人間になっていられたらな、と思ったので、もうしばらくは加藤さんの読んだ本を追ってみようと思っている。